ひどく暗い夜だった。空を見上げると、星一つ輝いていない。月さえ出ていない。すっかり疲れていたが、女房殿と、子供の笑顔と、温かい料理が迎える様子を想像し、体に鞭打って足を進める。
 駅から十五分。ぽつり、ぽつりと和菓子屋や酒屋が建っている、細く寂しい道を歩いていく。どの店ももう閉まっている。
 ようやく視野が開けて、建ち並ぶマンション群が見えてきた。ビールを飲み、飯を食い、風呂に入ってテレビを見て寝る。ささやかな幸せが私を待っている。
 門をくぐった途端、自然とため息がもれた。マンションのくせに、エレベータがついていないのだ。いまいましい階段を八階まで上らなければならない事を思うと、いつも気が重くなるのだ。
 六階まで来た時、妙だな、と思った。明かりがいつもより薄暗いような気がする。特にこの階の蛍光灯は今にも切れそうにぱちぱち言っている。
 息が切れてきたが、ようやく八階にたどり着いた。階段のそばに若い男が突っ立っていたが、気にせず八〇五号へと急ぐ。しかし、ドアの前に来て札を見た時、おや? と思った。そこは九〇五号であった。何ということだ。間違えて九階まで来てしまった。
 ああ、疲れる。いらいらしながら、通路を戻る。さっきの男のそばを通りぬけ、やや急ぎ足で降りる。いったい彼はどうしたのだろう。まあ、きっと女と喧嘩でもして、中に入れてもらえないとか、そんなところだ。
 八階に来た途端、思わず「あっ」と声をあげてしまった。そこには男がいた。私が凝視しているので、彼は不快そうな顔をして、「何か?」と言った。
「いえ、別に」
 札を見ながら、通路を進む。九〇一号、九〇二号、九〇三号……。おかしいな。今日は酒を飲んでいないぞ。
 仕方なく引き返す。男の横を抜け、一階下へ。悪い予感がした。そして的中した。
 またこいつだ。これは一体どうしたのだ。横でハアハア言っている私を見て、彼は嫌そうな顔をした。さっぱり状況が分からないが、しょうがないので歩を進める。反対側の端――九〇六号まで来た時には心の中に暗雲がたちこめ始めていた。こんなバカな話があるだろうか。
 男が立っている場所まで戻る頃には、こめかみに汗がつたっていた。どうにかしなければならない。彼に聞いてみようか。しかし、何と言えばいいのだ?
「あのう、すみません」と口に出してみたものの、説明のしようがない。困ってしまった。「あなた、下に行ったはずの私が上から降りてきて、変だと思いませんでしたか?」
「は?」
 言い方がまずかったらしい。参ったな。
「いや、つまり、私はあなたの横を何度も通りましたが、どうやら迷ってしまったらしくて」
「いいえ、僕があなたと会ったのは、今が初めてですよ」
「えっ」私は仰天してしまった。「何を言っているんです?」
 私は最初に九階に来てからこれまでにたどった道順を説明した。男は怪訝そうな顔をするだけだった。
「そんなはずはないですよ。あなたは通路を歩いてきて、今僕と会ったんです」彼は眉をしかめた。「酔っ払ってるんですか?」
「では、君は私が部屋から出てくるところを見ましたか? 何号室からです?」
「そんなこと僕に言われたって……知りませんよ」
 途端にあいまいになった。怪しいぞ。
「まあいいですよ。もう一度下に降りて、君と会わなかったら解決だ。もしまた会ったら、私の話を信じてくれますね?」
 彼はむすっとして、返事をしなかった。
 慎重に、一段一段足をおろしていく。コンクリートの硬い音が、いやに大きく耳に響く。
 そして、私は絶望した。彼は相変わらず立っていた。
「ほらね? 言った通りでしょう?」
「はい?」
「だから、私は上に行っても、下に行っても、ここに来てしまうんですよ」
「えっ、何ですか?」
 ああ、腹がたつ。
「さっき言ったでしょう。忘れてしまったんですか?」
「あの、以前どこかでお会いしましたか?」
 なんてえ奴だ。また、私とは今初めて会ったと言うつもりだ。いや、ちょっと待てよ。こいつはどこか変だ。現代では信じられないことだが、まさか……。
「なんだか、狐か狸に化かされているようだ」
 彼はおおげさに首を傾げて、そっぽを向いてしまった。それがいかにも演技のように見えて、ますます怪しくなってきた。
 今度は上に行った。うんざりするが、若い男はそこにいた。
「ほら、変でしょう? 階段をのぼって、下から出て来たのに、君は不思議に思わないのですか」
「だから、あなたと会ったのは初めてですよ」
「おや? それは変だ。本当に初めてなら、そんな言い方はしないはずだ」
「は? 何のことですか?」
