落下

 パディーディは、穴の中をおそろしい勢いで落ちていく。穴に飛び込んでから、何秒たったのか、それとも何時間たったのか、分からない。時間の感覚はとっくに失われ、頭の中の猛烈なパニック状態は今もなお継続している。なんとか冷静さを取り戻そうとするのだが、このような状況下では所詮不可能で、すればするほどあせるばかりで、頭の中の混乱は広がるだけだ。頭上――というのはつまりは真下のことだが――のはるか遠くには、小さな丸い光が認められ、あれが出口かと思うのだが、まるで逃げ水を追うかのごとく、光の大きさは変わることがない。
 穴の中には日の光が入射しているはずなのだが、入ったとたんに周囲は鼻をつままれても分からない暗となった。しかし永遠の暗黒というわけではなく、時々たくさんの豆粒ほどの光点が現れては消え、現れては消えを繰り返し、あるいは周囲の壁面がうっすらと、ごくごくうっすらと見えることがある。
 外から見た時には穴の直径はわずかに3メートルほどだったが、今はその10倍はあるかと思えるような巨大な筒となっている。もっともこれは彼が穴のちょうどど真ん中を落ちていると仮定しての話だ。下手に首をねじると体ごとぐるぐると回転してしまう。だから後ろはおろか、横を見ることさえ難しい。
 壁面は白いようにも、灰色のようにも、あるいは金属のように光っているようにも見える。なにしろ時々、わずかに見えるだけである。本当に円筒なのかさえ分からない。現れては消える光の点は星で、頭上はるかかなたにある丸い光はどこかの恒星なのかとも思えてしまう。あるいはそうなのかもしれない。
 彼に認識できることといったらこの程度である。あとは頭に浮かぶのは後悔の念だけである。なぜ、穴の中に飛び込んでやるなどと言ったのか。なぜ、穴の中がどうなっているのか俺が身をもって確かめてやるなどと言ったのか。
 恐怖と後悔が入り混じり、またしても絶叫する。声は反響する様子もなく、闇の中に吸収される。
 なにしろのぞきこんでも真っ暗なだけのその穴は、中がどうなっているのか全く分からない。物を投げ込んでも底にあたる音は帰ってこない。だからそうとうに深い穴だということが知られているだけで、他は一切が未知である。衛星の裏側にまでつながっているのか? しかし反対側にはそれらしき穴がみつからない。どこか遠くの空間につながるワームホールではないかという者もいた。衛星内部は空洞になっているのではないかという者もいた。
 中にロープをたらし、探ることは、古いしきたりが禁止していた。どうしても内部を知りたければ中に飛び込めというのが、唯一許可された調査方法だった。パディーディより以前にそれをやった者は一人しかいなかった。それも30年も昔の話である。そいつは、もちろん二度と帰って来なかったし、どうなったのかも分からない。
 彼は風を感じない。中に空気があるのならば、頭から足へと流れていくものすごい風を感じるはずである。しかし呼吸はしているようだ。だから窒息しない。しかしそれさえあやしい。何も分からない。自分が本当に落下を続けているのか、それとも空中に静止しているのかさえ分からない。
 パディーディ自身、自分がどうなってしまうのか分からないくらいだから、外の人間には彼がどうなってしまったのか分かるはずがなかった。


