駅から三十分、巨大な、慌ただしいオフィス街の、ビルとビルの間の狭い路地を抜けていった所に、その画廊はある。
 杉山氏はよくそこに来る。せせこましい日常から逃れるために、ゆったりとした心を取り戻すために。
 ビルの間にポッコリと挟まったように存在する、西洋風の、瀟洒な石造りの美術館。一階よりも二階の方が大きく、まるで、でっかい箱を頭の上に載っけたように見える白い建物は、そこだけが周りの空間とは別の世界であるかのような、一種独特の雰囲気をかもしだし、見る者に不思議な違和感を与える。
 白い、真新しいドアを開け、中に入ると、一階はちょっとしたホールのようになっている。白と黒のタイルが市松模様に敷きつめられた、清潔な床、コンクリートが剥き出しの壁。そこにも数点の絵画が飾られている。
 画廊の主や、他の客といった人間が一人もいない。そこが杉山氏の気に入っている所である。どうも人間がいるといけない。
 杉山氏は木製の、ゆるく螺旋を描きながら二階へと続いている階段を昇っていく。二階がメインのギャラリーとなっている。
 静寂。ここを包み込むものはまさに、静寂である。天井に、四角形を描くように配置された、丸い、四つの照明が、その静寂を守護するものであるかのように、ギャラリー内を照らしている。木でできた、ワックスでてかてかに光った、フローリングの床。木製の壁、木製の天井。室内はパーティションで区切られた四つの区域に分かれ、主人の趣味によって選ばれた様々な絵が掛かっている。
 ルノワールのWイレーヌ・カエン・ダンヴェールWや、シスレーのWグランド・ジャット島Wの、複製。
 だが、そういった有名な画家の絵は少数で、大半は名もない画家達の絵で占められている。
 杉山氏はある一つの絵の前で、はたと足を止める。ある名もない、オーストラリアの画家の手による、「庭園」という題の絵。それが杉山氏のお気にいりの絵である。
 庭木の生い茂る中、長方形の石がぎっちりと敷きつめられた小道が、ゆるくカーブを描きながら、家の玄関へと延びている。それは、杉山氏にとっては、W庭園Wというよりはむしろ、W楽園Wであった。この絵を見ている時だけが、どうしようもなくつまらなく、忙しく、意味のない日常を忘れ去ることができる時間である。
 青空に向かって、あるいは周囲の空気の中に向かって、大量の、針金のような葉を自由奔放に突き出している、グラス・ツリー。
 細い葉が集まって、その集まりの中心が暗く、外側に行くに従って、葉の面が陽光に照らされて黄緑色につやつやと輝く、ジャイミー・リリー。
 山火事に遭わないと種がはじけないという、めずらしい、パンクシアの木。
 その筆致の素晴らしさは、新緑の、新鮮なにおいさえ、観る者に感じさせる。
 人間のひしめき合う都会とは無縁の世界。そこにはやすらぎがある。きっと、家の中ではふっくらとしたおばあさんが、紅茶を入れているに違いない。
 石の小道は額縁の縁で終わらず、観る者の眼の中にまでつながる。絵が閉じられたW個Wではなく、観る者に対して開かれ、一体となり、感動へといざなう。
 陽光が降り注ぐ、そこはまさに、W楽園W……。


「この、通称W人を飲む家Wで再び人間が消失するという怪事件が起こりました」
 薄汚れた館の前で、ワイドショーの女性レポーターがカメラに向かってしゃべる。
「行方不明となった方は杉山 尋さん、五十四歳。一ヶ月前に行き先も告げずに出かけたまま、帰っていないということです。多くの方の証言を突き合わせてみると、どうやらこの、今は使われていない建物の中にふらりと入ると、そのまま消えてしまったらしいのです。では早速、中に入ってみましょう」
 ぎーっときしむドアを開け、中に入っていく。白と黒の市松模様の床の上に、うっすらとほこりが積もっている。
「この建物は昔画廊だったのですが、十年前に閉鎖され、今は廃屋となっています」
 言いながら、二階へと続く階段を昇っていく。
「一体杉山さんに何が起こったのでしょうか。画廊の主人は夜逃げをするように、絵をほったらかしにしたまま、いなくなったといいます。そのため絵は、未だにここに飾られたままになっています。あっ! ありました。これが問題の絵です。見て下さい」

「庭園」と題された絵に、向こうに向かって歩きながら、こちらを振り返り、微笑みながら片手を上げている杉山氏の姿が、小さく描き加えられているのだった。

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