この短編は、あなたへの挑戦です。読み終わるまでトイレに行かずにいられるか、というチャレンジです。おっといけません。もう始まっているのですから、今いくらもよおしていてもダメです。
 というのはかわいそうですから、さあさあ、今のうちに行ってきて下さい。その後でこの先を読み進んで下さい。
 まさか、今のに引っ掛かった人はいませんよね? この小説はまだ終わっていないのですから。ではここで、水でもウーロン茶でもジュースでも何でもいいですから、一杯飲んで下さい。実際に飲んでから、先に進んで下さい。こんなふうに、途中で何度か飲んでもらいますので、家族と同居している方は、水筒かペットボトルを用意していただくのがベストです。「なにさっきから水ばっかり飲んでるの?」なんて怒られても、私は責任持てませんからね。単なるお遊びなのですから。


 斉藤は困っていた。ひざが細かく震えている。
「我が社の、耐熱ゴムは、ですね」
 言葉が途切れ途切れになる。いけない、落ちつけ、落ちつけ、と心の中で唱える。しかし、もう、限界だ。
 も、れ、そ、う、だ。
「I社よりも、二十パーセントも、優れていまして、ね」
 商談が終わるまで、たえなければならない。仕事用の笑みが、くずれそうになる。「すみませんが、トイレをお借りできますか?」と言ってみようか。いやいや、そんなことはできない。せっかくいい感触をつかんでいるのに、少しでも悪い印象を与えるのは、避けなければならない。
「価格も、他社より、安く、そして、なにより」
 ハンカチで汗をぬぐう。暑くもないのに、少しずつ皮膚からしみ出してくる。内部からの圧力は、次第に強まってくる。今にも爆発せんばかりに。
「カラーの、バリエーションも、豊富で、くっ!」
 相手――W工業の担当者が怪訝そうな顔をする。
「いや、すみません。その、用途も多く、ええ、て、適材適所といいますか」
 言っていることが変だ、と斉藤は思う。手を握りしめ、ひざに押しつける。力強く。すみませんが、トイレをお借りできますか? いや、まだだ。まだまだ。再び汗をぬぐう。
 すみませんが、トイレを、いや、この根性なしめ。我慢しろ、男だろう? 男も女も関係あるものか。すみませんが、御社の、素晴らしいトイレを、耐熱性に優れた、バリエーション豊富な、その、トイレを、どうぞ、私に、この、不甲斐ない私めに、どうか、一目だけでも。
「斉藤さん、どうかしましたか?」
「は!?」驚きのあまり飛び出そうになる。なんとか持ちこたえた。「いえいえ、何でもありません」
 彼は急いでパンフレットをバッグから取り出した。
「このCタイプなどは、どうでしょう、うっ。御社の生産システムには、ちょうど、このタイ……プが、ぴったりフィットします」
 いやあ、さすがW工業さんのトイレだ。涼しげで、青空のようにさわやかで、そして、この流れるようなフォルムの便器は、なんと愛らしいことでしょう。これなら爽快に用を足せそうです。
「確かに良さそうなのですが」相手は納得していなさそうだ。「どうも伸縮性の面で、ちょっと決めかねるんですが」
 首を縦にふれ! 頼むからうんと言ってくれ! その、ただそれだけの動作が、俺をこの場から解放してくれるのだ。うちのゴムにしてくれ。はっきり言って、どこのを使おうが大差ないんだ。お願いだから。お願いです!
 斉藤は破裂しそうだった。
 彼の頭の中にイメージが沸き上がる。そこは公園で、噴水の周りを子供達がはしゃぎながら駆け回っている。だが、その噴水はつまっている。下の管を通して内部に流体が遠慮なく押し込められていく。ゴゴゴという音を立て始める。先端から水が少しずつあふれてくる。圧力が高まってくる。容赦なく。
「しん、しゅくせいは確かに少々劣るものの、その、分、耐熱性がよく」
 もう限界だ。ついに勢い良く、高く噴き上がる。子供達が驚く。無数の水滴は、午後の陽光を受けて、きらめきながら、空気中に散布される。
「だめだ!」と彼は叫ぶ。
 W工業の担当者は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。斉藤は慌しく立ち上がった。机の上に散らばった資料をバッグにつめこむ。
「この製品ではだめですね。もっと伸縮性が高い商品のパンフレットを持ってきます」
「ああ、そうですか。いやすみませんね」
 立ち上がった相手を無視して、彼は急ぎ足で出口へと向かった。


