霊について考察してみる その2 (2004.11.23)

 エッセイとは何か。自分のサイトには小説、ゲーム、プログラミング講座、それとエッセイがある。小説やゲームは、みんなに楽しんでもらうためのものだ。プログラミング講座は、ささやかな知識ではありますがもらって下さい、という意図がある。しかしエッセイや日記の類は、ちょっと意図が違うと思う。

 もちろん、笑ってもらおうとか、お役立ち情報を提供しようという目的で書いている人もいるだろう。が、その場合は何か名前をつけて、別の項目として独立させてもいいものだ。そうじゃなくて、その時々に感じた事、思った事をぐだぐだと書き連ねる場合である。

 エッセイや日記は、自分の妄想を披露する場だと思う。(妄想で書いているわけではない方、ごめんなさい。)これはインターネットのエッセイに限る。芸能人が書いた、本として売られているエッセイは、だいたい自分の人生をまとめたものになっているものだと思う。

 なにしろ妄想であって、論文とかではないのだから、キモい事を書こうが解釈が大幅に間違っていようが構わないのだ。うん、きっとそうだ。そうに決まった。(←誰も批判などしていない。)
 と断わったので、安心して妄想を書くのである。というわけで「霊について考察してみる その2」である。

 一般に、いい事をした人は天国に、悪い事をした人は地獄に行くことになっている。そして、人間だけでなく生き物はすべて死んだらあの世に行く。すると、例えばカマキリはどうなのか。カマキリには善も悪もない。カマキリが他の生物を殺して食っても、誰もそれを悪いことをしたとは言わない。カマキリは天国に行くのか? 地獄に行くのか?

 仏教には六道という考え方があって、善悪の大きさによって、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界に転生する。餓鬼界は常に飢えている世界だ。食い物や飲み物を求め続ける。畜生は虫や動物のことだ。修羅界は常に戦い続ける世界、天界は神様の世界だ。一番悪いのが地獄で、一番いいのが天界だ。が、天界もゴールではなく、その次にあるのは解脱だ。解脱すればもう輪廻転生しなくていい。

 つまり、天国や地獄とカマキリ(畜生)を分けている。ということは、畜生は天国や地獄とは切り離された存在で、独立しているのだ、と考えればつじつまが合う。だがそうでもない。畜生も輪廻転生するのだ。今餓鬼界や修羅界を省いて考えてみると、天国に行くほど善くもなく、地獄に行くほど悪くもない人は、一旦畜生になり、その後天国や地獄に行くことになる。

 が、先に書いたように動物や虫にいい悪いはないはずだ。善いことをすればよりレベルの高い世界に、悪いことをすればレベルの低い世界に転生するはずだ。これではいつまでたっても畜生のままで、永遠に解脱できないことになってしまう。

 生物は細胞から成っている。一つ一つの細胞も生命であるとするのは強引だろうか。少なくとも赤血球や白血球は独立した生命だ。また、細胞1つからでもクローンは作れる。生物にはすべて魂があるとすれば、各細胞にもまた魂があるはずだ。とすると、人の魂はたくさんの細胞の魂から成っていることになる。細胞は日々死んで生まれてくる。すると日々体中の細胞が輪廻転生し、地獄に行ったり修羅になったり天界に行ったりしているはずだ。これは変ではないか? 普通に考えて魂は1つで、それが輪廻転生するはずだ。それともこれでつじつまが合っているのか?

 日々細胞は生まれ変わっているが、総体として死ぬのは脳や心臓の活動が停止した時だ。今仮に、各細胞に魂があり、各細胞にカルマがあるものとして考えてみる。カルマというのは、RPGの経験値のようなものだ。意味はまったく反対だが。経験値は主人公が成長するに従って増えていくが、カルマは善いことをすれば減り、悪いことをすれば増えていく。カルマの量によって、次にどこに転生するかが決まる。現世のカルマは来世に引き継がれていく。