 天才の星

 宇宙港の正面玄関から出ると、ムッとするような暑気がおそってきた。手を額にかざし空を見上げると、真っ青な空にこの太陽系の太陽であるオシリスがぎらぎらと射るような光線を投げかけている。まったく、太陽に冥界の支配者の名前をつけるとはどんな酔狂なやつだろう。この星――セトはオシリスの第二惑星ホルスの周りを回る衛星である。ホルスの月にその宿敵の名前をつけるとはこれまた酔狂なことだ。セトはテラフォーミングがほどよく進んでいて、地球の都市の風景とそう変わらない。大きな道路をはさんで巨大なビル群が立ち並び、道路には魚の尾びれをつけたような車が行き交っている。
 辺りを見まわすと、一台のタクシーが止まっているのが目についた。中の運転手は暇を持て余しているというふうに目をうつろにし、窓から腕をだらりとたらしている。指につまんだ煙草から一筋の紫煙がたちのぼっている。天下鏡二(てんか きょうじ)はスーツケースを持ち上げると、そのタクシーに歩いていった。とにかく暑い。早く冷房の効いた場所に入らないと溶けてしまいそうだ。
 恒星オシリスは4つの惑星を持つ。このささやかな太陽系の星々には内側から順にイシス、ホルス、アテン、アヌビスという名がつけられている。なぜエジプトの神々の名前がついているのか。この太陽系を最初に発見したのがたまたまエジプト人だったからだとも、銀河系の辺境にあるこの太陽系があたかも冥界のようで、それでまず太陽にオシリスという名がつき、それに従ってあとの惑星にエジプトの神々の名がついたのだとも言われている。
 超空間上で三次元空間を折りたたんで遠く離れた二地点を結ぶワープのアイデアはかなり昔からあったのだが、実現するまでには三世紀もの時間を必要とした。この驚異的な航法によって2、3万光年もの彼方まで行くことができるようになり、直径10万光年の銀河系の1割程度の領域についてはだいぶ調査が進んでいる。現在百個ほどテラフォーミングできそうな星が見つかっているが、成功しているのは半分にも満たない。地球があるオリオン腕もかなり銀河系の辺境にあるのだが、さらに外側にあるペルセウス腕の中に発見されたのがオシリスであり、そこでみつかったテラフォーミング可能な星がセトである。もっともオシリスの周りを巡る他の星々はとてもじゃないが住めたものではない。イシスは電子レンジの中のようだし、アヌビスは業務用冷凍庫だ。セトの母星であるホルスは砂漠だ。
 天下が近づいていくと、タクシーの後部ドアが音をたてて開いた。乗りこむと冷房が効いていた。有り難い。
「どちらまで?」
「ああ、シーサイド・ホテルまで頼む」
 冷房が体を癒し始める。天下は宇宙港を出て早くもふきだしていた額の汗をハンカチでぬぐった。
「観光ですか」
 運転手の英語には少しフランスなまりが入っている。
「いや、仕事だ」
「すると、画商か、研究者ですか」
「調査だ」
 バックミラーに映る男の顔が、少し硬直したように見えた。
「ってことは、調査官ですか」
「そうだ」
「へえ、欧米人の調査官はよくお見えになりますが、アジア人は初めてだな」
 確かにそうだ。日本人で調査官になるのはめずらしい。天文学に精通していること、三カ国語以上の言葉がしゃべれること、宇宙飛行の経験が2回以上あること、といった厳しい条件がある。たいていはアメリカ人やロシア人がなる。
「私の運転の技術や、客への対応も記録されるんですか」
「まさか。君のことを調査したってしょうがないよ」
 泣く子も黙る調査官である。その星の文化、文明、生活習慣に問題があれば、地球に報告する。政府は、場合によっては処罰を与えることもある。
 セトは特殊な星だ。絵画の天才、音楽の天才、物理の天才に数学の天才……、そういった人々が集められ、創作活動に専念する。地球では様々な邪魔が入るため、そういったことに専念する場を与えた、というのが政府の言い訳だが、天才だけ集めたらどれほど大量の、良質な創造物が生まれるかをテストするというのが本当の理由だ。いわばセトは巨大な実験場なのだ。
「君、さっき信号が黄色から赤に変わったのに無視したね」
 天下は冗談で言ったのに、運転手の肩がビクビクッとなった。


 シーサイド・ホテル

 チェックインを済ませ部屋に入った天下は、ネクタイをむしりとり、ダークグレーのスーツの上着を丁寧にブラッシングして洋服ダンスにかけた。窓から見える景色は絶景で、青い海が広がっている。島のようなものは見えず、左から右までただ真っ青な海だけが見えるのだ。丸い水平線がくっきりと見え、海面には波もたたず鏡のようになめらかだ。
 南北両極の氷の極冠を溶かして作った海が星の8割近くを覆い、北に大きめの、南に小さめの2つの大陸のみを残した。北の方にはクフ、南の方にはカフラーという、これまた古代エジプトの王の名がつけられている。大陸名がそのまま国名となっている。
 セトの地軸は30度程度傾いており、天下がやってきた北緯40度付近のクフ第二地区は今ちょうど夏だ。
 夜第二地区長と会う約束になっている。それまではとりあえず何もすることがない。しばらく部屋で涼んだ天下は、外に出てみることにした。ホテルの裏にまわると、白い砂の見事なビーチがはるかかなたまで続いていた。閉鎖された宇宙船の中で何週間も過ごした彼は、久しぶりに気分が晴れ渡るのを感じた。ビーチは地球の、真夏のこういった場所で見るのと違い、驚くほど閑散としていた。水は危険なものではないはずなのに、海で泳いでいるものはいない。数人の白人が日光浴をしているのみだ。住んでいる人種が人種なので、アウトドアはあまり好まないのかもしれない。
 浜辺には大きな円筒の上に小さな円筒を段々に積み上げていったような真っ白な石造りの建物が並んでいる。住居だろうか。どこかハノイの塔という、三本の棒に円盤を次々に移しかえていくパズルを思い起こさせる。建物の白と海の青の対比が鮮やかだ。建築の天才が築き上げたものだろうか。
 もう少し歩き回ってみようと思っていたのだが、ビーチに沿って歩いていくうちに汗がだくだくとふきだし、うだるような暑さに嫌気がさしてきた。
 ホテルに戻り、地下に降りる。レストランの横にあるバーに入った。昼間っから飲んでるのが10人ほどいる。マスターがシェイカーを振っている。
「ビールをくれ」
 籐の椅子に腰掛け、胸ポケットから煙草を出す。
「お客さん、地球の方?」
「ああ、よく分かったね」
 今や地球人は50近い星に分散している。星間の行き来もさかんだ。
「煙草の銘柄でさあ。シックス・ライツは地球でしか売ってません」
 マスターは気のいい男のようだ。
「まだ半ダースほど残ってるよ。いるかい?」
 いえいえ、と首をふる。
「君は、C?」
「とんでもない。あたしゃあ、Sですよ」
「あ、そう。いや、シェイクがあまりにも見事なものだから、カクテルの天才かと思った」
 シェイカーをふるマスターのかわりに、若いウェイターが汗をかいたジョッキを置いた。一気に3分の1ほど飲み干す。うまい。きんきんに冷えている。
 煙草を一本抜いてくわえ、火をつける。ふーっと紫煙をふき出すとだいぶ暑気がやわらいできた。
 天才だけが集められた星とはいっても、当然生活を支える人達が必要だ。タクシーの運転手もそう。バーのマスターも、ホテルマンもそうだ。天才がC(Creator)と呼ばれるのに対し、彼らはS(Server)と呼ばれている。
「いいですなあ。あたしも死ぬまでに一度は地球に行ってみたいなあ」
「君は、ここ出身か」
「ええ、ええ。生まれも育ちもこの銀河のはじっこでさあ。地球って、いいとこなんでしょ?」
 シェイカーからエメラルドグリーンの液をカクテルグラスに注ぐ。
「うん、まあな。でも……」
 一生ここにいた方がずっといいよ、という言葉をぐっと飲みこんだ。


