器にラッキョウが残っている。仲良く三つ、並んでいる。青田はそれを食べようかどうか考えあぐねていたが、背後から聞こえる靴を鳴らす音に急かされて、立ち上がった。
「ごちそうさん」
「有難うございました」
 カレー屋を出ると、店の前には来た時と同じように人が並んでいた。
 どうということもない、普通のカレーライスだ。決してまずくはないが、とりたてて旨くもない。ではなぜ行列ができるのか。答は一つしかない。
 しかし青田は期待を見事に裏切られて、がっかりしていた。振り返ると、古ぼけたコンクリートの、ただ四角いだけの店が彼を嘲笑っていた。看板さえ出ていない。
 彼が噂に聞いた条件と一致している。ポイントは、何の店か分からないことと、長蛇の列ができていることだ。
 この町に来てもう十日めになる。行列のできる和菓子屋があると聞いて、日曜日の昼下がりに電車に揺られてやってきて、十五分も待たされ、甘い香りが箱からあふれ出すおはぎを買って、そしてそのまま帰れなくなった。
 ひどく大きな町だ。にも関わらず、大都市という印象はない。ビルが建ち並んでいるわけでもなく、交通渋滞が起こっているわけでもない。こぢんまりとした食堂や、本屋や、散髪屋があって、気のいいおじさん、おばさんが店主を勤めている、昔風の町だ。しかし道が迷路のようにこみ入っていて、出口が見つからない。最初に到着した駅は、どこにあるのか分からない。人に聞いてその通りに行ってみても、たどり着けない。
 泣きたくなるのをこらえて、昼間は足を棒にして歩き回り、夜は公園のベンチで寝るという生活が三日も続いた。交番にも行ってみた。本屋で地図を買って、駅や、隣町に出る道を探してもみた。だが地図にのっていない細い路地がいくつもあって、必ず迷子になってしまうのだ。
 家にも会社にも電話してみたが、「この番号は現在使われておりません」と言われるだけだった。
 服は薄汚れ、完全に憔悴し、うんざりして四日めに貯金をおろして安アパートに転がりこんだ。やけくそになって高い服を買った。マイホームへの夢が少しばかり遠のいた。
 五日めに、あの噂を聞いたのだ。小さなスーパーの前で、主婦が二人立ち話をしていた。
「行列のできる店が目印なんですって。看板がなくて、何の店か分からない所だそうですよ」
「まあ、そこから他の町に出られるんですか」
 青田が駆け寄って、声をかけると、二人はとまどったような顔をした。
「すみません。今の話、本当ですか」
 主婦達は慌てて立ち去った。
「お願いです。今の話をもっと詳しく聞かせて下さい!」
 その噂は意外にも多くの場所でささやかれていた。
 ――この町には出口がないが、行列ができている店から出られるそうだよ。
 ――洋服屋さんの隣りにある廃屋の前に、時々行列ができるんですって。私、張りこみしちゃおうかしら。
 ――駅前のすし屋がうまくてのう。しかしそこの店主の目が、時折ぎらりと光るのじゃ。
 レストランで、コンビニで、図書館で、小さく聞こえてくる会話。だが青田が近づくとそそくさと立ち去るか、無視されてしまう。この町はいったい、何なのだ。
 もちろん、最初に行った和菓子屋も訪ねてみた。相変わらず長蛇の列ができていた。しかし羊羹や饅頭が売られているだけで、変わったところはなかった。
「あのう、すみません。ひょっとしてここが出口ではないですか」思いきって尋ねてみた。
「はあ?」
 頭おかしいんじゃないか? とでも言いたそうな顔をされた。
「いえ、あの、行列ができる店から、他の町に出られると聞いたものですから」
「何とんちんかんなこと言ってんだ。買わねえならさっさと帰ってくれ。そうじゃなくてもこちとら忙しいんだ」
「あのう、他に出口がありそうな店……」
「さあ、帰った、帰った。後ろのお客さんが待ってるぜ」
 和菓子屋には「万葉堂」という看板が出ていた。しかし青田は、藁にもすがる気持ちだったのだ。
 六日めの夕方、今日も手がかりなしかとあきらめて帰ろうとした矢先、長い人の列を見つけた。行ってみると、地下へ下る階段があって、列はその先の暗がりへと続いていた。
 彼はダークグレーの背広を着た男の後ろに立った。五分たち、十分たったがなかなか前に進まない。
