「ああ、痛い」
 目を覚ました幸夫は、激しい頭痛に顔をしかめた。首をふり、頭をかきむしる。布団から抜け出す気力がなかったが、水を飲むためになんとかふらつきながら起き上がった。
 昨日、なんであんなに飲んでしまったんだろう、と少し反省する。どんちゃん騒ぎのコンパで、一人でビール四本、ワイン二本も空けてしまった。
 もう十時を過ぎている。二時限めの応用幾何には出なくちゃな、と思う。出席が足りなくなってしまう。六畳一間の、古ぼけたアパートの薄汚くちらかった部屋の中を、頭痛薬を求めてさまよう。勉強机のひきだしの中に、それは見つかった。洗面所に行ってコップになみなみと水を注ぎ、薬を飲み下す。
「いかん、いかん」
 早くしないと二時限めに遅刻してしまう、と思いながら、幸夫は服の袖が戸の間からはみだしている洋服ダンスを開け、穴があきかかっているジーパンをはき、よれよれのスポーツシャツを着て、その上からコーヒーのしみがついたセーターを羽織った。掛布団と敷布団をまとめて二つ折りにして、部屋の隅に寄せる。
 ああ、顔を洗う暇もない、頭も痛い、と思いながら、かばんをひったくるようにしてつかみ、ドアを開けると……。
 幸夫は、そこに突然現れたものに、驚くとともに唖然とした。
「うおーっ!」
 そこには一人の男が立っていた。そいつは、かみつかんばかりの形相をして奇声をあげた。虎の皮のパンツをはき、全身の肌は真っ赤で、燃えるような紅色のパーマからニ本のつのが突き出ている。テレビのバラエティー番組に出てきそうな、典型的な赤鬼だ。
「うおーっ!」
「わ、わあーっ!」
 胸のむかつきも、頭痛も、いっぺんに吹き飛んだ。慌てふためいてドアを閉める。
「なんだ、今のは」
 昨日の酒がまだ残ってるのか? と思いつつ、ドアに耳をあてる。だが何の物音もしない。小さなのぞき窓から外を見ると、珍客の姿は消えていた。
「しっかりしろ、俺!」
 両の頬をたたく。そして、恐る恐るドアを開く。
 そこには、いつもと変わらない風景が広がっていた。通路が左右にのびていて、手すりの向こうには春まだ遠い寒々とした空が広がっている。
 幸夫がほっとしたその時……
「こんにちは」
 えっ? と、辺りを見まわす。だが誰の姿もない。いかんな。やっぱり飲みすぎだ。
「こんにちは」
 心臓が何者かの手によってしめ上げられた。その声は、足元の方から聞こえた。自然と眼に力が入り、ゆっくりと下を向いた。
 小さな、犬がいた。それだけならどうということもないのだが、紺色の背広姿で、二本足で立っているのだ。芸をしているのではないことは、前足を正面に突き出さず、きちんと両脇にそろえていることから分かる。
「僕、お腹減ったの。なんかちょうだい」犬はしっぽをふった。
 そのとんがった顔を凝視したまま、無言でドアを閉める。
「いかん、いかんぞ」
 幸夫は八の字を描くようにして部屋の中を歩き回った。こういう時は、どうすればいいのだ? 病院に行くべきか? いやいや、「まあ二日酔いが治るまで安静にすることですな」なんて言われたら格好悪い。
 とにかく、これじゃドアが開けられない。応用幾何はあきらめよう。そう決心すると、不思議と落ちついてきた。マグカップにインスタントコーヒーの粉末と砂糖を入れ、電気ポットから湯を注ぎ、畳の上にあぐらをかいて、かき混ぜもせずに飲んだ。
 そうするうちに、再び頭痛が戻ってきていることに気がついた。
「そうだ。少し寝た方がいい。そしたら頭痛も、変な幻覚も治るだろう。大学には昼から行けばいいんだし」
 幸夫は畳の上にひっくり返った。

