ないと信じたい (2005.1.4)

 前に「あの世があったら怖い」人と「なかったら怖い」人がいると書いた。私は「あったら怖い」派なので否定したい。もちろんあるともないとも証明できない。だが信じることはできる。

 あると断言できる人、ないと断言できる人はうらやましい。その人だって証明はできない。だが、ある、またはないと信じている。迷いがぐっと減る。「脳の機能が停止すれば意識なんてあるわけないじゃん」と思えれば、今の人生がすべてである。たった1度の人生なのだから、たっぷり楽しまなくては損だ。少々悪いことをしてでも大金持ちになって豪遊するのだ。地獄があるかもしれないと考えたらそんな事はできない。

 あると信じることができれば、なんとしても天国に行こうとするだろう。どんな場所にも顕微鏡で見れば大量の細菌がいて、人間は日々それらを踏み殺している。だから無菌室に住む。酒もタバコもやらない。どんな罵詈雑言を浴びせられても怒らない。「おおそうだ。彼らの言うことはもっともだ。自分が甘ったれている。自分が悪い」などと考え、鬱になり、ずっと我慢し爆発しそうになる。だから日々精神安定剤を飲み滝に打たれる。頭の中で悪いことをしてもいけないから、お坊さんになって毎日念仏を唱え、悟りを開く。

 大抵の人は断言なんかできない。どっちともつかない。私もそうだ。もっともそんな事を全然考えないで生きていければそれにこした事はない。しかし、多くの人は心の片隅に死に対する恐れがあるのではないだろうか。

 私は、「ない」方向に持っていきたいのだ。証明はできなくても、自分の中で納得できればそれでいい。「ない」と断言しようと思ったら重箱の隅をつつき回すしかない。心霊現象のほとんどは科学的に説明できるという。できないものも、それは解明が不可能なだけであってただちに本物であるとは断言できないことは前にも書いた。

 問題はあの世がどうなっているのかである。何冊かそれ関係の本を読んでみた。あの世があるかないかは相変わらず分からないが、宗教や各国の言い伝えで語られているあの世の様子については、全然あてにならない事は少しずつ分かってきた。なにしろ大昔の人が考えたものがそのまま現代まで伝わっているから、細かい点で今から考えるとおかしな所がある。

 例えばこの間も書いた「地獄はこの世の地下1千由旬にある」である。当時は地球の半径なんて分からなかったのだ。死後7日間はお灯明を消してはいけないと言われているが、これにはちゃんと意味があって、土葬すると7日で目が溶けるので、それまではお灯明をともし続けて冥界への道行きを迷わせないようにするのだという。さらに49日で腸が溶ける。そうなるとあの世でも食物がとれなくなるので、49日目に現世では死者との別れの宴を催す。火葬となった今では意味がないのだ。

 そもそも、本当にあの世があるとして、その様子が国や宗教によって全然違うのはおかしなことではないだろうか。あの世は1箇所ではないのか? それとも、日本人には日本人用の、アメリカ人にはアメリカ人用のあの世が用意されているのだろうか。

 いろいろなあの世
マレーシア
セノイ族
死者は霊魂の門から天に昇ろうとするが昇れず、熱湯のたぎっている巨大な鉄釜にでくわす。この釜にはメンテグという橋がかかっていて、過失を犯していない子供は渡れるが大人は熱湯の中に落とされてしまう。翼をもった神エナングが取り出して火の中に投げ込み、粉々にしてしまう。この粉を秤(はかり)にかけ、軽ければ天に行けるが、重ければ完全に清められるまで火にくべられる。
フィリピン 悪い魂はシュゲットーという岩山にある死の町へ導かれる。そこには人身虎面の王がいて槍で串刺しにされ餌食となる。幸いにして逃れた者も天に昇るまでには十の町を通過しなければならない。町には十の悪霊がいて死者を餌食にしようと待ち構えている。
オーストラリア 死者の村というのがあり、女は西の村、男は東の村に住んでいる。西の村には植物と果実だけがあり、東の村には火と動物だけがある。死霊はこれらを自由に使って永遠に至福の時を過ごす。
仏教 カルマの大きさによって地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界の6つの世界に転生する。地獄は大きく8つに分かれていて、罪が大きいほど悲惨な地獄に堕ちる。
アフリカ
エフェ族
死者達は至上神トレのもとで飢えも病も死もなく幸福に暮らす。一定期間が過ぎるとこの世に転生してくる。

