電話のベルが鳴っている。きっと、また幻聴だ。私は両手で耳をふさぐ。しかし高い、耳障りな音は指の間から容赦なく侵入してくる。 八回、九回、十回……。私がかける場合、だいたい十回待って相手が出なかったら切る。人からかかってくる場合も、そんなに長くは待たれないだろう。しかしその電話は、執拗に鳴り続けた。 十八、十九、二十……。 ついに耐えられなくなり、私は振り返った。 一メートルほど先にある、床にじかに置かれた電話。私はその黒い物体に近づいていった。電話機があって、人からかかってくれば、呼び出し音が鳴る。しごく当たり前のことだ。だが私はそれを恐怖の眼でみつめた。 二十三、二十四、二十五……。 私はひざまずき、恐る恐る手をのばす。受話器をつかむ。持ち上げた左手は、小刻みにふるえていた。 「もしもし」声も、わずかにふるえた。「小谷ですが」 返事はなかった。私はもう一度呼びかけた。 「もしもし」 やはり、応答はない。いっそ、切ってしまおうかと思った。しかし、私は受話器の向こう側にいる人物の声を聞きたかった。最後に人から電話がかかってきたのはいつだろう。将棋の好敵手である斉藤さんと話した時だっただろうか。 「もしもし、どなたですか」 「……お父さん」 霧の中から聞こえてくるような、かすかな声だった。 「母さんか!」 「ああ、良かった。あちこち電話してもいないから、心配したんですよ」 悪い予感が的中してしまった。妻から電話がかかってくるとは。 「久しぶりだな」私は冷静をよそおって言った。「今、どうしてる」 「それが、その、なんと言ったらいいのか……」 「今、どこにいる」 「……」 私は彼女がいる場所を想像してみた。辺り一面に花が咲いている、安らぎに満ちた所だろうか。それとも、もっと現実的な場所だろうか。 「周りが全部、青くて、上も、下も、青くて、ああ、雲が浮かんでいます」 頭をおもいきり、ぶん殴られたような気がした。 何と言ってよいのか分からず、妻も何も言わず、私達はしばらく黙っていた。 「お父さんは、どうしています?」 私は、自分ののどがごくりと鳴る音を聞いた。 「ああ、相変わらず、退屈しているよ。時々斉藤さんと将棋をさすくらいかな」 「ああ、良かった」 妻は、少し高い声を出した。しかし、すぐにすすり泣きが聞こえてきた。 「本当に、良かった。安心しました。てっきり、あの時に……」 悪夢が、よみがえってきた。 私達が乗っていた、北海道行きの便は、突然乱気流にのみこまれた。騒然とした機内、みなさん落ちついて下さいという、パイロットのあせった声。若い男の怒声、ヒステリックに泣き喚く女の声。みんなに声をかけてまわるスチュワーデスは、突然襲った振動で倒れた。 飛行機は今まで聞いたこともない金切り声をあげながら、急速に傾いていった。注意を聞かず立ち上がった人々は、背もたれを越えて倒れこんだ。通路に立った人がまるですべり台のように前方へすべっていくのを、信じられない気持ちで見つめた。そして、それから……。 気がつくと私は、病院のベッドにいた。 「妻は……」私は看護婦につかみかかるようにして言った。 「小谷さん、立ち上がってはだめです。安静にしていて下さい」 「妻は、どこですか!」 私は、教わった病室に歩いていった。肋骨がやられたらしく、胸が突き刺されたように痛んだ。階段をのぼるのにひどく苦労した。ようやく部屋にたどり着き、扉を開けると……。 そこに、妻がいた。頭に包帯を巻き、鼻に管を通され、顔中傷だらけで、そして彼女は、目を閉じていた。 「先生、妻は……」 医師は、ゆっくりと首をふった。 彼女は次の日の朝、逝った。その妻が今、電話をかけてきている。 「そっちはどんなふうだ。いい所か」 「いいえ。他に誰もいなくて、見えるのは空ばかりで、私、とても寂しいの」 なんということだ。彼女なら天国に行けて当然なのに。 「空中に浮いているのか」 「いいえ、大きな岩の上にいるの。でもその外には行けないんです」 のどが、再び鳴った。 「岩? 岩って、どんな?」 「四角くて、それがその、サイコロみたいなんです」 私はなぜだか、笑い出してしまった。凍ったような笑い声だった。 「どうなさったの?」 「いや、房江がサイコロの上にいるなんて言うから」 妻を名前で呼ぶのは、久しぶりのことだ。 「びっくりしたでしょう? 死人から電話がかかってくるなんて」 「いや、うれしいよ」 本当は、悲しかった。私は心のどこかで、彼女の死を否定したがっていたのかもしれない。しかし今、本人の口から聞いたのだ。「死人」という言葉を。 「サイコロということは、目があるんだな。どの目の上にいるんだ」 「どうしてそんなことを聞くの?」 「いや、できるだけ大きい目の方がいいような気がしてな。なんとなく」 「六です」 「そうか、六か」 私は少し、ほっとした。きっとサイコロはすごろくを表しているのだ。ゴールは天国なのだ。そう信じたい。 「ここは、とても高くて、私怖いんです」 「あまり、下を見ない方がいい。母さんは心臓が弱いから、心配だ」 もう一度房江と呼ぶのは、気恥ずかしかった。 「寒くはないか」 「いいえ。ここは暖かくて、春みたいです」 「そうか、風邪をひかないようにな」 久しぶりの会話だというのに、話す言葉が浮かばない。 「横は、どうなっているんだ。つまり、サイコロの」 どうでもいいことだ。 「ええ、一と、三と、五と……ちょっと待ってくださいね」 しばらく、間があった。 「四が見えます」 「おい、母さん、サイコロの端にいるのか。危ないから、早く戻りなさい」 私はふと、奇妙なことに気がついた。 「でも、妙だな。サイコロの表裏は足して七になるように作られているはずだ。一が横にあるのはおかしい」 「あら、そうなの? 全然気にしていませんでした」 「いや、すまん。どうだっていいことを聞いた。それより、くれぐれもバカなことを考えるんじゃないぞ。外に行きたいなんて」 「でも、ここは六畳くらいしかなくて、私、ここから出たいんです」 「だめだ。落ちたらどうなるか、分かったもんじゃないぞ。下に行けば行くほど、悪くなるような気がする」 「でも、私は……」 なんだか、声が小さくなったように感じた。 「いいか。気をしっかりと持って。神様がきっと、助けてくれるからな」 「お父さん……声が……聞こえ……」 受話器の向こうが静かになった。それきり、何の物音も聞こえなかった。 私は、受話器を置いた。電話機がゆっくりと透明になって、消えた。 あぐらをかき、目の前の赤い穴を見つめる。とうとう、本当のことを言うことができなかった。私も死んだのだということを。 妻が逝って、その二日後の夜、急に胸の痛みが激しくなって、目に映るものすべてが真っ白になって、そして何も分からなくなった。 ここから落ちたらどうなるのだろう。それは、私自身が何度も考えたことだった。下は地獄なのだろうか。それとも現世に戻るのか。 私は一の目の上にいて、側面は、五があるべき位置に六がある。前までそこには五があった。これは、彼女と私が近づいたことを表しているのだろうか。分からない。彼女のサイコロはどこにあるのだろう。ここからは何も見えない。 ここは、どこまでも澄んだ青い世界で、いくつかの雲は見えるが太陽は見えない。くもりもしなければ雨も降らない。私は立ち上がり、はるか向こうに目をこらした。しかし青は無限の彼方まで続いているようだった。 ふいに、電話のベルが鳴った。だが今度は、電話機は現れてこなかった。 |