 くそっ。またとぼける気だ。階段を再度下りながら考える。やはりそうだ。奴が私を化かしているのだ。それ以外に今の状況を説明する方法がない。現れた男に私は指をつきつけた。
「やはり君は、狐か狸だ。いい加減にしてくれないか」
 顔から汗がふきだす。彼はきょとんとしている。
「あなたは何か、誤解しているようです」そして、独り言のようにつぶやく。「ええ、まったく、誤解ですよ」
「じゃあ何か? 宇宙人か、それとも悪魔か?」
「いやそうじゃなくて、あなたがなぜそんな事を言うのか、僕には分からないんですよ」
「ああそうかい。ではもう一度だけ君につきあって、階段を上がってやる。その間に消えてくれよ。私は疲れきっているんだからね」
 荒く息を吐きながらのぼる。しかし、奴はまだそこにいた。
「なぜ今の時代に出てきた。都会にはもう、君達の居場所などないんだ。早く里に帰りな」
「だから、誤解ですって」
「いいや違う。よく見ると、君はなんだか、動物っぽいぞ」
 彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あなたは晩御飯を食べましたか?」
「いや、まだだ」
「ではお腹が減ったでしょう?」
 言われて初めて気づいた。食欲がなくなってしまっている。
「変だな。さっきまで腹がすいてたんだが」
「おかしいですね。もし本当に僕が化かしているだけなら、時間がたてば腹が減るはずです。普通にね。ところで、あなたが最後にトイレに行ったのはいつです?」
「さあ、夕方だったと思ったが」
「では今はどうです? トイレに行きたいですか?」
「いや、別に」
「それもおかしい。狐に化かされていても、生理的欲求で時間がたてばもよおしてくるはずです」
 変な事を言ってごまかす気だ。だがそうはいかない。私は気づいたのだ。彼は「狐か狸に」ではなく「狐に」と言った。自分が狐だと、白状しているようなものだ。それに、トイレの方はいいとしても、まるで私の食欲がないことをあらかじめ知っていたような話し方だ。きっとこれは狐によって見せられている夢なのだ。だから腹が減らない。
「時間が止まった、とでも言いたいのか」
「腕時計を見て下さい。動いているでしょう? 僕のも動いています。しかし一つだけ、合理的な解釈があります。あなたが幽霊になってしまったということです。あなたは何らかの理由でこの九階に閉じ込められてしまった。たぶん、この階に深い恨みを持つ人間がいて……」
「バカバカしい。私は九階の人間と付き合いがない。それに、会社を出てここに来るまでに、事故にもあっていない」
「ふうん、幽霊ではないのか。じゃあ、何でしょうね」
「では、仮に君が化かしているのではないとしよう。他の人間はどこに行った! 八階以上の人間は、自分の家に帰ろうとした途端、この無限ループに落ちこんでしまうはずだぞ」
「さあ、分かりません。他の人達は、無事に帰れたのでしょう。しかしあなたは駄目だった。……体質の問題なのかな」
「君は、私をこんな目にあわせて楽しいか。もうそろそろ、許してくれよ」私は泣きそうだった。
「ですから、誤解ですよ」彼はふいに笑顔になった。「あなたが、狐や狸に化かされているということがね。あなただけがこんな目にあっていると考えるのも間違いです。しかし、原因はまったく分かりません」
「なんだって?」
「どうしてこんな事になったのか、僕にも分からないんですよ」
「つまり、君は異常な状態になっているのを知っていたんだね? 私と初めて会ったというのは、嘘なんだね?」
「ええ、あなたとは何度も会っています」
「どうしてだ。なぜ私をだましたんだ!」
「どの部屋でもいいから、チャイムを鳴らしてみて下さい。誰も出ませんから」
 彼が言いたいことが薄々分かってきて、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
「誰もいないんですよ。助けてもらえないんです。あなたと会った時に直感しました。ああこの人も犠牲者だなと。あなたに助けを求めても仕方ないなと」
 私は九〇一号のチャイムを鳴らした。返事がない。急速に恐怖が膨れ上がってきて、何度も何度も押し続けた。
 彼の言う通りだ。私は誤解していた。狐に化かされたなどという、ささいなことではなかったのだ。
 今度は、手すりの向こう側をながめた。空が暗いだけではない。その時になって初めて、どの家にも明かりがともっていないのに気がついた。
「あなたも同じ運命の人が上がってきたら、からかってみたくなりますよ。すっかり途方にくれて、十日もここに突っ立っていたらね」

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