 あの世の様子を説いた人は、実際に見たのだろうか。単なる想像だとしたら言語道断である。見たとしたら、霊能者か臨死体験者である。臨死体験というと普通は入り口まで行って帰ってくるが、かなり奥の方まで行ってきた人である。霊能者だとするとあの世の様子を見ることができる、あるいはあの世とこの世を自由に行き来できる人である。

 そういう人は、大昔にしかいなかったのだろうか。ある時を境にぱったりいなくなってしまったのだろうか。それとも現在までに何人もいるが、大昔の人が言った通りだったので修正する必要がなかったのだろうか。もしも違えば、同じ国でももっといろいろなあの世があっていいはずだ。

 現在も、霊能者はテレビに出ている。霊を見たり、気持ちが分かったりする。誰かに憑いた霊を呼び出し、話をする。だが呼び出された霊はうなずいたり一言二言しゃべってくれるだけである。あるいは自分自身に憑かせる。だがやはり心情を語るだけである。いずれにせよあの世がどういう風景なのか、寒いのか、暑いのか、どんな香りがするのか、何を食べてどう暮らしているのか、といった事は全然話してくれない。

 もしも霊能者があの世の様子を見ることができるのであれば、実験的に検証することができるはずである。できるだけ多くの霊能者にあの世の様子を話してもらい、共通点を探すのである。私でさえ考えつくのに、どうして死後の世界研究者はそれをやらないのだろうか。死後の世界研究者なんていくらでもいそうなものなのに。あの世の最新情報はいくらでもあるのに、私の調べ方が足りないだけなのだろうか。それともあの世の様子はとても言葉で表せるものではないのだろうか。だとしたらそれを説いた大昔の人はとんでもないペテン師だということになってしまう。

 ちなみに臨死体験についてはこの検証が行われている。

  • 暗いトンネルの通過
  • 光に包まれる体験
  • 臨在者の登場
  • 境界(三途の川)の存在
 の4つが共通項なのだそうだ。ただし、臨死体験は右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分を電極で刺激するだけでも起こるという。

 悪いことをすれば地獄に堕ち、良いことをすれば天国に行く。また悪ければ悪いほど悲惨な地獄に堕ちる。では良い悪いの基準は? という疑問が湧く。具体的に何をするとどんな地獄に堕ちるのか。往生要集では以下のようになっている。

 往生要集での悪事と地獄の関係
犯した罪 行く地獄 様子
殺生(人間以外のものを殺すことも含む) 等活地獄 罪人同士がいがみあい、互いに骨だけになるまで傷つけあう。また獄卒(鬼)が鉄棒や鉄の杖で罪人を打ち砕き、刀で切り裂いてばらばらにする。
ばらばらになった後は元に戻って同じ苦しみを繰り返す(以下の地獄も同じ)。
殺生、盗み(2つの罪を重ねて犯した場合) 黒縄(こくじょう)地獄 熱した鉄の上に横臥させ、熱した鉄でできた黒縄で縦横に筋をつけ、それに沿って切り裂く。
殺生、盗み、邪淫(浮気、未成年の女子への強姦、ホモ等) 衆合地獄 鉄の山の谷間に追い込み、山が両側から迫ってきて押しつぶす。鉄の山が空から落ちてきて粉砕する。鉄の臼の中に入れ、鉄の杵でつき砕く。
殺生、盗み、邪淫、飲酒 叫喚地獄 獄卒が罪人を矢で射る。鉄の棒で罪人の頭を殴り続け、熱した鉄の大地の上を走らせる。熱した鍋の中に入れて、ひっくり返してあぶる。熱した釜の中に投げ込んで、煎じていぶり回し煮詰める。
殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語(嘘をつく) 大叫喚地獄 叫喚地獄と同じ内容だが、苦しみが十倍。
殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見(邪悪な考え) 焦熱地獄 熱した鉄の大地の上に横にさせ、仰向け、うつぶせにさせ、頭から足まで大きな熱した鉄棒で打ったり突いたりして肉団子状態にする。極熱の大きな鉄鍋の上に置いて猛火であぶり、左右に転がす。大きな鉄の串で肛門から頭まで突き通し、あぶる。熱した釜に放り込み、あるいは熱した鉄の高楼(たかどの)に置き去りにして、骨の髄まで火を通す。
殺生、盗み、飲酒、妄語、邪見、尼僧を汚す 大焦熱地獄 虚空に至るほどの大きな炎で何億年も焼き続ける。罪人の皮膚を剥ぎ取り、皮と体を一緒に熱した地面の上に敷き、熱したどろどろした鉄を注ぐ。
父母を殺す、師僧を殺す、仏の体を傷つける、教団(サンガ)の和合を破壊し分裂させる 阿鼻地獄(無間地獄) 阿鼻地獄の苦しみを聞いただけでも死んでしまうほど恐ろしい所。上の7つの地獄の苦しみを合わせた千倍の苦しみ。