「はあ、ここも期待薄かな。この町から出ようなんて」
 階段の半ばまで来た時、スーツ姿の男がつぶやいた。青田は、はっとした。
「すみません、あなたもひょっとして」
「はい?」男は振り向いた。
「ひょっとして、出口を探しているのでは」
 男は渋い顔をして、そして二度うなずいた。
「あまり大きな声で言わない方がいいですよ。我々は少数派なんですから」
「何のことです。あなた何か知ってるんですか。みんな、町の外に出られないのに、なぜ平気なんですか。この町はいったい、何ですか」
 うれしいのと、急き立てられる感情が混ざり合い、つい一度に多くの質問をしてしまった。
「ははあ、あなた来たばかりですね。今みんなと言いましたが、出られないのはごく少数の人間ですよ。考えてもみて下さい。車も行き来できない、物資のやりとりもできないでは、大パニックになるでしょう」
「そんな。私にはさっぱり訳が分かりません。どうしてこんなことになったんですか」
 男はさびしそうに首を振った。
「私にも分かりません。とにかく、ここに来て出られなくなってしまう人間が、たまにいるという事です。みんな、神隠しにでもあったのだと思って、あきらめるしかないと言っています。あなたも行列ができる店を探して来たのでしょうが、たぶん無理です。ここはフランス料理のレストランですから」
「なぜ無理なんです。フランス料理ではなぜだめなんですか」
「フランスで修行してきたシェフが本場の料理を食わせるんだそうですよ」
「答になっていない!」
 胸の中で膨れ上がっていた、もしかすると帰れるかもしれないという期待が、爆発した。男は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。周りの人間が青田達を見た。
「あまり大きな声を出さないように。私が集めた情報では、どうも問題の店はレストランやケーキ屋の類ではないそうなんですよ。もっと、普通行列ができそうもない種類のものです。しかしそれが何なのか、どこにあるのか、知っている人はいません」
「ではあなたはなぜこの店に来たんですか。無駄だと知りながら」
「何もせずにただ待っているよりはいいでしょう。しかし期待は薄いです。私はここにもう五年もいて、行列ができる店はだいたい訪ねつくしていますが、未だに見つかりません。この階段だっていつもは閑散としています。今日は特別割引か何かをやっているだけかもしれません」
「私は、五年もここにいるのは嫌です。妻や子供が待っているんです。私は、今すぐにでも帰りたいんです!」
「お静かに。とにかく、この話はあまりおおっぴらにしないで下さい。頭がおかしいと思われます」


 カレーで腹は満たしたが、心は空虚なままだ。青田は公園にたどり着くと、倒れこむようにしてベンチにすわった。フランス料理店での男との会話を思い出す。これから五年、いや、下手をすると一生ここから出られないのだ。絶望感が広がり、彼は首をうなだれた。
 レストランではサラダだけ頼んだ。本当は旨いに違いないが、味は分からなかった。そして、男の予想通り、何も起こらなかった。
「おや、あなた」
 ふいに聞こえた声に驚いて顔を上げると、老人が杖をつきながら歩いてきた。
「芳川さんが言っていた人ではないですかな」
「芳川さんとは誰ですか」
 青田はいらつきながら言った。
「ほら、あなたフランス料理店に行ったでしょう。風貌を聞いていたので、そうではないかと思ったんだが。不精髭を生やし、髪はぼさぼさで、ろくにボタンも留めていない」
「ええ、行きましたよ。それが何か」
「いえ、お仲間ができたと思いましてな。つまり、この町から出られない……」
「お仲間ですって?」青田は眉をつり上げた。「私はあなた達の仲間になんか、なりたくありません。私は家に帰りたいんだ」
「みんな一週間もすると、あきらめてしまいます。徐々に平常心を取り戻し、ここに住むことを決意します。私は同じ目にあった人に出会えたら、励まし、これからのことを話し合うようにしているんですよ」
「どうしろって言うんです。私はここにいたくないんだ」
 爺さんは慈しみに満ちた目で微笑み、隣りに腰掛けた。