 どうですか? 全く大丈夫ですか? ううむ、おかしいな。ではお手数ですが、もう一杯何か飲んでもらえますか? お茶でも牛乳でもコーヒーでも。ああ、ビールの方が効果を実感できるかもしれませんね。いや、あなたが大人の場合ですが。大人でもお昼だったらだめですよ。
 飲んだつもりとして先に進もう、とかではなくて、本当に飲んで下さい。


 斉藤は走り出た。が、すぐに速度をゆるめた。駆けるのは危険だ。割れる寸前の水風船みたいになっているというのに、刺激を与えるのはまずい。しかし、一刻も早くトイレを見つけなければならない。焦燥感が彼の身をじりじりと焼いていた。特に、股間のあたりを。
 ボディービルダーのように、両腕から肩、胸にかけてしっかりと力をこめて進む。
 公衆便所がすぐ近くにあれば。なんだったら立ち小便ができる所でもいい。
 しかし、真昼間のオフィス街には、彼の期待にそえるような場所はなさそうだった。彼は手の平に次々としみ出してくる汗を感じながら慎重に、慎重に歩いていく。たっぷりと水が入った洗面器からこぼさないように。実際、彼の洗面器は表面張力によってぎりぎりの緊張を保っていた。少しでも気を抜けばあふれてしまう。
 もうどこでもいいから、その辺のビルに飛び込んでトイレを貸してもらおうか。
「すみません」と、斉藤は受付嬢に話しかける所をイメージする。「ちょっと、トイレを貸して頂けますか」
「アポイントメントはお取りになっていますか?」
「え? いやそうじゃなく」
「申し訳ありませんが、関係者以外の方はお通しできませんので」
「ああいえ、私はただ」
 警備員が近寄ってくる。
「どうしました?」
「あの、私は、ととと」
「こっちに来い、こらあ!」
 斉藤は肩をつかまれる。
「ちょっと待って下さい」
 警備員は恐ろしい力で彼の手首をつかみ、玄関まで連れていき、放り出す。
「二度と来るな。この禿じじい!」
 いや禿げてはいないし、じじいと呼ばれるほどの歳でもないのだが、とそこまで想像した時点で正気にかえる。
 なんて気が小さいんだ俺は! そんな事されるわけないじゃないか。
 そう思っても、受付嬢がトイレの場所を教えてくれたとしても、その直後にちょっと笑われたら……。それは嫌だった。彼はつまらない事を気にする男だった。
 都会という砂漠の中を、彼はオアシスを求めてさまよう。しかし灼熱地獄ではない。冷気はコートを通して容赦無く体の内部に浸透し、閉じ込められた大量の水を外に流し出せと斉藤に命じる。
 その出口および顔面だけは異様に熱く、嫌な脂汗が次々とふき出すのであった。
 彼はがんばった。刻一刻タイムリミットが近づいてくる爆弾をかかえ、何度も手を握ったり開いたりし、汗をぬぐいながら、どこかにあるはずの天国を求め、横で車が行き交う冷たいアスファルトの上を歩いていった。コンビニでもあれば、と願いながら、彼はさまよった。
 おお神よ、やはりあなたはいらっしゃったのですね、と斉藤は頭の中で感謝の言葉を偉大なる存在に捧げた。
 なんと、大都会の中に公園があるではないか! 彼は危険をかえりみず走った。もう一刻の余裕も無い。横断歩道を渡る時、すぐ目の前を通り過ぎた車にクラクションを鳴らされた。
 シーソーやすべり台や、砂場の横を通っていった。ゴールだ、やっとゴールだ。俺は勝ったぞ! そんなふうに思った彼が見たものは……。
 悪夢だ。こんな事が現実にあるものか! 俺は悪夢の中に迷い込んだのだ! 
 彼は全身を支配した喜びがいっきに萎えていくのを感じた。


