ないと信じた方が生きやすい (2005.1.14)

 この間、「あの世がないと信じたら少々悪いことをしてでも大金持ちになって豪遊することが可能だ。あると信じたらお坊さんになって悟りを開くしかない」ということを書いた。

 そもそも宗教は幸せに生きる方法を説くことが目的であるもので、地獄について脅し文句を並べ立て、だから神を信じなさいというものではないはずだ。しかしいくら心を豊かにしようとしてもそう簡単にはいかない。だから神様仏様に救ってもらうしかなく、一生懸命祈り、念仏を唱えたのだ。

 だが科学が発達し、神様に救ってもらわなくても科学の力で豊かに暮らせるようになった。神様の人気はがた落ちし、みんな関心を持たなくなっていった。

 今も精神を救う方法を説いた本はいくらでも出ている。加藤諦三とか中谷彰宏とか。宗教的な方法ではなくカウンセラー的な方法が取られるのが一般的かと思う。

 それくらいみんな宗教には無関心になっているのだ。今時汝の隣人を愛せ、自分に嫌がらせをする人間を許せ、あなたが良い行いをしたことを隠せ、とか言っても誰が本気にするだろう。キリスト教圏の国は別として、少なくとも現代日本では宗教に積極的に関与する人なんてほとんどいない。葬式と初詣くらいだ。あとは困った時の神頼みか。初詣だって、人気があるから、とか家の近所にあるから、という理由である時は神社に行き、ある時はお寺に行く。家の宗旨なんて関係ない。神社は神道でお寺は仏教である。

 というか家の宗旨も知らない人が多いのではないかと思う。まあ自分が何教を信じるかの方が大事で家の宗旨によっては決まらないらしいが。それこそみんな無宗教だ。私もそうだ。

 私はあの世があるかないかのみを問題にしているのであるから、宗教まで否定する必要はない気もする。が、宗教では天国に行く方法、地獄に堕ちずに済む方法を説いている。そこが大問題なのだ。その方法はたぶん2つあると思う。1つは「いい人でいること」だ。この場合、往生要集に書かれている地獄に堕ちる条件を文字通りに受け取ってはいけない。閻魔様が人を地獄に落とすかどうかを決める時、魂の良し悪しで決めるのだ。つまり精神的なことだ。「殺生(人間以外のものを殺すことも含む)」を犯すと等活地獄に堕ちるが、地面にいるばい菌を踏み殺した場合は含まれないのだ。子供がバッタの足をもいだり蟻を踏み潰した場合も、牛を殺して食った場合も含まれない。悪意があってわざと殺した場合のみを対象とするのだ。だから、鴨を矢で射たり猫を空気銃で撃ったりすると地獄に堕ちるかもしれない。

 あ、これは私の勝手な拡大解釈であってどこかにそう書いてあったのではない。この場合人間を殺しても、召集されて戦地に赴き、上官に命じられて仕方なく敵を殺す場合や死刑執行人が罪人を殺す場合は地獄に堕ちない。飲酒も、飲んで車を運転したり、酔って大暴れしたりしなければ大丈夫だ。

 もう一つの方法は「念仏を唱える」ことだ。なんやかんや言っても悪いことなんぞ一つもしていないと胸を張って言える人はいない。人間は皆地獄に堕ちるのだ。自分ではどうしようもないので、仏様の力におすがりするのだ。

 こちらの方法は現代人のほとんどが納得できないのではないだろうか。「そうか! 念仏を唱えるだけで天国に行けるのか! とりあえず何宗を信じようか。浄土真宗でいいか。じゃあ浄土真宗の本を買ってきて、おまけでついているCDを聞きながらその通りに唱えてみよう!」とか言って念仏を唱える気になる人がどれだけいるのか。だいたいいい事なんか一つもしてないのに、唱えただけで救われるなんてインチキ臭いじゃないかと、そう思うのではないか。

 現代人どころか親鸞でさえ懐疑的であった。
「念仏以外に極楽に行ける方法なんて知らない。でもそれだって法然聖人が念仏で救われると言っているから私はそれをバカ正直に信じるだけだ。もし法然聖人の言う事が全部嘘で、結局地獄に堕ちたとしても、それはそれで仕方ないや」
 と言っている。

