自殺したら地獄行き!? (2005.3.19)

 自殺者が3万人を超えている現在、避けては通れない話がある。「自殺したら地獄に堕ちる」という考えである。

キリスト教 キリスト教は、自殺したら地獄に堕ちると明言している。ダンテの神曲では木になって怪鳥アルピエについばまれることになっている。キリスト教では地獄に堕ちたら永遠に出られないとされている。
仏教 往生要集では、自殺したら(岸から身を投げたら)黒縄地獄の中の等喚受苦処という場所に行くことになっている。罪人を計り知れないほど高く嶮しい崖の上にあげ、熱い炎をあげている墨縄でしばってから、そのあとさらに、研ぎ澄ました鉄の刀が林立している熱い地面につき落とし、炎をあげている鉄の牙をもった犬にくわせるという。黒縄地獄に堕ちると千年出られない。しかし黒縄地獄の一昼夜は刀利天の千年にあたり、刀利天の一昼夜は人間の百年にあたる。よって人間の時間感覚に直せば1000×365×1000×365×100=13兆3225億年にもなる。
ただ、仏教というより「東洋の思想では」と言った方がいいかもしれない。お釈迦様は死後生についてはあるともないとも言っておらず、仏教各宗派(真言宗以外)はあの世の存在を否定している。
丹波哲郎 西洋では足が木の根のようになる、東洋では大きな瓶の中に首から下をすっぽり入れられて動けないとされている。そういう苦しみに満ちた状態が、命の大切さが魂の底の底に染み透るまで何千年も何億年も続くのだ。人生はカルマを減らすための修行である。修行だから苦しいのは当たり前なのだ。それを自ら放棄することを神様仏様は絶対に許さないのだ、としている。
丹波氏は本でも映画でも自殺の罪を説いている。人を愛することが好きな人は愛し合える場所(天国)に行き、殺し合いが好きな人はいくらでも殺し合える場所に行く。普通はそれを地獄と呼ぶ。いずれにせよ、あなたにもっともふさわしい場所に行くのだ、と、地獄もまた救いであるように言っているが、自殺だけは厳しく罰している。ちなみに映画「大霊界」では自殺者は木になって後悔の念にさいなまれながらしくしく泣いている。
自殺未遂をした臨死体験者 臨死体験者はみんな光り輝く愛にあふれた世界を見ているが、地獄を連想させる世界を見た一部の例外がある。それが自殺未遂をした人である。真っ暗で寒々しく、一人ぼっちの寂しいだけの場所で、悲しみに包まれ苦悩の涙を流すという。

 どいつもこいつも自殺者に対してどうしてこんなに厳しいのだ! と言いたくなる。タイムマシンでダンテと源信の所に行き、太宰治の「人間失格」と芥川龍之介の「或る阿呆の一生」を渡し、「読め」と言いたい。いじめっ子達から毎日何万円も取られ続けた大河内清輝君も、アキレス腱切断や椎間板ヘルニアで走れなくなったマラソン選手、円谷幸吉も彼らにとっては地獄行きなのだ。

 あの世がないのであればこんなのは全然気にしなくていい。たとえあったとしても、気にしても仕方がないのだ。なぜなら、「自殺したら地獄行き」というのを気にするのであれば、虫を殺したら地獄行き、嘘をついたら地獄行き、というのまで気にしなければならないはずだ。悪いことを考えても、女を騙しても、こびへつらっても、キリストを信仰していなくても地獄行きである。

 するとどっちみち地獄行きだから、教会に行くなり念仏を唱えるなりして神様仏様に救ってもらうしかないことになってしまう。前に往生要集の臨終行儀について書いたが、念仏を唱えても阿弥陀仏が浄土に連れていくために迎えに来る姿を見ることができなければ地獄行きなのだ。

 自殺の場合だけを気にしても仕方がない。

 キリスト教や仏教のあの世が、古代神話がベースになっていると知れば信憑性は限りなくゼロに近づく。古事記で語られるスサノオのヤマタノオロチ退治や、日本書紀の天地創造の話を、誰が本当にあった話だと思うだろう。丹波哲郎の説もだいたい似たようなものだ。

 すると気になるのは自殺未遂者の臨死体験だ。問題なのは、大半の自殺未遂者がこのような臨死体験をしたのか、ごく少数なのに大きく取り上げられているのかだ。残念ながら検索しても分からなかったが、私は後者だと思う。もし多くの自殺未遂者が地獄を見たのであれば、どうして立花隆はこれを大きく取り上げないのだろう。ちなみに臨死体験研究者ケネス・リングによると、自殺未遂者で臨死体験をした人は少ないという。

 私はこれこそ臨死体験が脳内現象である根拠の1つだと思う。臨死体験は幻覚だから内容はその人の心情が影響する。もしも現実体験であるならば、嘘をついた人や虫を殺した人も地獄を見なければならないはずだ。臨死体験者の証言を信じるならば、自殺者だけが地獄に堕ちることになってしまい理不尽である。

 だから安心して死になさいと言うつもりは毛頭ない。問題なのは、自殺したら地獄行きだから嫌々ながら仕方なく生きるというのが、人生を歩むためのモチベーションとなってしまうことである。それだったら鶴見済や柳美里などの自殺肯定者達が言うように、自殺という選択肢を残したまま生きる方がよほどましではないだろうか。どんなに苦しくても悲しくても死んではいけないと思ったら、すごく生きづらいのではないか。借金で首が回らなくなっても、癌であと3ヶ月の命だと宣告されても生きなければならないのである。極端な話、回復の見込みがない重病の人も「どうか私を安楽死させないで下さい。無駄に苦しみを長引かせるだけの延命処置をほどこして下さい」と頼まなければならないのだ。安楽死させて下さいと頼んだらそれは自殺である。

 嫌々ながらしょうがなく生きるんだったら、警察の目をかいくぐりながら悪徳商法で儲け、海外逃亡して楽しく暮らす方がまだいいのではないか。なぜならその人は楽しむことが目的なのであって、よほど人生を大切にしていると言える。

 自殺を抑制するためのサイトを作ったり、人生相談に乗ったりする自殺否定者達は納得のいく理由を提示できない。「親が悲しむから」、「生きていればそのうち良い事がある」、「妻や子供が路頭に迷う」、「いろいろな人に迷惑がかかる」といったところだろうか。死にたいほど悩んでいる人は自分のことだけで精一杯である。他の人のことまで思いやれと言うのは酷である。また、今までいい事なんかなかったから死にたがるのである。

 自殺否定者達は役に立つどころか逆効果である。彼らは「天邪鬼(あまのじゃく)効果」という心理学の言葉を知らないのだろうか。小さい子供に「このイチゴは食べちゃだめよ。絶対食べちゃだめよ」と言えば言うほど食べたくなるのだ。だから「自殺するな」としつこく言ってはならない。また、抑鬱状態の人に叱咤激励するとかえって良くないというのも、それ関係の本を読まなくても今ではテレビでも時々紹介される。頑張って消耗した人に「頑張れ」と言えば余計に疲れきってしまうのだ。

 ましてや「自殺する奴は身勝手だ」とか「楽な道を選ぼうとする卑怯者だ」という意見になるともう訳が分からない。

 素人がカウンセラーの真似事などするとかえって相手の状態を悪くしてしまうのだ。まあ、もちろん自殺志願者の方から「どうしたらいいと思う?」と相談されたり、今まさに飛び降りようとしている人間が目の前にいる場合は仕方ないが。


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