地獄がなかったら「地獄に堕ちな」とは言えない (2005.2.24)

 私が映画の中のヒーローだとする。ラストシーンで悪い奴に銃を向ける。こういう場合、普通は「地獄に堕ちな」と言って引き金を引くだろう。が、私は言えないのだ。「光の存在がいて愛であふれている世界に行きな」としか言えないことになってしまう。もっとも「そろそろ天国に送ってやるぜ」という言い方はある。が、これはどちらかというと悪役の台詞だ。よくよく考えると、いい人は相手が地獄に堕ちることを望み、悪人は相手が天国に行くことを望んでいる。不思議なものだ。

 私は「あの世があったらとても怖い」と思い、いろいろ調べてきた。立花隆の「臨死体験」を読むに至り、「あの世は脳内現象。たとえ死後生があったとしても地獄はない」とだいたい信じることができた。が、それでは困ることが一つだけある。嫌な人間がいても、「こいつは地獄に堕ちるのだ」と思うことが、もうできないということだ。

 死後の地獄はないが、生き地獄はあるだろう。あの世はなく神様は人間を地獄に堕としたりしない。しかし現世において悪い奴には罰を与える、という考え方は虫がいいだろうか。そもそも神様を信じるのにはいくつかのレベルがあるのだ。

  • 神はいない。
  • 神はいるけど宇宙の創造だけを行い、後は一切関与していない。
  • 神はいて、宇宙も作ったし個々の人間の運命まで握っている。
 等など。
 だからあの世はないが神様はいる、という考え方があってもいいのではないか。新宗教なんかはそれに近いと思う。

 糞みたいな人間がいるけど逮捕されるほどには悪くない場合、どうすればいいのだろう。あの世がないと信じてしまったら、その人間が現世で罰を受けることを祈るしかない。じゃあ自分が悪いことをした場合、神様が自分を罰してもいいのかというと、それは困る。自分が人にとって不快なことをしていたり、迷惑をかけている場合、自分ではそれほど悪いとは思っていないものだ。自分にとっては仕方がないことだ。まとめると、こうなる。

  • 法を犯した場合、逮捕されて裁かれる。神様の出番はない。
  • 法律に触れない程度に悪い場合、それが自分だったら罰せられるのは嫌だ。
  • 他人だったらぜひ罰してほしい。
  • 自分がいい事をしたり、頑張った場合、いい方向に運命を変えてほしい。
  • 他人がいい事をしたり、頑張った場合、運命が良くなろうが全然報われなかろうが知ったことではない。

 こんな都合のいい神様はいない。そもそも今は神への信仰はすっかり廃れており、神に頼ることはもうできない。現代では、すべては自己責任なのだ。ジャイアンに対しては毅然とした態度で「やめろよ」と言わなければならない。そう、強くならなければいけないのだ。が、精神はむしろ神への信仰があった昔の人の方が強く、すべてが自己責任である現代人の方が弱いような気がする。困ったものだ。

 現代は、神様はいなくていいけどドラえもんにはいてほしい時代だと思う。無論、自分のためだけにいて他の人にはいないのだ。ジャイアンやスネ夫にもドラえもんがいたら意味がない。

 この間キリスト教について調べて、あの世の具体的な記述は聖書にはなく、ギリシャやエジプトやバビロンなどの古代神話で語られているものが現代まで伝えられているのだと知った。キリスト教に限らず、どうも地獄の恐ろしい様子は各宗教で考え出されたものではなく、それ以前からそれぞれの地にあった古代神話がベースになっているのではないかという気がしてきた。

 仏教では死後裁かれ、六道のうちのどこに行くかが決まる。死後7日目に泰広王(不動明王)、14日目に初江王(お釈迦様)、21日目に宋帝王(文殊菩薩)、28日目に五官王(普賢菩薩)、35日目に閻魔大王、42日目に変生王(弥勒菩薩)、49日目に泰山王(薬師如来)に裁かれる。

 仏教はインドで発生し、中国を経由して日本に入ってきた。閻魔大王はインド神話のヤマが中国で音写されて閻魔大王となった。泰山王は中国神話の泰山府君が元になっているようだ。インド神話の閻魔様が中国の道教信仰(中国神話がベースとなっている)と結びついて地獄の裁きとなったようだ。今ざっと検索して分かったのはこの二人だけで、あとは分からなかった。

 どうも仏教のあの世はインド神話と中国神話がベースになっているようだ。もしもあの世があるとして、紀元前に古代人が考えた神話で語られるあの世と、現代の臨死体験者が語るあの世と、どっちが信憑性が高いだろうか。とはいうものの古代人のあの世像の方が圧倒的に歴史が長い。そっちの方が正しいから、これだけ長く支持されてきたとも考えられる。

 しかし、浦島太郎が実際にあった話だなどと誰が思うだろう。長い歴史を持っているが作り話だ。つまり長く語り継がれていることと、本当か嘘かは関係ない。

 意外なことに、仏教は霊魂不説だという。霊やあの世については、あるともないとも言わないのだ。これは一般人が仏教に対して持っている常識とは違うと思う。アンビリーバボーである。

 立命館大学の安斎育郎教授は、仏教各宗派を対象とするアンケート調査を実施している(安斎育郎著、「霊はあるか」)。極楽や地獄や六道輪廻といったものは現世での心の状態の移り変わりを言っているのであって、そういったものが実在するということではない、という意見が多数派のようだ。地獄を気にして念仏を唱えれば救われると信じたのは親鸞だけだったのだろうか。

 すると、やはり往生要集に書かれている地獄は仏教で説かれたものではなく、インドや中国の神話がベースになっているということになる。あるいは源信の想像の産物に過ぎないのか。

 古代神話の地獄が現在まで伝えられているのは、それだけインパクトがある内容だったことや、自分がそこに堕ちたらという恐怖の他に、先に書いたようなことがあると思う。現世で裁けない人間を、あの世で裁いてほしいという切なる願いだ。


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