チェムリは、「知」を探究する者として、この僧院で修行を続けてきた。十年という歳月が、チェムリを青臭い、何も知らない青年から、格式ある大人へと変化させていた。
 本日、晴れて修行を終えたチェムリは、山を降りる事となった。僧院の広い庭園を、チェムリは出口の扉へと歩いていく。深い山々に囲まれた、人里と隔絶された、僧院。むろん十年の修行の間、チェムリは僧院から出たことがない。
 チェムリは、僧院の出口である、大きな門に近づいていった。すると、門の傍らに僧長が佇んでいるのが見えた。
 老齢の、柔和な顔だちの僧長は、チェムリを出迎え、言葉をかけた。
「チェムリよ。W知Wを探究する者よ。お前はこれから、仲間達と離れ、自分の足でしっかりと大地を踏みしめて、W知Wへの道を歩んでいかなければならない。お前は、この僧院を出る際に、最後の試練を受けなければならない。お前が十年もの間修行を積んでいる間に、山の様子はすっかり様変わりしてしまった。お前は到底、自分自身では里へ下る道を見つけることはできないだろう」
 僧長は懐から古びた羊皮紙を取り出し、チェムリに渡した。
「お前はこれを読み、思慮深く考えるのだ。そうすれば自ずと、この試練を乗り越える道が見つかるはずだ」
 僧長は、いつもの修行の通り、最低限の言葉だけ言うと、そのまま黙り込んだ。チェムリはその羊皮紙を見つめ、眉間にしわを寄せ、読みはじめた。

まだあなたは、知へと至る道を歩き始め、き
っととまどっているのだろう。
すっかり成長したお前は、最後の試練に、す
ぐに答を見つけるだろうか。岩の陰より太陽
に向けて、童が微笑む。お前の前に、ゆっくり
進み出て、花を捧げる。その花を受け取らず、
みんなの事を考えなさい。知を知らざる者は
、 己が身のみを案じ、皆を信じず疑念ばかり
泉のように湧き出る。
のんびりと、ゆっくりと進むことです。休憩
所で休むのもまた良し。石の虎の像が鳴く庵
で、あなたは、よく考えなさい。あなたの、座
右の銘とする言葉に従い、その小さき頭の中
にしまった刀を取り出し、その美しき、左に
曲がった先を舌でなめると、己の舌は右に曲
がり、血がしたたる。その血の滴りに欺か
れず、正しき道を歩めば、あなたは幸せなり
。 石膏の門扉にて、あなたは迷う。木を見て
森を見ず、の言葉通り、あなたは深い緑の、葉
の間にある、葉脈をだどりなさい。お前の
中にある修羅に従い、あなたの中にある修羅
に刃向かい、己とお前とあなたの中にある、
ある種の矛盾を解決しなさい。深い、そのあ
る種の矛盾が何であるかは、自分で考え、
巨人の像の前で、反省しなさい。巨人の鳥が
木々を渡り、くるりと輪をかいて、再び巨人
の肩にとまる頃には、あなたはもうひと息の
所で、里へと至る道が分かるはずで、それ
でもあなたは、道に迷い、何も分からず、右に
左に迷い続け、人生に迷い、ミロクという菩薩
に出会うまで、さまよい続け、長い長い、丸い
曲線に沿って、回り、その果ての知へと至る道
が現れるまで探し求め、これまでの修行に疲
れ、ひざまづく。しかしあなたは立ち上がる
。 知へと至る道は、はるかに遠い。
やはり天へと眼を向けたあなたは、その心
が赴くままに、歩きだすでしょう。やや遅れ
て、あなたは気づく。この道は延々と、幾数千
里、数万里も続くのだろうか、と。
へんだ。へんだ。変だ!
と、あなたは思うでしょう。道は永遠に、長く
続き、いつまでたどっても答えは、里へと続
く道はみつからない。
山はどこまでも深く、あなたの心に、真理への
道を閉ざし、人類が発生し、今へと至る道程
が、あなたには見えず、宇宙と、神と、人間が
現在の形になるまでに、数々の試行錯誤が訪
れ、嘲笑し、「どうだ、何も分かるまい。分か
ることができまい」と、挑発し、全てが嘘
でも、真でも、その問いに対する答は、水が
あり、木があり、空がある、この世界の、あ
ろうべき姿、あるべき姿というものを、磨き、
うがち、知へと至る道を閉ざす。本当は……
。 本当の所は、お前が、あなたが探すのだ。


 チェムリは深く、深く考え、何度も読み返した。やがてにっこりと微笑むと、僧長に向かって頭を下げた。その羊皮紙に書かれた言葉が、チェムリに何を伝えたいのか、チェムリには分かったのだ。
 何も言う必要はなかった。僧長もまたニッコリと微笑むと、ウンウンとうなずいてみせた。
 チェムリは門を出ると、草むらに覆われた荒野を、草をかきわけながらまっすぐに進んでいった。やがて、チェムリの進路を阻むかのように、そそり立つ崖が現れ、壁となって左右に続いているのだった。チェムリは目の前に、新鮮な水が湧き出す泉を見つけた。その泉には、崖の上から流れる細い水の筋が、ちょろちょろと流れ込んでいた。そこからは崖沿いに右と左に分かれた細い道が伸びていた。チェムリは右の道へと進んだ。道はどんどん細くなり、やがてまた、草に覆われた荒野となった。それでもチェムリは、確信に満ちた足どりで進んでいった。
 森に出たチェムリがそのまま進んでいくと、周りの木々に比べてひときわ大きな木に出くわした。何年もの樹齢を重ねているらしいその木は、チェムリの胸の高さの辺りから何本もの太い、あるいは細い根を吐きだし、うねうねとからませながら地面へと伸ばし、四方八方へと伸ばしているのだった。チェムリはそこで左に曲がると、木々の間を抜けて、真っ直ぐに進んでいった。
 森を抜けたチェムリの前に、山道が姿を現した。チェムリの顔に、さわやかな笑顔が広がった。
 見ると、山道は山の麓の里へと続いているのだった。半日をかけて、チェムリは山を降りた。
 里へ降りても、誰もチェムリを気にとめる者などいなかった。それがチェムリだと、誰も気づかなかったのだ。
 一件の藁ぶき屋根の家に、チェムリは入っていった。石うすをひく年老いた女が、振り返った。女の眼から、はらはらと涙がこぼれた。
「チェムリ……」
「母さん!」

 こうしてチェムリは、知へと至る道を歩き始めた。知へと至る道は、はるかに遠く、チェムリの前に長く、長く、伸びているのだった。

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