 第二地区長

「ガーデック様が5番テーブルでお待ちです」と、レストランの給仕が言った。
 5番テーブルとはどこだろう、ときょろきょろしていると、太った小男が立ち上がって手をふった。
「ミスター・テンカ!」
 丸い顔にちょびひげを生やし、少ない白髪を後ろになでつけている。
 作り笑いを浮かべて歩み寄っていくと、手を差し出してきた。天下も手を出して握手する。手がべっとりとぬれている。気色悪い。
「さあさ、どうぞおかけになって下さい」
 パンパン、と給仕の方を向いて手を叩く。
「君、ワインを持って来てくれ。とびきり上等のやつだ」
 天下は表情に威厳を保ちながら椅子に腰掛けた。相手が大統領クラスの人間だからといって変に媚びてはならない。調査官の鉄則だ。
 地区長の横にはとびっきりの美女がすわっている。豊かな金髪を頭の後ろでまとめ、白い首筋にルビーのネックレスをかけ、きらきらするドレスを着飾っている。青い瞳は吸いこまれそうだ。地区長婦人なのだろうがどう見ても隣のぶ男とは不釣合いだ。
 テーブルの上には豪勢な料理が並んでいる。サーモンのマリネ、牛フィレ肉を網焼きにしたのや、帆立貝やキャヴィアやイクラを盛り合わせたサラダ、そして白かびチーズ。
 ソムリエがいそいそとワインを持ってきた。
「カベルネ・ソービニヨンの70年ものでございます」
 流暢な手つきでコルクを抜く。それを小皿に入れて地区長に差し出すと、彼は口元はにこやかなまま眉を上げて匂いをかいだ。うんうんとうなづく。ソムリエがワイングラスにほんの少しつぐと、だんごっ鼻を近づけくんくんと嗅ぎ、次にグラスをくるくると回して一口含んだ。再び満足げにうんうんとうなづく。
 ソムリエは3人のグラスにワインをついで、礼をして立ち去った。天下はわざと、ワインの香りなんぞにはこれっぽっちも興味がないという顔をして、芳醇な赤い液をのどに流し込んだ。うまい。豊かな果実味に、こしのあるタンニンが効いている。
「いやいや、第二地区をお選びになったのは実に賢明な選択です」と、地区長は言った。
「そうですか。私はただ宇宙港に近い方がいいと思ったんですよ」
 調査といっても、とてもじゃないが南北両大陸の全地域を見てまわるわけにはいかない。こういった調査はだいたい場所をサンプリングして行われる。
「この星には何の問題もございません。なにしろみんな従順で、理性的ですから」
「そうですか? 学者はそうかもしれませんが、芸術家はそうでもないんじゃないですか。彼らは内に燃え上がるものを持っている。狂気が芸術を生み出すってこともあるでしょう」
「まあ、この方もCなんですの?」夫人が口をはさんだ。
「これこれ、この方は地球から来られた方だよ。地球の方に、CもSもないよ」
 地区長自身はCなのかSなのか。政治家は政策を生み出すからCともいえるし、人民に仕えるという意味ではSともいえる。
「他の地区は知らんが、すくなくとも第二地区は大丈夫です。今まで問題が起こったことはありません」
「では選択の失敗でしたかな。我々としては問題がない地区よりも問題がある地区を見たい」
「いやいやいや」地区長はたるんだほほがちぎれそうなほど首をふった。
「天才となんとかは紙一重、といいますからな。我々はまさにそれを心配しているんですよ」天下はたたみかけるように言う。
「以前に3回、調査官の方がいらっしゃっています。クフの第九地区と第十三地区、カフラーの第二十四地区を見ていますが、全く問題ありませんでした」
 その報告書なら天下も見ている。確かに何も問題がなかったようで、書くことがないためか、セトの美しい景観やうまい料理のことばかり書いてあった。
「そうですか。それは結構。では仕事ではなく、楽しい観光になりそうですな」
「ええ、ええ、もちろん。第二地区の名所旧跡を案内させますよ」
「せっかくですが」天下はにらむように地区長の目をみつめた。「お供は必要ありません。かえって足手まといになります。それに、名所旧跡には興味がありません。名所旧跡というのは過去の遺物ですからね。現在の文化や、生活を見るのには参考になりません」
「ああ、はあ、そうですか。では後で詳しい地図をお渡ししましょう」