 どうですか? 少しは手応えありましたか? 平気ですか。そりゃそうですよねえ。一日に五回トイレに行くとして、八時間寝るとすると、三、四時間我慢できる計算になりますからね。しかし、あなたが摂取した水分は、体内をめぐり、最終的な出口へと向かいつつあるのです。今こうしている間にも。さあ、さらなる挑戦です。ここでもう一杯飲んで下さい。


 斉藤が見たものは、公衆便所の前にできた長蛇の列だった。バカな! いったいどういう偶然で、これだけの人間が集まるのだ。
 なげいていても仕方がない。他を探すには時間がなさすぎた。選択の余地はなかった。彼は列の最後に並んだ。右のかかとと左のかかとを交互に上げ下ろしする。
 なぜ、みな、ここ、来た。かみ……さ……ま……俺……が……何……した……いう……のか。
 まるで交通渋滞にはまったかのように、全く進まなかった。もうすぐ助かるという思いが、彼の気をゆるめさせる。しかしここまで来て失敗するわけにはいかなかった。
 待てよ? と斉藤は考える。コートで隠れているのだから、少しぐらい濡らしても分からないのではないか? いやいや、だめだ。ちょっとだけ出して止めるなどという芸当ができるわけがない。滝のように流れ、水溜りを作り、みんなから白い目で見られるだろう。
 なんだよこのおっさん。
 いい大人がお漏らししてるよ。
 バッカじゃない?
 うざいよ。
 よりによってトイレの前で。もう少し我慢できなかったのか。
 きっと危ない人だよ。
 多くの視線が矢となって彼を射抜くだろう。その屈辱感は何年も心に残るだろう。「いやあ、あの時ははずかしかったよ」と笑って話せるようになるまで。思い出に変わるまで。
 ようやく、ゴールまであと三メートルの所まで来た。前にいる連中をおしのけたい。「頼む、俺を先にしてくれ! もう我慢できないんだ!」と叫びたい。目頭が熱かった。涙がこぼれそうだった。
 彼の内部では真っ黒な海が荒れ狂っていた。巨大な波が立ち上がり、飛沫を撒き散らす。空は暗い雲に覆われ、激しい雨が降り注いでいる。
 雷が鳴った。斉藤はもだえる。海面は渦を巻き、白濁する。再び、雷が轟いた。彼は身をくの字に折る。
 ドアが開き、初老の紳士が出て来る。入れ替わりに、髪を金色に染めた兄ちゃんが入る。あと、三人。
 波は大きな手となり、水面に叩きつける。周囲が一瞬光る。少し遅れて、轟音が耳をつんざくばかりに鳴り響く。斉藤は目玉に力をこめ、渇いた唇をなめる。
 あと、二人。
 もしも船が浮かんでいたら、まったく助かる見込みがない、水の地獄だ。自然の猛威の前では人間など無力だ。その嵐は、神の怒りだ。だが斉藤はあきらめなかった。あと、一人。
 もうすぐ、もうすぐ俺は救われる。俺はこの困難に打ち勝つ。あ……と、少し……だ。
 ついに彼は天国への扉の前に来た。もうちょっとで、大嵐を外へ解放することができるのだ。
 くっ、出る。いや、まだだ。ゴールは、もく、ぜん、だ。こ……の試練に、よくぞ耐えきった。だが、ゆだ、んしてはならない。むくう! 落ちつけ。気をしずめて、ゆっくりと呼吸するの、だ。もう、いや、だめ、くそ、早く、早く!
 中から人が出てきた。やった、ついにやったぞ! と心の中で叫びながら、まるでエベレストの頂上にたどり着いた登山家のような達成感を体中に感じながら、飛び込んだ。
 だが次の瞬間、斉藤は目を皿のように見開いた。何だこれは! と言おうとしたが、口から出た言葉は「ぐがっ!」だった。頭が真っ白になった。