 地獄に堕ちないためには「いい人でいる」方が確実だ。完璧を期すならお坊さんになって悟りを開いた方がいい。が、いい人でいるだけでもかなり窮屈だ。
「自分はまじめでなければならない。他の連中は不まじめでもいいのだ。だって奴らは地獄に堕ちるんだからね! 俺は死んだら、天国に行く! 他のことは百歩でも千歩でも譲ったっていい。最終的な勝ち組は俺だ! ああいやいや、他人の不幸を望んだらいけないな。彼らは人の悪口を言うことでしかストレス解消できない哀れな人達なのだ。自分の考えをごりごり押し付け、相手が自分の思い通りになることでしか満足できないかわいそうな人達なのだ。ああ、彼らの魂が救われますように!」
 こうしてまじめな人は神経症や鬱病になっていく。だから精神論者は反対のことを言う。「いい人であることをやめましょう」と。

 あの世は別にあっても構わないのだ。っていうか、天国はあって全然困らない。問題は地獄だ。地獄さえなければ、まじめであるべきだ、いい人であるべきだ、などと思いつめて生きていかなくていい。

 死後生肯定者は、死後の世界がないと信じてしまったら、その人の人生は殺伐としたものとなるだろうという。死んだらどうせ無になるのだから、いくら前向きに生きたって無駄だからだ。

 私にはそうは思えない。地獄さえなければ、もっと自由に生きていくことができる。現在ひきこもりが社会問題となっている。こういう人達にもチャンスが与えられる。怠け者としての人生だ。生きていくための最低限の金だけかせぎ、残った時間はすべて自分の部屋にこもってごろごろしている、でもいいのだ。ちなみにダンテの神曲では、怠け者は辺獄(へんごく)という場所に行くことになっている。地獄の中では1番刑罰の軽い所だ。だらだら過ごしていいが、蝿や蜂に刺されまくる。

 辛くてたまらなければ死んでもいい。なんにも悪いことをしていないのに悩んで悩んで苦しんだあげく自ら命を絶った人にさえ、死後生は恐ろしい罰を与える。ダンテの神曲では木になって微動だにできず、怪鳥アルピエについばまれることになっている。往生要集では黒縄地獄の中の等喚受苦処という場所に行くことになっている。罪人を計り知れないほど高く嶮しい崖の上にあげ、熱い炎をあげている墨 縄でしばってから、そのあとさらに、研ぎ澄ました鉄の刀が林立している 熱い地面につき落とし、炎をあげている鉄の牙をもった犬にくわせるという。人生はカルマを少しでも減らすための修行だから苦しいのは当たり前であって、修行を自ら放棄することを神様仏様は絶対許さないのだそうだ。こういうことを本気でいう人はとりあえず太宰の人間失格と芥川の或阿呆の一生を読めと言いたい。これだけ悩み苦しんだ人をまだ罰しなければ気が済まないのかと。

 別に自殺を推奨するわけではない。辛くてたまらなくても、地獄さえなければなんとか生きていくことができる。人から見たら全然賞賛できない人生も選択可能だ。すべての現実、すべての辛さから逃げて逃げて逃げまくり、最後には海外逃亡してしまうような、親が悲しむ人生でもいいのだ。

 殺人を犯し、長年刑務所でつらい生活を過ごし、出所しても一生遺族から恨まれ、前科者としてまともな職もないという十分に罰を与えられて生きた人にさえ、死後生はさらに恐ろしい罰を与えなければ気が済まないのだ。

 死後生は水子、つまり堕胎された子さえ許さない。生まれなかったことで親を悲しませた罰として、賽(さい)の河原で石を積むのだ。せっかく積み上げても鬼が来て崩してしまう。そして1からやり直しだ。現世では大人でもそんな事を1ヶ月もやらされたら発狂するだろう。っていうか普通に考えると悪いのは親の方だと思うのだが。

 そもそも死後生の存在は「普通の人」として生きることさえ許さないのではないか。人間は完全ではないので、互いに傷つけたり他人を蹴落としたりするものだ。大酒飲んではめをはずして他人に迷惑をかけたりするだろう。嘘もつくだろうし浮気もするだろう。あの世に全然興味がない人が持つ人間の弱みを、あの世を信じる人は持つなと言っているのだ。

 まあ、だから人間は全員地獄に堕ちるのであって、念仏を唱えることでしか救われないよということなのだろうが。

 死後生を信じず自由に生きて、最後に念のため念仏を唱えるという方法も考えられる。往生要集に臨終行儀というのがある。臨終の迎え方である。阿弥陀仏の仏像か仏画を置き、仏の手に五色の糸を結び、糸の端をにぎり、阿弥陀仏の額の中央にある白毫(びゃくごう)と呼ばれる一点に思いをこらしながら念仏を唱え続けるのだ。すると白毫から強い光が発し、その光に包まれ、阿弥陀仏が自分を浄土(天国)につれていくために迎えにやってくる姿を見るという。見れなかったら失敗だ。


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