 陶匠

 地区長の薦めもあって、天下はまず陶芸家のヴァンスという男を訪ねることにした。地区長から伝言が行っているはずなので、いきなり訪ねても大丈夫だろう。
 坂道をのぼる天下は汗だくになっていた。場所はピロッティという岬で、断崖絶壁のすぐそばを通っていかなければならない。昨日と違って風が出ている。岩壁に波がぶつかり、砕ける音が聞こえる。空は真っ青で、積乱雲がもくもくとわきたち、海には白い波しぶきがいくつも現れては消えている。丈高い草が断崖のすぐそばまで迫り、道は狭い。
 左手に断崖、右手に草を見ながらゆるやかにカーブを描く斜路をのぼっていくと、やや広い場所に出て前方に垂直に近い岩壁がたちふさがり、今度は右へとゆっくりと降りていく下り坂となっている。しばらく下っていくとようやく草と岩壁が切れて平原に出た。いくつも転がっている大きな岩は花崗岩か。ずっと向こうに煙を上げている大きな窯が見えた。その横には今にもくずれそうな掘っ建て小屋がある。あれがヴァンスの家か。
「こんにちは」
 小屋に着いた頃にはへとへとになっていた。かすれた声で挨拶する。
「開いてるよ」
 低い、しわがれた声が聞こえた。木の扉を開けるときしんだ音をたてた。
 中では男がろくろを回していた。頭にタオルを巻き、紺の、日本の作務衣のような服を着ている。粘土で汚れている。
「お忙しいところを失礼します。私、調査官の天下という者です。地球から着ました」
「ああ、ちょっと待ってくれ。今大事なところだ」
 男は指先に全神経を集中している。胴が丸い、口がラッパのように開いた壷ができかけている。
「ああっ! ちくしょう」
 口がくずれた。回転しながらぐにゃぐにゃと曲がる。
「なんだ」
 立ち上がり、腰のタオルで手をぬぐう。
「ええ、少しお話をうかがいたいと思いまして」
 きっと、射るような視線が天下をにらんだ。浅黒い顔には深いしわが刻まれている。
「ヴァンスさんは15年前にこちらに来られたそうですね。地球ではかなり名のある陶芸家だったそうで」
「調べたのか」
 麻の手袋をはめながら歩いてくる。と思うと、天下の横を通りぬけて庭に向かった。
「いい条件で仕事をさせてやるっていうから来たんだ。いいのは土地だけだ。待遇は良かあねえ」
「どうしてです。地球よりいい値で買い取ってくれるはずですよ」
「ああ、そうだな」
 個人的な事情は、突っ込んだことは聞けない。
「しかし土はいい。質のいい土が取り放題だ。釉薬も、頼めば上等なのをいくらでもくれる」
 天下も庭の方へいく。壷や皿の類が無造作に地面に並べられている。
「素晴らしい作品ですね」
「お世辞はよせ。素人に何が分かる」
「いやあ、陶芸の天才なんでしょ? だからここに来る資格を得た」
 ヴァンスはかがみこんで、壷の一つを持ち上げた。
「陶芸の価値とは何かね。名が売れている陶匠が作った。だから価値があるのかね」
 青い、丸い壷をしげしげとながめている。美しくきらきらと輝き、ヴァンスが傾きを変えるたびに、濃い青になったり、水色になったり、あるいは緑色に変わったりする。こんな壷は見たことがない。素人が見ても、ものすごく手のこんだものであると分かる。
「いいか。これは俺が作ったんじゃない。そこいらへんの小僧が作ったのを横取りしてきたんだ。それでも価値があるかね」
「いや、そんなことはないでしょう。それは天才の作品です。そこいらへんの小僧が作ったものではないでしょう」
「うらやましいか」
「は?」
「俺は陶芸の天才だ。何を作ってもそこそこいい値で売れる」ヴァンスはぎらぎらと目を光らせた。「調査官の給料って、たいしたことないんだってな。一つの壷にあんたの給料の3ヵ月分の値がつく。うらやましいか」
 天下は度肝を抜かれて返す言葉が浮かばなかった。ヴァンスは天下が何か言うのを待っている。
「……そうですね」口の中が乾く。「私のように何も才能がない人間は、こんなお役所仕事でもやるしかありません。うらやましいですよ」
「この壷のできはどうだい? いいか。悪いか」
 ヴァンスはぐいと壷をつき出した。今度は紫色に光っている。
「ええ、素晴らしいできだと思います。こんな不思議な色を出す壷は見たことがありません」
「そうか、素晴らしいか」
 ヴァンスはいきなり、仁王のような顔をして壷を頭上に高々と持ち上げた。次の瞬間、天下の給料3ヵ月分のその壷は、色とりどりの破片と化して地上を舞った。
「こいつはな、失敗作だ!!」
 ヴァンスは天下に向かって人差し指をつきつけた。
「いいか、あんた。人のことを天才、天才って言うなよ。ここじゃ、馬鹿にしてるのと同じだぜ」
「なぜです。どうして天才って言っちゃいけないんです」
「この星は全員天才だからさ。天才ってのはプライドが高いんだよ。他の、自分以下の人間達がほめそやしてくれないと満足できねえ。ところが、周りがみんな自分とたいして変わらないか、自分より上の人間ばっかりになってみろ。“普通の人”になっちまうんだ。“その他大勢”になっちまうんだよ」
「そんなことはありません。天才同士が集まれば、お互いに切磋琢磨しあって……」
「磁石のN極とN極をたくさんつき合わせるようなもんだぜ」
 そんなことはない。調査官学校にいた時は、みんなお互いを励ましあったはずだ。調査官のプロになるために、夜通し球状星団やバルジについて語り合ったものだ。今ではあまり役に立たない宇宙飛行訓練も、仲間の励ましがなければとうてい耐えられなかった。エリート同士で切磋琢磨し合ったのだ。
「地球じゃ、買い手は客だった。ところがここじゃ買い手は政府だ。張り合いねえよ」
 ヴァンスは、急に肩を落としてやりきれないというふうに首をふった。
「他のやつの所に行ってみなよ。俺の考え方と違うかもしれん」