       *       *       *

 テーブルの上に、大きめのシュークリームが二つのっている。幸夫はそのうちの一つをつかみ、口に持っていこうとした。
 チャイムの音で、その夢は破られた。
「なんだよ。いいとこだったのに」
 もう一度、チャイムが鳴る。
「はあい」シュークリームのふんわりとした余韻に浸りながら、歩いていってドアを開けた。完全に油断していた。
「ヨウ、ゲンキカ」
 子供くらいの背丈のそれを見た時、一瞬、何だか分からなかった。
「ヒサシブリダナ」
 この寒い中、素っ裸で立っている。肌は銀色で、頭はつるっぱげで、大きな黒い眼はガラスのようだった。
「オオキクナッタナ」
 急いでドアを閉めた。扉に背中と、両の手の平をつけ、部屋の中をみつめる。
「グ、グレイだ」こめかみを、汗がつたった。「宇宙人だ」
 のぞき穴に目をあてる。真ん丸くひん曲がった風景の中に、すでにそいつの姿はなかった。
 鍵をかけ、つかつかと部屋の真ん中に戻り、尻餅をつくようにしてすわりこんだ。久しぶりと言われても、あんな奴に会った覚えはない。
「もう絶対出ないぞ。出るもんか」
 ティッシュペーパーの箱と仲良く並んでいる置時計を見ると、十一時を少し過ぎた頃だった。三時限めにはまだだいぶ時間がある。落ちつけ、落ちつくんだ、と心の中でつぶやきながら、テレビのリモコンを目で探す。そうだ、テレビでも見よう。それがいい。
 漫画の週刊誌の下から顔を出しているリモコンをつかみあげると、それは小刻みにふるえた。スイッチをいれる。画面がゆっくりと明るくなる。
 料理を作るおばさんが映し出された。女性アナウンサーが助手をつとめている。アナウンサーは適当に話をあわせているが、おばさんは彼女の言葉に返事を返さない。調子がかみ合わないまま、徐々にうまそうなオムレツが出来上がっていった。
 画面が切りかわって、食卓を前にしてすわる三人の芸能人を映した。テーブルの上に三人前のオムレツがのっている。頂きます、と言ってスプーンを持ち上げたその時、チャイムが鳴った。
 幸夫は思わずテレビを消した。石のように動けずにいると、再びチャイムが鳴った。
 ドアの外にいる者の姿を想像する。今度は妖怪か? ロボットか?
 耳の底まで響くその音は、執拗に繰り返し鳴らされ、幸夫は銅像のように動けなかった。テレビがいけなかったのか? 居留守は通用しそうにない。
 耐えきれず、幸夫は立ち上がった。足音をしのばせ、ドアへと歩み寄る。鍵をはずし思いきってドアを開けると……
「こんちは。おたく、何新聞とってるの?」
 幸夫は拍子抜けした。そこに立っていたのは帽子を目深にかぶった小男だった。
「え? ……はあ、あの、A新聞ですけど」
「それじゃあ、その契約期間が終わった後でいいからさあ、B新聞とってくれない?」男は口元に笑みを浮かべて言った。
「いえ、あの、いりませんので」
「いつもなら洗剤二個なんだけど、サービスでもう二個つけますよ」
 長い会話が始まった。男はねばり、様々な言葉を駆使し、なかなか帰ってくれない。
「俺、今日契約とれないと、クビになっちゃうのよ。助けると思ってさあ」
「そう言われても……困ります」
 早く帰ってくれということをそれとなく意思表示するため、幸夫はちらちらと腕時計を見る。三分たち、六分たった。徐々に腹がたってくる。
 男の言葉のたくみさに比べ、幸夫の方は、いえ結構です、本当にいりませんから、そんな言葉しか浮かんでこない。
「俺、明日も来るけどさあ、それはおたくだって嫌でしょ?」
 さっき今日でクビになるって言ってなかったか?
「この間B新聞からA新聞に変えたばかりなんで、しばらくはA新聞をとり続けるつもりなんですよ」
 十分が経過した。
「そう言わずにさあ、付き合いでとってよ」
 頭の中で、ぶちっ! という音がした。
「しつこいなあ!」
「あ?」
「しつこいって、言ってるんだよ。もういい加減、帰って下さいよ!」 
 相手の顔から、作り笑いが消えた。眼がつり上がった。
「なんだお前、学生のくせに。それが目上の人間に向かって言う言葉か!」
 近所一帯にまで響く、ものすごい怒声だった。幸夫はふるえ上がりながらも、なんとか対抗する。
「脅すんですか。脅して新聞とらせるんですか」
「新聞なんかとらなくていいよ。ただ社会人に向かって何てこと言うんだっつってんの!」
 警察に電話しますよ、と言いたかった。しかし、相手の迫力におされて、とてもじゃないが言えなかった。
「いえ、あの、すみません」
「新聞なんかどうだっていいよ。ただ社会人に向かって何てこと言うんだっつってんだよ!」同じ言葉を繰り返す。
「で、ですから、すみません」幸夫は何度も頭を下げた。
 ちっ、という舌打ちの音を残して、男はドアを開け放したまま去っていった。幸夫はそっと、ドアを閉めた。胸に手をあてる。心臓がばくばくしている。
 落ちつくに従って、真っ黒な怒りが煮え立ってきた。ちくしょう、何だよあれは! なんで俺が謝らなくちゃいけないんだ!

 その時、チャイムが鳴った。ドアを開けると、なまはげが立っていた。
「泣ぐ子はいねかあーっ!」
「いませんっ!」
 幸夫は荒々しくドアを閉めた。

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