 やあ、どうですか。「それがどうかしたの?」という感じでしょうか。うーん、厳しいですね。何かこう、水の出口に意識が行きませんか? 熱い、内部から押されるような感覚と言いましょうか。言葉にすると難しいですね。痛いとも痒いとも違う、ただ「出そうだ」としか表現のしようがない感じ。あなたは大丈夫ですか? まあ、まだ三杯しか飲んでいないですからね。コップ一杯が二百ミリリットルくらいとして、六百ミリリットルですか。ちなみに、正常な場合膀胱容量は三百から五百ミリリットルだそうです。それ以上はためておけないということですね。一日の尿量は千二百から千五百ミリリットルなんですって。話の冒頭からここに来るまでの短い間にあなたはその半分近くを摂取してしまいましたよ。大きめのコップならもっと多いでしょう。
 まあまあ、汗や呼吸で失われる水分もあるわけですから。さあ、もう一杯飲んで下さい。


 そこは、大きな部屋だった。壁のあちこちに大きな液晶ディスプレイが掛けられており、サイケデリックな幾何学模様を映し出している。長机が四角形を描くように並べられ、何人もの人が座っていて、しかめっ面をして彼の方を見ている。みんな銀色の服を着ている。斉藤は凍りついていたが、額からは滝のような汗が流れていた。一体全体、何が起こったのか分からない。
 振り返ると、入り口の向こうは公園ではなく、白い無機質な廊下だった。扉が横方向にスライドして、その情景を閉ざした。
「斉藤君、何をやっている。早く席に座りたまえ!」
 奥の方から怒声が飛んできた。そちらを見たが、まったく知らない顔だった。
「あ」と言うのが精一杯だった。
 とりあえず手近な椅子に腰掛ける。
「どうしたんですか、斉藤さん」小声で話しかけてきた隣りの男を見ると、なんと後輩の山田ではないか。「二十分も遅刻して」
「これは、どうなっているんだ?」口の中がからからだ。「ここは、トイレでは」
「何を言ってるんですか斉藤さん。重大な会議なんですから、しゃんとしないと」
 普通なら、自分が異世界に放り出されてしまったことに対して、恐怖を感じるだろう。しかし斉藤はそれどころではなかった。トイレに、とにかくトイレに。
「ちょっと失礼」そそくさと立ち上がる。
「斉藤さん、どこ行くんですか」
「便所だよ。だいたい」それ以上言う気が失せた。何を説明せよというのか。
 奥の、見知らぬ男が咳ばらいをした。
「やばいですよ。子供じゃないんだから、我慢して下さいよ」山田の顔はゆがんでいた。
 子供じゃないんだから? こ、ど、も、じゃ、な、い、んだからだあ? なんでガキだと許されて、大人は許されないんだ? そんな理不尽な話があるか。生理現象だぞ。
「斉藤君、どうした」奥の方にいる男が言った。重々しい表情をしている。壁一面に地球が映し出されている。
「ちょ、ちょっと、トイ」
「君は、どうしたらいいと思う?」
「はい?」歯をくいしばる。「何の、ことでしょうか」
 男は唇をゆがめた。
「決まっているじゃないか。死にゆく地球に対してどう思うのかと聞いている」
 なにをわけの分からない事を言ってるのだこいつは、と斉藤は思う。
「太陽が次第に大きくなってきている。赤色巨星になろうとしている。その影響を受けて人類の故郷が枯れていくのだ。我々はどうすべきか、それが問題なのだ」
 映っている地球は真っ青だ。ごくごく普通だ。海がすっかり干上がり、赤茶けているというのであれば分からなくもないが。
「さあ。私には、どう……でもいいことですが」
「なんだと! 君の故郷がなくなってしまうのだよ。どうでもいいとは何事だ」
「いや、私にはさっぱり訳が、分からないのですが」
「とにかくすわって下さい」と山田がささやいた。
 全く納得がいかなかったが、斉藤は腰掛けた。周りの重々しい雰囲気が、何だか知らないが大変な事を議論していることが、彼を思いとどまらせたのだ。長年会社勤めをしていたために身にしみついた条件反射だともいえた。
 奥の男は咳払いして、「誰か、意見のあるものは?」と言った。
「南極大陸を溶かすしかありません」と、斉藤の真向かいにいる白髪の男が唐突にしゃべり出した。「現在地球上の海は急速に干上がりつつあります。その結果、雲の量が減り太陽熱が余計に地上に届きます」
 何を言ってるんだこいつら、と斉藤は思う。どうやら地球が最後の時を向かえようとしているらしい。しかし、そんな話は初耳だ。それに、ついさっきまで外にいて、寒かったのだ。
 ふと、彼はまだコートを着たままだということに気がついた。慌ててぬぎ、隣りの席に置く。
「ここは、いったい、どこだ」斉藤は山田に聞いてみた。
「第五十三会議室ですよ」
「いや、そういう、狭い範囲の、事じゃなくて。ここは、どこ、だい」
「第三層ですけど?」山田は首を傾げた。
 第三層? なんだそりゃ! 斉藤は怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「だ、か、ら! それは、いったい、ぐっ、どこなんだ!」
「箱舟の中に決まってるじゃありませんか」
 箱舟? ノアの?
「それは、何?」
「宇宙船ですよ!」山田の声が少し大きくなった。奥の男がにらんだ。
 そんなバカな。地球の外にいるとでもいうのか? きっとこれはドッキリとかいうやつだ。自分の行動は全部カメラに撮られていて、後日放送されるのだ。
 だが、トイレの中がこんな広い部屋になっているというのはどう説明する。
 いや、そんな事はどうでもいい。早く、便所に、行くのだ。


