「これがその木ですか」と私は言った。
「ええ、これがちびくろサンボのお話に出てくる木です」コモは答えた。
 私は珍しいものや話を求めて世界中を旅している。エジプトのピラミッドはもちろん、イースター島のタンガタマヌ、モアイ・カワカワ、バリ島のバロンダンスなどなど、数え上げればきりがない。日本にも行った。白川郷五箇山の合掌造りを見ておおいに感動した。京都や奈良など見ても面白くない。
 私が見たこと、触れたものを、本に書いて売るのだ。それで飯を食っている。
「虎がバターになる木」の噂を聞いたのは一週間前のことだ。私がとびつかないわけがない。
「だんな、ちびくろサンボの話、知ってますか?」と船員が話しかけてきたのは、アメリカに帰る大型客船の甲板で、あくびをしている時だった。
「ああ? 確か、サンボが三匹の虎に食われそうになるんだが、虎は喧嘩を始めて、互いに追いかけて木の周りを走っているうちに、溶けてバターになってしまうという、そんな話だと思ったが。黒人差別だとして絶版になったのではなかったかな」
「実在するんですよ、その木」船員はなぜか小声で言った。「いえね、だんなが話しているの、聞いちゃいましてね。珍しいものを探して、旅してるんですってね。素敵なことだあ。良かったら、場所を教えましょうか?」
 彼に紙幣を三枚渡し、いてもたってもいられず、身支度をしてこの国にやってきた。教わった村に行って、英語を話せるコモという老人に出会った。彼にもチップをはずんで、案内を頼んで、そして今ここにいるというわけだ。コモは最初嫌がったが、金額を増していくとやがて渋々承諾した。
 太く、高い木だが、他に特徴もなく、少し物足りない。
「周るとバターになるんですよね」
「あ、いけません」
 ふざけて半周した私をコモは慌てて止めた。
「バターになるというのは、本当です。だから誰もこの木に近づきません」
 私は笑って首をふった。
「なりゃしません。どうも、こういう自然豊かな国では、迷信を真剣に信じる人が多いようですね」
「あなたが今少しだけ周ったのも、だめです。必ず体に影響が出ますよ」
 コモは本当に怒っているようだ。
 足音が聞こえ、振り向くと、一人の男が歩いてきた。迷彩色の、軍服のようなものを着、斧をかついでいる。
「今日こそ、この木を切らせてもらいますよ」と、彼は英語で言った。
「帰れ!」コモは怒鳴った。
「いったい何ですか」私は興味をひかれ、男に尋ねた。
「私は政府から派遣されてきた者です。この木は呪われています。今までは保護されてきましたが、新しい国王が切り倒せと命じたのです。この爺さんをはじめとする村人達は、決して許さず、邪魔するのです」
「これは村のものだ。断じて許さん!」コモの顔が真っ赤になった。
 驚いたことに、男は斧を爺さんに向かって振り上げた。
「邪魔するやつは死刑にしてもよいという許可が出たのだ。さあ、そこをどけ」
 コモは後ずさりし、尻餅をついた。私はどうして良いのか分からず、棒のように突っ立っていた。
「うりゃ」
 男は斧を振りおろした。鋭い刃が木にささった。
「ああ、なんという恐ろしいことを」コモの顔が赤から青に変わった。
「うんせ!」
 斧が再び幹に食い込む。ぐい、ぐいと引き抜き、三度目の打撃を加えようとした瞬間、彼の体が痙攣した。
「うぎゃあ!」男は叫んだ。一体何が起こったのか。木の怒りにふれたのだろうか。
 突然、彼は斧を放り捨て、猛烈な勢いで走りだした。
「おい、誰か止めてくれ」
 大声でわめきながら、目にもとまらぬスピードで木の周囲を駆ける。
 私は呆然として見ていた。足を動かすことも、男に声をかけてやることもできなかった。これが彼の言う「呪い」だろうか。
 三十二周走って、男はやっと止まった。荒い息をはきながら、倒れ伏す。
「あの、大丈夫ですか」私は恐る恐る声をかけた。
「おおお」彼は膝立ちの姿勢で天を仰いだ。いったいどうしたというのだ。
「始まった。木の呪いだ」コモは震えだした。
「うお! うお!」
 黄疸のように、彼の顔が黄色くなってきた。まさか、そんな。
 目がたれてきた。溶けてきた、というべきか。茶褐色だった肌が、徐々に黄色に変わっていく。私もコモも、金縛りにあったかのように動けなかった。
「むおおう」
 男は両手を顔にあてた。指が顔にめりこむのを見て、私の全身から血の気がひいた。
 肌だけでなく、服まで変色してきた。これで何かの病気だと解釈するのは不可能になった。
 男の全身が、黄味がかった乳白色に変わっていく。彼が体をかきむしる度に、溝ができる。
 髪が黒から灰色へ、黄色へと変色していく様を、私は目を大きく開いて凝視していた。毛同士がくっついて、一本一本を識別することがだんだん不可能になっていく。
 まるで、たった今スポンジ生地に塗りつけたばかりのクリームのように、彼の全身がべとついてきた。耳は下がり、あごの横にあり、さらに首の表面をすべり落ちていった。
 チーズフォンデュからパンを上げたみたいに、液状のバターがあごから、腕から垂れ、落ちる。
 唇は糸をひき、目はねじれ、鼻はつぶれ、空に向けた両手は、指の間に水かきができたようになっている。彼はもはや一匹の怪物であった。
 私は何か言おうとするのだが、頭が真っ白になり、全く言葉が浮かばないのだった。コモは両手を握り合わせ、必死に祈っていた。
 服と体が混ざり合い、ゆがむ。彼の表層が流れ落ちていく。
 男は地面に転がった。腕が、足が、液体に変わり、形を失って行く。
「助けて……くれ」
 腰が、胸が消え、怪奇映画に出て来るような頭部だけが残り、それもゆっくりと溶けていった。
 一旦液状となったバターは、固まってきた。どろどろとした塊だった。


 翌朝、私はコモの家で朝食をごちそうになった。食卓にパンとサラダと、バター、ジャムが並んでいる。コーヒーが湯気をたてている。
 嫌な考えが浮かぶ。ひょっとして、あれを持ち帰ってきたのではないだろうな。いやいや、一緒に帰ってきたのだからそれはないだろう。
 第一、あんなものを食うわけがない。本当にバターになったのだろうか? 色はそれらしかった。村人はそうだと信じて疑っていないらしい。すると、溶けた人間を食って確かめたやつがいるのだろうか。私は、ジャムの横にあるガラスの容器におさまった淡黄色の物体を見るだけで吐き気がするのだが。
 サンボは元々虎だったものを食う時、何とも思わなかったのだろうか。
「昨日はどうでした? 具合が悪くなったりしませんでした?」とコモが言った。
「ああ、そういえばシャワーを浴びた時、妙に体がべとついたんだが」
「湯で溶けたんでしょう。でも、皮膚の表面がほんのわずか変化しただけで済んだんでしょうな」
 すると、私の体も影響を受けていたのだ。ぞっとする。
「バターはいかが?」
 コモの奥さんが笑みを浮かべてそいつを私に差し出してきた。
「女房には昨日のこと、話してないんで」とコモは言った。
「ああ、いや、結構です」私は苦笑いしながらジャムの瓶をとった。
 嫌いな食べ物が一つ増えたな、と私は心の中でつぶやいた。

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