「ものは考えようです。この星は、閉ざされているのです。誰も他の星々には行けません。それは町の外に出ても同じですよ。私はここに来て十年めにそれに気づきました。すると不思議なもので、外に行けなくても全く平気だと思うようになったんです」
「規模が全然違うでしょう。そんな考え方、私に飲みこめって言うんですか」
「あなたはどうしても帰りたいですか? ここだって、住めば都ですよ」
 青田は再びうなだれた。
「私には愛する妻と子供がいる。あなたには愛する人がいないのか!」
 老人は顔をしかめた。青田自身、照れくさい台詞を吐いていることは分かっていた。こんな状況に追い詰められなければ絶対に口に出さない言葉だ。
「あなたは疲れきっている。にも関わらず、帰りたいという強い意志を持っているようだ。そういう人は、帰れますよ」
「まるで三途の川みたいな言い方をしますね」
 青田は老人をにらみつけた。
「あなたみたいな人をここにずっと住まわせるのは、実にかわいそうなことです。これは本当は教えちゃいけない決まりになっているんだが」老人は少し黙った。
「ここの通りをまっすぐ行って、パン屋の所で右に曲がって、倉庫が二つ並んでいる間の細い路地をしばらく行くと、おもちゃ屋さんがある。そこから帰れますよ。それから」
 青田ははじかれたように立ち上がり、駆け出した。
「婆さんにチップを弾んでやってくだされ」
 汗がふき出してきた。教わった道を二十分も走って、目的地にたどり着いた。彼の目に行列が飛び込んできた。こんな隠れた場所にあったのか。
 息を荒々しく吐きながら、後尾に並ぶ。扉が開いて、誰か出てきた。次の人におじぎをして去っていく。どうやら一人ずつしか入れないようだ。古い木の小屋で、今にも倒れそうだ。大抵の人間は出てくるが、時々出てこない人がいる。その場合は扉がわずかに開いて、腕がにゅっと突き出して手招きする。さらに三十分近くたって、ようやく彼の番が回ってきた。
「いらっしゃい」おばあさんが眼鏡のつるをつまんで上げた。
「あの、ここに出口があると聞いてきたんですが」
 ひざの上で眠っていた黒猫が目を覚まし、青田をにらんだ。
「お子さんのおみやげですか? お面はいかが。ブリキのバスも、ロボットも、みんな他の店の半額ですよ」
 青田は黙って財布から三万出して、台の上に置いた。
「はいはい」と言いながら、老婆は立ち上がった。「こちらですよ」
 奥に進むと、朽ちかけた木戸があった。彼女が開けると、裏庭が視野に入った。
「さあさあ、急いで下さい」
 とまどいながら、彼は軽く礼をして、外に一歩踏み出した。途端にまばゆい光に包まれた。
 彼は、駅のホームにいた。見まわすと、おもちゃ屋は影も形もなくなっていた。


 青田は、今でも行列のできる店を探し続けている。なぜなら、老人が紹介してくれたおもちゃ屋には、「坂田玩具店」という看板があったからだ!
 本当に自分の町に帰ってきたのだという自信が、彼にはない。ここが異次元の世界ではないと、なぜ言いきれるだろう。そして、あの不思議な町には、どうしても行くことができなかった。というよりも、地図に載っていなかった。いつの間に消えたのか。それとも、全てが悪夢だったのか、分からない。あの老人は何だったのか。「教えちゃいけない決まり」と言っていたが、いったい誰と決めたのか。
 青田は、脱出の別の可能性も模索している。
 今彼は、文系を志望している高校生の息子に、無理やり自然科学系の勉強をさせている。英語も、もっと勉強するように言っている。宇宙開発事業団の宇宙飛行士候補者募集要項に、そういった条件があるからだ。
 老人が言った通り、地球という星自体あの町のようではないか。他から切り離された、行き場所のない空間で一生過ごさなくてはならない。そう考えるとどうしようもなく息苦しくなり、あの町のことを思い出して恐ろしくなるのだ。
 彼にはもう無理だが、せめて子供には外に出させてあげたい。それがだめなら孫に、あるいはその子供に。
 いつかきっと、ここから抜け出してみせる。何世代かかっても。
 彼は初秋の、強い日差しが照りつける中を歩いていた。信号の向こうに、長蛇の列が見えてきた。今度こそ看板がないようにと祈りながら、彼は行列に向かって歩いていった。

inserted by FC2 system