 まだ大丈夫ですか。逆に、もう無理だ! という方はいらっしゃいますか? あなたが膀胱炎にでもなったら大変です。ではこうしましょう。今日はここでやめて、明日また最初からやりなおせばいいじゃないですか。
 そんなのに引っ掛かるか! ですって? 私はあなたの体を心配しているのですよ。どうかトイレに行って下さい。


「斎藤君」奥の男が呼びかけた。
「はい!?」
「君は最近少したるんでいるようだね。まさか、何も検討しないままこの会議に臨んだわけではないだろう?」
 どうやら意地の悪い人間のようだ。さっきどうでもよいなどと口走ったために、自分を攻撃するのだ。斉藤は目の前が真っ暗になった。ええい、構うものか。無視して出てしまえ、とも思うのだが、悲しいかな、サラリーマンの習性が彼をその場に縛り付けていた。
 何か言わなければならない。選択肢は三つあった。素直にトイレに行きたい、と言うべきか、これがドッキリであると仮定して、それを暴くもしくは調子を合わせるか、あるいは地球の滅亡を防ぐための提案をするか。
 彼にとって今一番大事なことは決まっている。
「あの、済みませんが便所に」
「便所をどうするのかね」
 斉藤はあせった。敵は手強い。機会をうかがって、そのうち切り出すしかなさそうだ。
「べ、いや、え、援助を、そう、援助をするのです。太陽エネルギーが余っているのなら、世界中の家庭にそれを利用した発電機をつければいい。そのための金を」
「誰が出すのかね」彼の右斜め前の男が唐突に発言した。「金を、誰が出すんだね」
「そりゃ、まあ、国民の税金で」
「植物は枯れ、動物も人間もバタバタ死んでいる。慢性的な食糧不足、物資不足で国民は苦しんでいる。そんな中で君は、税金を増やせと言うのかね」
 第一援助じゃないな、と斉藤は思う。苦し紛れもいい所だ。
「じゃあ、こう、うっ! いうのはどうでしょう。こ、これは全部作り事なんです。あり得ないのです! みなさん私を騙しているんでしょう!」
「はっ」右斜め前の男はバカにしたように唇をゆがめた。「彼は何も考えずに、出席したんですよ。だからあせって、くだらないジョークを言ってごまかそうとしているんですよ」
「斉藤さん、真面目にやってくださいよ」山田がささやいた。
 彼らの行動は自然で、演技か本気か分からない。果たしてドッキリなのか、違うのか。
「山田君」
「はい!?」山田は驚いたように奥の男の方を見た。
「君はどうだ。何か意見は?」
「ええ。では、私の検討結果をご報告します。すみませんが、ファイルa2901を開いて下さい」
 壁の映像が地球から赤と黄色のグラフに変わった。
「小麦の生産量は年々減少しております。特にアメリカでは……」
 斉藤にはどうでもいい事だった。第一、地球が干上がっていくのを何とかしなければならない時に、なぜ小麦の話などするのだ。
「……であるからして、ヨーロッパ諸国では……」
 映像は世界地図に変わった。国毎に色づけされている。
 退屈な内容だ。彼は、小学生の頃校庭で、トイレに行きたいのに我慢して、延々校長先生の話を聞かされたのを思い出した。とても集中して聞いていられない。
「……炎天下での農作業は困難であり……」
 斉藤はつま先で床を小刻みに叩いた。固く結んだ拳を両足に押しつけ、円を描くようにこする。そして指が食いこみそうになるほど肉をつかむ。正面の男が咳払いをしたので、足の動きを止めた。
「……全ヨーロッパは危機的な状況であり……」
 彼は右手をテーブルの上にのせ、人差し指でコツコツと音を鳴らした。このままではいけない。いい歳のおっさんが、椅子を汚したらどうだろう。いや椅子だけではすまない。床も濡らすだろう。みんな飛びのき、嫌な顔をするに違いない。軽蔑の目で見るだろう。そんなのは耐えられない。
 正面の男が、前より大きめの咳払いをした。斉藤は右手を握りしめ、割れそうになるほど強く机に押しつけた。


