最近よく図書館に行くようになった。私は最近になって絵画鑑賞に目覚めたのだが、私の月々の貧しい小遣いでは、到底高い画集など買うことはできない。そこで、毎週日曜日の図書館通いが、私の習慣となったのである。 テーブルでダリの、木の枝にぐにゃりと曲がった時計が掛けられている絵に見入っていると、ふいに一人の男が話し掛けてきた。 「あなたも、絵がお好きですか」 この図書館でよく見かける男である。歳は50前後だろうか。白髪混じりの髪を、きれいに後ろになでつけてある。 「ええ、まあ、好きといっても、それほど詳しいわけじゃないんですが……」 「どんな絵が好きですか」と言いながら、男は私の隣に腰掛けた。 「ダリやムンクの、不思議な絵が好きですね」 「なるほど、いい趣味ですな。あれは神秘的な世界です」男はテーブルの上で手を組み、眼を細めた。「作品の中に、一抹の“狂気”がある。その“狂気”が、芸術を生み出す……」 「はあ」不思議な事を言う男に、私は曖昧な笑みを浮かべた。 私は少しの間、男と話した。男はある小さな製紙会社の経営者で、5年ほど前に絵に興味を持ったという。趣味であちこちの展覧会や、画廊を回ったり、有名な画家の絵の複製を集めているそうだ。 「私は、リューベンスの『エレーヌ・フルーマンと子供たち』という絵が好きでね」男の顔が、少し曇った。「あの絵に描かれた子供を見ていると、私の娘を思い出すんですよ」 「娘さん……ですか」 「ええ、もちろん、そっくりというわけではありませんがね。どことなく、似てるんですよ。……四歳の時に、事故で亡くしましてね」 「……そうですか。お気の毒に……」 男の眉間に、皺が寄った。 「さてと、せっかくの時間を、お邪魔してしまいましたな」男は、急に立ちあがった。 「あの……」私は、言うべき適当な言葉を、見つけることができなかった。 * * * 私は、仕事が早めに終わったある日、いつも行く安バーでちびりちびりと早くから飲んでいた。男のことはもう忘れかけていた。カランカランという鈴の音がして、扉が開くと、例の男が入ってきた。 「またお会いしましたね」と、私の方から声をかけた。 「やあ、どうも」男は、コートを脱ぎながら、私のグラスをちらと見て「私にもウイスキーを」と言った。 「いやあ、寒い、寒い」男は手をこすり合わせた。「あなたも今日はもう終わりで?」 「ええ」私は腕時計を見る。まだ7時前だ。 話しこんでいるうちに、再び話題は絵の話になった。 「あなた、だまし絵はご存知ですか」 「ええ、エッシャーとか、あの類ですか」私は、水が下から上に向かって流れる不思議な絵や、メビウスの輪の上を歩いている蟻の絵を思い浮かべた。 「私は、だまし絵のコレクションもしているんですよ。恥ずかしながら、自分で描いたものもあります」 「ほう、それはぜひ一度拝見したいですね」 男の顔がパッと輝く。「本当ですか」 「ええ。今度ぜひ……」 「どうです。まだ時間も早いことですし、これから見に行きませんか。ご迷惑でなければ」 私は、あまり気乗りしなかったのだが、男の誘いを無下に断ることもできなかった。 男の家は、タクシーで30分くらいの所にあった。小さいながらもかなりの豪邸である。 私は男の後ろについて、地下室へと下る階段を降りていった。 「ほう……。こりゃすごい」 壁全体に、だまし絵が所狭しと飾られている。 地下室だというのに、小さな冷蔵庫がある。男はそこからよく冷えたワインを取り出し、「どうです? あなたも一杯」と言った。 「ええ、頂きます」と答えながらも、私は絵画達に見入っていた。 「ほう、これは森の絵の中に兎が隠れているんですね。五匹……、いや、もっといるかな」 「八匹ですよ」男は、テーブルの上に置いた二つのワイングラスに、芳醇な赤い液体を注いだ。 「よく、錯覚の何とかといった類の本に、簡単な絵が載っていますが、こんなに凝っているのは初めてだな」 「そんなので驚いちゃいけません。