 未知なるもの

 どうして他の調査官はこの事を書かなかったのだろう。天下は、ヴァンスが言ったことが気になった。それともあんなことを考えるのはヴァンスだけだろうか。
 天下は、第二地区のはずれに向かって歩いていた。科学者パディーディ・ロックフォードに会うためだ。
 今度は天下自身がアポイントメントをとった。電話の向こうで陽気な声が言った。「それじゃあ、第二地区のはずれに来て下さい。いいものをお見せしますよ」、と。
 送られてきたFAXを見ながら、小高い丘をのぼっていく。どうして、自宅でも、オフィスでもなく、こんな野外なのだろうか。
 その理由は、のぼりきった時に分かった。大きな穴が、パックリと口を開けていたからだ。見せたいものというのは、これのことか。
 狭い丘の頂上には、直径3メートル程度の穴があった。穴の周りは鎖の柵で囲まれている。この穴は一体なんだろう? 天下は、柵につかまり注意深く穴をのぞきこんだ。何かが変だ。しかし一体何が変なのか、すぐには分からなかった。どこが変なのかやっと分かった時、天下はぎょっとした。真っ暗なのだ。穴が真っ暗だとどうして変なのか。普通、穴というのはある程度の深さまでは、日光が差し込んでいるはずである。ところがこれは、まるで墨汁を満たした池であるかのように、真っ黒なのだ。
「やあ、こんにちは」
 いきなり背後からかけられた声に、天下はびくっとして振り向いた。
「几帳面な方のようですね。きっかり二時です」
 青年はにっこりと微笑んで、腕時計を指でこつこつとたたいた。ほりが深い顔立ちはインド人のようでいて、それほど色濃くはない。名前からしてハーフか、クウォーターだろうか。
「でもあなたも二時に現れましたよ」
「いえいえ、僕は少し早く来てしまって、その辺ぶらついていたんですよ」青年はおどけた調子で肩をすくめてみせた。「どうです、この穴。どこか奇妙な所に気がつきませんでした?」
「ええ。日光が入射していない。まるで黒い絨毯が敷いてあるようだ」
「じゃあ、手はまだ突っ込んでないんですか」
 えっ? と、声には出さずに口だけそういう形にした。
「見てて下さい」
 青年はいきなりかがみこんで、鎖の間から手を通して穴の中に手を入れた。
「あっ」天下は目をむいた。
 青年の腕は、まるで水の中にひたしたかのように、折れ曲がって見えた。それでいてさざ波一つたてていない。
「あきらかに空気とは屈折率が違います。でも液体じゃありませんよ。ほら」
 青年はかき混ぜるようにくるくると腕を回した。しかし中がかき乱れる様子はない。しかも不思議なことに、穴はふちまで真っ暗なのに、腕ははっきりと見えているのだ。ぼやけるでもなく、色が変わるでもなく、ただ単に折れ曲がって見えるのだ。
「どうです、あなたも」
 天下もかがみこんで、穴の中にそっと手を入れた。指先から徐々に折れ曲がって入っていく。しかし、何かの感触を得ることはできない。熱くも、冷たくもない。ただ地上0センチのところで、腕の角度が変わっているのだ。天下は薄気味悪くなって腕をひっこめた。
 立ち上がると、青年は手を差し出してきた。
「申し遅れました。原子物理学者のパディーディ・ロックフォードです。大学で先生をやっています」
 天下は青年の手を握った。
「調査官の天下鏡二です。ロックフォードさんはクフ国立大学の教授だそうですね。25歳で教授になったんだとか。異例の出世スピードですね」
「ははあ、私を選ばれたのはそのせいですか。でもここじゃそんなのはごまんといますよ。みんな若くして天才の名を欲しいままにしたような連中ですから。そのかわり、天才なもんだから早死にするやつが多いです。この星の世代交代は早いですよ」
「ところで、これは一体、どうなっているんです?」天下は穴を指差した。
「分かりません。一切の調査が、禁じられているんです」
「なぜです。今ちょっと見ただけで、ずいぶんと変わった穴だということが分かるのに。なぜ調査してはいけないんですか」
「古いしきたりがあるんですよ。セトの未知なるものには触れてはならない。この穴に対してもそうです。どうしても調べたければ中に飛び込め、それだけが唯一の調査方法です」
「ずいぶんと乱暴な。それにしちゃあ防備が甘いですね。これじゃあ誰でも入れるでしょうに」
 天下は鉄の棒を立てて鎖をつないだだけの柵をみつめた。腰くらいの高さしかない。棒にも鎖にも赤さびがついている。
「ああ、ちょくちょく神父が見回りに来るんですよ。見つかるとこの星、追い出されます」
 天下は青年がながめる先を見た。丘のふもとに小さな白い教会が建っている。
「でも私も神父の目を盗んで、音響ソナーで深さを測ったことがありますよ。しかし音波は帰ってきませんでした。とんでもなく深い穴です」
「さっき手を入れたのもだめなんですか」
「だめです。もし隠しカメラでもあったら、天下さんには即お帰り願うことになります」
 天下は慌てて周りを見回した。
「ハハハ、大丈夫ですよ。こんな事くらいだったらしょっちゅうやってます」
「古いしきたりというのは何です。法律のようなもんですか」
「いや、法律とは別に、しきたりがあるんです。地球からセトへの移民が始まった時に、ちょっとした混乱がありましてね、ええ。何しろみんな、個性の強い人間ばかりですから。そこで、宗教と政治の両方に明るいやつが、しきたりを作ったんですよ。争ってはならない、うやまわなくてはならない、ってね。教祖様っていうんですかね。CはSをさげすんではならない。ああ、廊下を走ってはならない、なんて校則みたいなのもありました。どこの廊下のことだか」
 青年はまゆをしかめて首をふった。
「今は教会が、しきたりを守らせています。このしきたりというやつにはいいかげん頭にきてるんですよ。僕も物理学者のはしくれです。未知なるものがあったら、調べたい」穴の方をじっとみつめる。「この穴、いつかは調べてみせますよ。神父の目を盗んで」
「いや、それはよくない。しきたりがあるのなら、守るべきです。もしどうしてもとおっしゃるなら、やはり飛び込むしか……」
 あっ、と思った。天下は何か、ひどくまずいことを言ったような気がした。