 もうダメだ、我慢できない、というあなたの声が聞こえるようです。まあまあ、いいじゃないですか。こんなの、ただのお遊びじゃないですか。勝っても何の賞品もありませんよ。そんなのにつきあって、あなたにどんな意味があるのですか? お漏らしでもしたらどうするのです?
 第一、不公平です。読み始めた時にもよおしていた人や、下痢の方には不利です。バカな事をしました。
 私が悪かったのです。頼みますからトイレに行って下さい。お願いします!
 どうしても続けますか? ではすみませんが、もう一杯何か飲んで下さい。


「もう限界だ!」斉藤は威勢良く立ち上がった。
 周りの人間がきょとんとしている。
「すみませんが、便所に行かせて頂きます!」
「斉藤君」奥の男が言った。「君はバカかね」
「何がバカだ! なぜバカだ! 俺は、ただ、トイレに行きたいだけなんだ!」
 いけない。話し合ってはだめだ。無視して直行するのだ。
「おい君、今会議中だぞ。ここは学校じゃないんだ。場所をわきまえたらどうだ」正面の男が不快そうな表情をしている。
「そうですよ斉藤さん。こんな重要な席で」山田も同調した。
 斉藤は回れ右をした。そしてドアの前へと進んだ。
「君は地球とトイレとどっちが大事なんだ!」
「我々を侮辱するのか!」
「逃げるのか!」
 一斉に罵声があびせられた。答えちゃだめだ。長引くぞ。うまく言いくるめようとするぞ。彼は歯をくいしばり、開閉スイッチらしきボタンに手を伸ばした。
「待て!」
 いきなり脇の下に腕を入れられ、後ろから捕まえられた。
「ちょっと、何するんですか」
「絶対行かせないぞ」
「なんでですか。どうして便所に行ってはいけないんですか」
「地球が重大な危機に直面しているからだ」
「答になっていない!」
 斉藤は肘を男の腹に叩きこみ、扉を開け、出ていった。
「待て!」
「トイレには行かせないぞ!」
「早く捕まえろ!」
 彼は白い廊下を走った。急がなければ、漏れてしまう!
「悪い事は言わない。戻って来い」
「世界が干上がってもいいのか」
 これはドッキリなんかじゃない。自分のために、こんな大仕掛けをするわけがない。やつらは魑魅魍魎なのだ。「トイレに行かせない妖怪」なのだ。
「待たんかこらあ!」
 振り返っちゃだめだ。もうこうなったら、意地でも便所に行ってやる。だが、走ることが刺激となって、出そうになる。しかし、捕まるわけにはいかない。歩いちゃだめだ。
 玄関だ! 警備員をかわし、飛び出した。山田は宇宙船の中だと言ったが、空もあり、建物も、道路も、木もあった。すべては人工物なのだろうか。しかしそれらは全て、現代のものとは思えなかった。
「待てえ!」
 まだ追ってくる。しばらく走ると、広場に出た。そこに、トイレがあった!
「おうりゃああ!」
 捕まるぎりぎりの所で中にすべりこんだ。すかさず中から鍵をかける。
「おい、開けろ! 開けないか!」
 ドアが乱打される。
 便器だ。目の前に、思い焦がれた便器があった。とうとうたどり着いたのだ。
 ようやくこの時が来た。彼はチャックを開けた。