 あくまでも人間を基準としたものだと分かる。カマキリは盗みも妄語もしない。すると、畜生は畜生用の地獄に行くのだろうか? 人間どころか、仏教徒のみを対象としたものではないかとさえ思える。少なくともサンガというのは仏教徒の集団のことである。

 ちょっと厳しすぎやしませんか? と言いたくなる。少なくとも、人は誰でも蚊やゴキブリを殺しているから全員等活地獄に堕ちる。嘘は誰でもつくし、成人男性なら浮気をしたことがある人も多いだろう。飲酒する人もたくさんいるだろう。また、大焦熱地獄の「尼僧を汚す」と、阿鼻地獄の「父母を殺す」以外は現代人にはなじみのない概念である。それに、ここに述べられていない悪事はどうなるのか? 器物損壊罪や家宅侵入罪を犯すと何地獄に堕ちるのか?

 罪の順位も納得いかない。確かに、人間を殺した場合と牛を殺した場合とで優劣をつけるのは、牛から見たらひどい話だ。だから百歩譲って人間を殺しても牛を殺しても罪の重さは変わらないとする。それにしたって、

 飲酒→邪見→妄語→邪淫→盗み→殺生(軽い順)

 くらいではないだろうか。

 もっとも納得いかないのは、大昔の人が考えたままで修正が加えられないことだ。仮に、最初にこれを唱えた人が、閻魔様の言葉を聞いたのだとする。つまりこれは閻魔様の考えである。最初に唱えた人の想像だったら話にならない。大昔のインドでは時代背景や状況からしてこれで合っていたのだとする。しかし、現代ではこれでは納得できない。どうして、以降閻魔様の言葉を聞ける人が出なかったのだろうか。あるいは以後もそういう人はいたが、閻魔様は頑として考えを変えなかったのだろうか。時代が変われば状況も変わってくるということが、人間にも分かるのに閻魔様に分からないはずがない。その後科学が発達したのだ。アメーバやウィルスが発見された。これらも生物である。無生物と生物の境界あたりにいる生き物はどうなるのか? 無生物なら踏み潰してもセーフ、生物だったら等活地獄なのか? また、昔のインド人は知らなかっただろうが、植物も生物である。たんぽぽを引き抜いただけでも等活地獄である。

 だが、犯した罪とそれに相応する罰について現代人でも納得できるように解釈をどんどん変えていったら、結局は法律になってしまうのかもしれない。

 このように考えていくと、世界中で伝えられているあの世の様子はあてにならないので、たとえあるとしてもどんな世界かはまったく分からない。

「ない」という結論に達したいと書いたが、「ある」と確信する、でもいいのだ。どちらかを「信じる」ことができれば、迷いがぐんと減る。そのためにはたぶん自分自身で体験しなければだめだろう。つまり、幽霊を見たり、体外離脱をするということだ。しかも「これは夢でも幻覚でもない。現実だ!」と思えるものでなくてはだめだ。


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