 絵画の天才

 天下はぎらぎらとオシリスの強い日差しが照りつける中を歩いていた。左右に延々と平野が広がり、短い草が囲む中を小道がずっと遠くまで続いている。
 考えてみれば楽な仕事だ。1日1人、1ヵ月かけて30人を訪問すればいい。余った時間は好きなように使っていいのだ。好きな読書に費やそうが、歓楽街に出向こうが、勝手気ままだ。こんなふうに開拓された星はいい。たいていの星は未開拓だ。血清が開発されていない毒を持った植物や、人肉を食らう未知の生物の影におびえながら調査を進めなければならない。
 それでも……。天下は空を見上げた。この猛烈な日差しは五十近い男の身にはこたえる。
 ようやく目指す家が見えてきた。大きな1階にかわいらしい2階をのっけた、赤レンガ造りの童話に出てきそうな家、それが天才画家イエーガー氏の住まいだ。
 ハンカチで顔の汗をぬぐいつつ、やっとたどり着いたチョコレート色のドアの横の、青銅製のライオンの顔の鼻の頭を押す。荘厳な音が鳴り響いて、「はあい、どなた」という女性の声が聞こえた。ドアが開いて、ぷっくりとした、紫色の花柄をあしらったドレスを着たお婆さんが現れた。
「こんにちは。昨日お電話しました調査官の天下というものです」
「あらあら、まあ」
 にこやかな目がしわの中に隠れそうなお婆さんは、玄関のすぐ脇にある階段の上を見上げた。
「フリッツ。フリーッツ! お客様よ!」
 少し間があって、痩せ細った爺さんがひょこひょこと階段から降りて来た。黄色い半袖シャツの上に茶色いチョッキを羽織り、頭にちょこんと茶色のベレー帽をのっけている。作業用のズボンも、上着も、絵の具でべとべとだ。
「やあ、どうもどうも」高めの、しわがれた声が言った。
「こんにちは。調査官の天下です。フリッツ・イエーガーさんですか」
「ええ、いかにも。ジェミー、何をしとる。お客さんに上がってもらって。いちごジャムのクッキーがあったろう。それと、紅茶をお出しして」
「いえいえ、おかまいなく」
 さあさあ、どうぞどうぞと、イエーガー夫妻は天下を奥へと案内した。床も天井も壁も木製のその部屋には、いかにも天然の素材をいかしたというような木のテーブルと、椅子が並んでいる。イエーガー氏がこの格好のまますわるのか、絵の具で汚れている。
「どうぞ、召し上がれ」
 しばらくして、お婆さんが形が不揃いのクッキーと、ドーナツと、紅茶を運んできた。深い香りはアールグレイだ。
「女房のお手製です。こんなことしかやることがありませんでな」
 天下はジャムののったクッキーをぽいと口の中に放りこんだ。本当はおいしいのだろうが、なにしろのどが乾いているので粉っぽいだけだ。おまけに唾液と混ざると歯にまとわりつく。香り高い紅茶を飲む。熱い。こういう時は、日本人の感覚ではビールに枝豆でもほしいところだが、そうも言えない。
 天下は壁にかかった絵をながめた。ここへ来る途中に見た短い草が生い茂る平原だ。空には暗雲がたちこめ、いまにも雷が鳴りそうな雰囲気だ。それだけならどうということもないのだが、絵の真中に黄色の円錐が、底面をややこちらに向けて浮かんでいる。
「いやあ、素晴らしいですなあ。イエーガーさんの作品でしょ?」と、天下は言った。
 イエーガー氏は、ちらとだけ振り返ってすぐまたドーナツをちぎって口に放りこんだ。
「あんなのは、たいしたもんじゃありません。政府に買い取ってもらえないから、家に飾っとるんです。落書きですよ」
 イエーガー氏は、天下がそれ以上クッキーにも紅茶にも手を出そうとしないのを見て気を使ったのか、急に立ち上がった。
「二階のを見ますか。売るためのやつがたくさんありますよ」
「ええ、それじゃあ」天下も立ち上がり、老人についていった。
 二階に上がると、狭い納屋のような部屋の壁中に絵が飾ってあった。床もキャンバスだらけだ。白いとげとげを背景に緑色のぐにゃぐにゃした水飴のようなものが浮かんでいるもの、幽霊屋敷みたいなのが渦を巻くようにぐんにゃりと曲がっているもの、どれも天下には理解しがたいものばかりだ。
「いや実になんとも……」天下は形容に困った。「不思議な絵ですな」
「こういう類の絵は、うまいんだか下手なんだか分からんもんです。子供の落書きと変わりゃせん」
 意外な言葉に、天下は驚いた。
「でも、イエーガーさんは愛着を持っておられるのでしょう?」
「とんでもない」老人は口をゆがめて首をふった。「これは、売るための絵です。たまたま最初に評価されたのがこういう類の絵だったんです。私が本当に描きたいのは、下に飾っていたような絵なんですよ」
 天下には、どこが違うのか分からなかった。
「おや、あれは?」
 天下は、壁の一隅に、見たことがある風景を描いた絵を見つけた。魚眼レンズを通して見た景色のようになっているが、昨日の、あの穴だ。
「ああ、あれは地区のはずれにある丘の上の、不思議な穴を描いたものです」
「知ってます。昨日ロックフォードさんという方に見せてもらいました」
「あの青年をご存知ですか。丘の上に行くとよくいるが」
 天下は、視線を絵からイエーガー氏へと移した。
「するとあなたも、お知り合いで?」
「ええ、ええ。彼はあの穴をこそこそ調べとるようです。しきたりに反する行為です。私がいくら注意しても、聞く耳持たずですよ」