 まるで、壮大な物語がようやく大団円を迎えたかのごとく、長い長い時間が流れたように感じた。そう、少年が都市で生まれ、数々の星をめぐり、そして宇宙の真理を知り、母なる星に帰ってきたような。あるいは、愛する人と離れ離れになった男が、多くの人間と出会い、裏切り、復讐、対立、戦争といった運命に翻弄された後、愛しい人と再会したかのような、長大な時が流れた。
「勝った!」
 そう叫んだ瞬間、彼の中から滝があふれ出た。
「勝った! 俺は勝ったぞ!」
 轟音を立てて、便器に流れ込んでいく。斉藤は、体いっぱいに幸せを感じていた。突然、嵐のような拍手が巻き起こった。「開けろ!」という怒声が、「おめでとう!」という祝福に変わっていた。
「おめでとう!」会議室の奥に立っていた男だ。
「おめでとう!」なぜか、W工業の担当者の声もした。
 すべての人々が彼の勝利をたたえていた。最後の一滴を出し終えた時、斉藤は天井を見、両腕を高々と上げた。
「やったぞ、俺はやったんだ!」
 拍手は鳴り止むことはなく、彼はこの上ない充足感に身をふるわせた。
 斉藤の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。


 いやあ、苦しかったですか? 私の負けです。完敗です。あなたは偉い! もうパンパンに張っているでしょう? よくやった! あなたが勝者です。


   追記

 どうでしたか? ずっと我慢した後での開放感はたまらなかったでしょう。人生の中で、小さな喜びを感じて頂けたとしたら望外の喜びです。
 あるいは、「なにそれ?」という感じでしょうか。少しも便所に行きたくなりませんでしたか? そうですねえ。自分でもちょっと、大袈裟かな? と思います。
 なにか変わったものを、と、頭をひねりにひねって考え出したのが本作です。短編くらいだったら、途中でトイレに行かなくても読み終わるのは造作もないことです。しかし、ずっと意識し続けるような状況におちいった場合はどうでしょう? それだけだと弱いので、途中、途中で何か飲んでもらうことにしました。
 さて、太陽の赤色巨星化についてですが、実際には五十七億年も先の事らしいです。現在の数百倍にまで膨れ上がり、地球は飲みこまれてしまうそうです。膨らみ始めると同時にガスが抜け、引力が弱まっていくので地球は遠ざかり、飲みこまれないという説もあります。いずれにせよ灼熱地獄となり、生命は絶えてしまうのですが。熱で死滅するのか放射能で滅亡するのが先か、それは分かりませんが。そんな後の事ではなく、一億年後には地球は干上がってしまうという説もあります。
 ちなみに、紀元前のローマ時代ではトイレに行かない女性ほど高貴であるとされ、良家の女性は小さい頃から我慢する訓練をしたそうです。膀胱容量は千ミリリットル以上あったと推測されています。これを貴婦人膀胱と言います。


 結構きつかった、という人がいたとしたら、大変うれしいです。耐えがたきを耐え、我慢に我慢を重ねた上での幸せ一杯な気分を味わってもらう事が目的なのですから。すっきりしましたか?
 すっきりした方は負けです。
 この追記も引っ掛けですからね。あなたはまだ読み終わっていないのですから。そういう条件でしたよね? まだ読んでいますよね? ここまで我慢した方こそ、勝者です。

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