あの顔の絵はどうですか」 それは、つるつるに頭を剃った男が、下を向いて、眼だけぎろりとこちらに向けて睨みつけている絵だった。 「これは……どう見るんですか?」 「それは、一回壁から外さないと分からないんですよ。ええ、構いません。お手に取って下さい」 私は絵を壁から外した。しばらく眺めているうちに、逆さにすればよい事に気がついた。 「なるほど」それは、今度はこちらを見下して薄笑いを浮かべている、水兵の顔になった。 「実を言いますとね……」男はワインをぐいと空けた。「私の娘は、事故じゃないんですよ」 「えっ?」男の突然の言葉に、私は驚いた。 「そっちの絵はどうです? 上から三番目の、左から二番目のやつです」 「え、ああ」 「それも、壁から外さないと分かりませんよ」 それは、皇帝か何かの人物画だった。しかし絵の真中に、なにやら怪しげな縞模様が走っている。逆さにしてみても分からない。しばらく迷っていると、男が答を言った。 「真正面から見てもだめです。それは、横の方から見るんですよ」 私は、真横に近い角度で、絵を見た。そこに、不気味な髑髏が現れた。 「なるほど。絵を横に極端に伸ばして描いたんですね」 「娘はね、殺されたんですよ」 私はどきりとした。思い出すまいと努力してきた過去が、私の頭に甦ってきた。 「誘拐事件でした。娘は犯人に、殺されたんです。……もう、10年も前のことです。40近くなって、もう子供はできないだろうとあきらめていた時に授かった子です。犯人は未だに見つかっていません」 男があの事を知るはずがなかった。私が見た父親は、こんな顔じゃなかった。全然違う人物だ。 あの時私は貧しかった。日々の食事もままならなかった。私は、飢えていたのだ。だがそんな事が、一人の子供の命を奪ってしまった事に対して、何の言い訳になるというのだろう。 「その後……お子さんは作られなかったんですか?」 「妻は死にました。脳腫瘍です」 「……そうですか。それは……」 「私は、金を払うつもりだった! 準備もしていた! ……無残な姿でしたよ。ちょうどこの辺を撃ち抜かれていましてね」 男は、眼と眼の間をとんとんと指で叩いた。 そうだ。あの時あのガキが騒ぎ出しさえしなければ……。 私の額にはじっとりと脂汗がにじんでいた。しかし、男の話はきっと全然別の誘拐事件の話であるに違いない。それとも、整形を……? 「ところで、あなたの描いた絵はどこにあるんですか」 私はもう、その話を聞きたくなかった。できれば、この場から逃げ出したかった。 「ああ、その、一番左の、一番下にある絵がそうです」 そこに、随分と縦に細長い絵が、他の絵達に遠慮するように掛けられていた。 「これ1枚だけですか」 「ええ、そうです」 その絵は、キャンバス全体に縦の縞模様が走っていた。 男は何も言わなかったが、きっとそれも壁から外して見るものだろうと思い、落とさないように慎重に手に持った。 男は空になったグラスにワインを注いだ。 私は、思考能力が麻痺していた。その絵をどう見ればよいのかなど、もうどうでもよかった。 「……降参です。さっぱり分かりません」 「さっきの絵の応用ですよ。それは横からではなく、下から見るんですよ」 私は徐々に、絵を傾けていった。水平に近づけていくにつれて、なにやら人物らしい姿が、形を現してきた。 男がワイングラスを私に向けて掲げてみせるのが、眼の端に映った。 ほぼ水平に近くなった時、ようやく絵が明確な姿を現した。 それは、男だった。今まさにワイングラスを持ち上げている、その男の姿だった。絵の中の男は、ぞっとするような笑みを浮かべて、私に向かってグラスを掲げているのだった。 額縁の底面に、黒い穴が開いているのに気づいた時には、もう遅かった。その穴からフラッシュのような光が閃いた。 最後の瞬間、パーンという乾いた銃声が響き渡るのを、聞くことができた。 |