 プライド

 セト一番の料理の天才に会いに行ってその自慢話の嵐に辟易とした帰り道、天下は例の穴の近くを通った。ふと見上げると、丘の上で数人の男達が言い争っているのが見えた。
 手を振り回してわめいているのは、パディーディだった。いったいどうしたのだろう。天下は気になって、丘をのぼっていった。
 穴の前で、顔を真っ赤にしたパディーディが薄汚れた布の服を着た二人の農夫に向かって怒鳴っていた。手にはウイスキーの瓶を握っている。
「Sのくせに! SのくせにCに向かってそんな事を言うのか!」
「Cってのはよっぽどデリケートに出来てんだな。女にふられたぐらいでこの荒れようだからな」二人のうちの痩せた方がヒッヒッと笑った。
「いったいどうしたんです」天下は割って入った。
「ああ、天下さん。この二人が、僕のことを臆病者だっていうんですよ」
「だってよう、この先生が穴の中に飛び込まないからよう」太った方がぼそぼそと言った。
「えっ? なんですって!? 飛び込むわけないじゃないですか。死んでしまいますよ」
「いやいや旦那、この先生はおかしなことを言うんですよ。穴に飛び込むとカフラーに出るんですってさあ」痩せた方が自分の頭を指差してくるくると回した。
「天下さん、この穴の中の空間は、ひどくねじれてるんです。穴の中を望遠鏡で見てみれば分かります。小さな光が見えるんですよ」パディーディは酒臭い息を吐きながら言った。「僕は計算してみたんです。向こう側に出られるとして、その正確な位置は南緯24.23度、東経36.21度、カフラーの第二十一地区です」
「何を言っているんです、ロックフォードさん。どうして穴の向こうがカフラーなんです」
「天下さんはどうやってこの星に来たんですか? ワープで来たんじゃないんですか? だったらそういうものが自然に存在したとしても、不思議じゃない」
「だからよう、あんたが証明してみせればいいって言ってるんだよ」痩せた方が挑発するように言った。「偉そうに言うんならよ、自分が飛び込んでみせりゃいいのさ。そうしないから臆病者だと言うんだよ」
「Sのくせにっ!」
 ――CはSをさげすんではならない……
 天下はパディーディが言った、“しきたり”を思い出した。
「明日の朝には先生が大ぼらふきだってうわさが、地区中に広まってまさあ」痩せた農夫はさらに挑発した。
 パディーディがウイスキーの瓶に口をつけてぐびぐび飲むのを、天下は信じられない気持ちでみつめた。
「飛び込んでやる!」青年は怒鳴った。「穴の中がどうなっているのか、俺が身をもって確かめてやる!」
「ロックフォードさん!!」
 天下が駆け出すのは、0.5秒ほど遅すぎた。
「わあああっ」
 天下が鎖につかまった時、絶叫しながら落ちていくパディーディの姿が見えた。だが一瞬あとには、その姿はしゃぼん玉がはじけるように、ふっと消えてなくなってしまった。