 各細胞のカルマの合計が総体のカルマになるはずだ。悪いことを考えるのは脳だ。すると、脳細胞のカルマが増えていく。それを実行に移せば、それを行った体の部位のカルマが増えていく。万引きをすれば手の細胞、人を蹴飛ばせば足の細胞のカルマが増えていく。言葉で傷つければ口のカルマが増えていく。

 最終的な総体としてのカルマは、脳や心臓の活動が停止した時点での各細胞のカルマの総量となるはずだ。一見、これでつじつまが合うように思える。実行に移さなくても悪いことを考えただけでも地獄に堕ちるというキリスト教の考えとも合っている。

 が、これでは変なのである。各細胞は毎日輪廻転生しているので、せっかくカルマがたまらないように気をつけて生きてきたのに、最後に生まれた細胞の前世がたまたますごく悪い奴であった場合、総量としてのカルマが一気に増え、善行を積んで生きてきたのに地獄に堕ちることになってしまう。

 それとも総体として考えるからいけないのだろうか? すると脳細胞だけが地獄に行き、手足は天国に行く、ということも有り得る。体中の細胞がてんでバラバラにいろいろな世界に転生するのだろうか。これもおかしな話である。

 そもそも六道というのは人間にだけあてはまる考え方であって、細胞について考えても仕方ないのだろうか。そんなことはない。六道の中にちゃんと人間だけでなく畜生も入っている。カマキリもアメーバも輪廻転生するのだ。単細胞生物も生物であって、おそらく畜生の中に入る。だから人間の細胞一つも生き物なのであって転生するはずだ。

 あるいは、悪いことをすれば死後、よりレベルの低い世界に、善いことをすればより高いレベルの世界に生まれ変わるという前提が間違っているのだろうか。一般的な解釈はそうだが。そこで今ちょっと検索してみた。すると、よく分からない。どうも仏教ではそんな単純なことを言っているわけではないらしい。六道というのは別に死後のことを言っているわけではない。日常生活の中でも6つの世界を行ったり来たりする。餓鬼は、例えばいくらほめられても喜びを得られない状態であり、足を上に、頭を下にしてどんどん落ちていく無間地獄は、思考がすべて逆になっている状態を表しているという。つまり精神状態のことを言っているわけだ。じゃあ死んだらどうなるの? という事に関しては、それに対する答よりも、どうして今自分がそんな事を考えているのかの方が重要だ、ということらしい。問いに対する答を見つけるのではなく、自分の問いの中に自分を見つけ出すのだ、と。

 そうか、私がこういうことに関心を持っていること、死後の世界や霊や妖怪や怪奇現象に興味を持っていることが重要なのだ。こんなつまらないエッセイを書くことも、たいしてウケもしないゲームを作ることもやめちゃって、今すぐ恐怖小説を書くべきだ! って、おい。

 そんなことを言い出したらいくら霊や魂について考察しても意味がなくなってしまう。

 そもそも仏教で考えるからよくないのだろうか。仏教はインドから入ってきたものだ。死後の世界観なんて国によって全然違う。日本人なら日本の宗教(神道)、あるいは神話に頼るべきか。神道では、先祖の霊が神様である。自分の後ろについて見守っている。ということは、死後は守護霊かなにかになって子孫の背後につくことになる。日本神話の場合、あの世に相当するものは常世国(とこよのくに)、高天原(たかまがはら)、黄泉(よみ)の国、根の国等がある。黄泉の国は古事記よりもはるか前に中国の書に多く見られるので、日本独自のものでもないらしい。

 常世国は豊穣の源泉地であるという。高天原もめでたく平和な世界であるらしい。ただし高天原は自然神、創造神、中臣(なかとみ)や惣部(もののべ)等の有力氏族の祖神や氏神やそれらの家来くらいしか行くことができない。つまり神とエリートしか行けない。根の国は陰惨でけがれに満ちた暗黒の地であるとも、地上に豊穣をもたらす根源の国であるとも言われている。

 高天原は行ける条件がはっきりしているが、他は条件が分からない。根の国に至っては天国か地獄かも分からない。

「その2」などと言って考えてみたが、結局よく分からないのであった。


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