 教会にて

「皆さん、亡くなられたパディーディ・ロックフォードさんを信仰をもって神の御手にゆだねましょう」神父の声が響き渡る。「私達に約束された永遠の住まいで、終わることのない安息を受けることができますように。私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
 パディーディが言った南緯24.23度、東経36.21度の付近は、大掛かりな捜索が行われた。しかし、彼が見つかることはなかった。
 天下は、葬儀に参列した人々が一人ずつ祭壇に花を供えるのを、ぼんやりとながめていた。なぜ飛び込んだのか。なぜ、こんなことになったのか。
「あんたの番だよ」
 席に戻ってきた太った婦人につんつんとつつかれて、天下は我にかえった。
 祭壇に進み、礼をする。献花台にセト特産のフェーベという白い可憐な花をそっと置き、ゆっくりと下がって、神父と泣きはらしている両親に礼をした。神父が、天下に向かってささやきかけてきた。
「調査官さん、あの穴には名前がついていませんでしたが、つけることにしましたよ。『馬鹿者の罠』という名を」
 なぜわざわざそんな事を天下に言うのか、分からなかった。なぜそんな名前なのかも、分からなかった。
 出棺のために外に出ると、知った顔が近寄ってきた。画家のイエーガー氏だ。
「こんなことになるんじゃないかと、思っとったんですよ」と、イエーガー氏は言った。「前にも一人だけ、あの穴に飛び込んだ男がいますよ。30年も前のことですが。彼もまた、プライドの高い男じゃったよ」
「その人も挑発にのって、飛び込んだんですか」
「いやいや、細かいのは覚えとりゃしません。しかし穴がどうなっているのか知りたがっていたのは同じです。たしか数学者だったが……」
「その人は飛び込んだ後どうなりました?」
「分かりません。でもあんな深い穴だから、助かりゃせんでしょう」イエーガー氏は遠くを見つめるような目をした。「この星はプライドが高いのばかりだから、穴に飛び込むのが増えるかもしれませんな」
 プライドが高いために、ちょっとした挑発で飛び込んでしまう。だから馬鹿者の罠か。天才って、それっぽっちのものか? 天下はどうも、違うような気がした。


 馬鹿者の罠

 天下は、宇宙船の帰りの便の中にいた。調査官が現地の人間に係わった結果、なにかしら事故が起こったら、ただちに調査を中止し帰還するのが規則だ。それが調査官のせいであるにせよ、ないにせよ。
 馬鹿者の罠(ブービー・トラップ)、か。
 仕掛け爆弾、あるいは、触れると爆発する擬装地雷のことだ。第二次世界大戦で、ドイツ空軍はイギリスにおもちゃや菓子の形をした爆弾をばら撒いたという。子供がそれを拾うと爆発する仕掛けだ。
 天下は、前の座席の背もたれから引き出した小テーブルの上に並べた、二つの調査書を読み返していた。左の調査書には、事実がそのまま書き連ねてある。ヴァンスのこと、パディーディのこと。
 右の方には、セトの美しい景観やうまい料理のことばかり書いてある。調査を中止した理由は書かなければならないから、パディーディのことは単に穴の中に足をふみはずして落ちたとだけ書いてある。
 左の方を提出すれば、あの天才達は解散することになりかねない。
 セトは、大量の創造物を期待した実験場だ。そうはいっても彼らの待遇は地球のそれよりはるかにいいのではないだろうか。ヴァンスの言い分も分かるが、あの楽園を追放されて、彼らはやっていけるのだろうか。下手をすると“思想改造”という悲惨な対処をされかねない。
 天才とは何だろうか。不断の努力によって培われるものだ。美を極めようとすること、真理を追究しようとすること。アインシュタインもピカソもベートーベンも、天才であるがゆえに、天才であることの呪縛から逃れられない。究極の美、究極の真理、それは、追究すればするほど“日常”からかけ離れていく。“普通の人”から見れば、何でそんなもののために青春を犠牲にするのか、精神をすり減らすのか、としか思えないものかもしれない。微分積分を勉強していったい日常生活の何の役にたつのか。
 人間は、ないものねだりをするものだ。すべての真理を知りたい。いや、すべてでなくていい。空はどうして青いのか、宇宙の果てはどうなっているのか。そんなことを知らなくても、蟻や蝶は生きている。いやいや、人間は蟻や蝶とは違うのだ。人間は巨大な脳を持った時点で、“知る権利”を得たのだ。だが本当にそうなのか。人間様もまた、結局は無知蒙昧で終わるのではないか。「空気とは何か、答えてみよ」と言われたら、人間様のできることといったら、紙に大量の化学式を書き連ねてみせるくらいのことだろう。だが天才は、これを欲しがるのだ。紙の上の化学式ではない、“空気の答”を。
 そんな彼らがあの穴を見たら……。
 右の調査書を提出すれば、政府はあの穴を埋めろという強制命令だけは出すだろう。もっとも底無しだから、蓋でもかぶせるのだろうが。
 天下は左の調査書をびりびりと引き裂いて、前の席の背もたれのごみ吸引口に吸いこませた。

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