やかん

 腹が減ったので、カップラーメンを食うことにする。流し台の前に行き、水道の蛇口を見つめる。白く汚れているのを見るたび、嫌気がさす。ガスコンロの上にはやかんが置きっぱなしになっている。ずいぶんと前に入れた水は、そのままになっている。蓋を開けると、水に鼻親父がつかっていたので、私はとても嫌だった。目玉親父という妖怪がいるが、それとよく構造が似ている。首から下は普通で――とは言ってもかなりサイズが小さいが――頭は鼻なのである。いやいや、鼻の頭でもないし、頭に鼻がついているでもない。頭が鼻なのである。こんなふうに頭、頭と同じ言葉を繰り返していると、なんとなく違和感が生じてくるのは私だけだろうか。あたま、あたま、あたまあたまあたま。あまたあまたあまた。あったまたま。あれ、あたまでいいんだっけ? 
 鼻親父は甲高い声で、「おい、鬼太郎!」というようなことは言わなかった。かわりにおっさんくさい低い声で、「あーあ、今日も疲れた」とつぶやいた。
 もう少し水を注ぎ足した方がいいと思った私は、彼を驚かさないように、慎重にやかんを持ち上げた。
 水を流し込むと、彼は「うわっとっと」という声をあげた。
「今日もラーメンかい? 骨がもろくなるよ」とけだるく言う。
「そんなこと気にしてたら、何も食えないさ。合成着色料に、合成保存料。牛を殺して、肉を切り刻んでるんだよなあとか、魚はそのままの姿で、焼いてるんだよなあとか、人間って残酷だなあとか、そういうの考えてたら何も食えないよ」
「いやそういう事じゃないが、まあいい。めんどくさい」
 私はやかんをガスコンロの上に戻し、蓋をした。
「今日も今日とて桃の実を」中からくぐもった声が聞こえる。聞いたこともない歌だ。「さんざん放って踊り出す」
 私は火をつけた。輪状に並んだ炎が揺らぐ。
「ラーメンの中にゴキブリがーああ、あんあ、たくさん並んでうごめくよっと」
「いらいらするから止めてくれないか」私は抗議した。
「はーあ、疲れた」彼は憂鬱そうに言った。
 私は居間に戻り、座布団の上にあぐらをかいた。卓の上にプラスチック製の弁当箱や、空になったラーメンのカップが散乱している。捨てなければならない。しかしゴミ箱はいっぱいだ。だからまず、下のゴミ捨て場に行かなくてはならない。だが外は寒い。
「タンスの中からお巡りさん、『失礼します』と進み出る」
 流し台の方から小さく歌声が聞こえる。
「麺を口に入れるとーお、途端にぬるぬる這い回る」
 嫌な奴だ。
 私は膝でにじり寄って、テレビの上に三つのっているカップラーメンの中から一つを取り上げた。ビニールをはがし、ふたを半分開く。中のいくつかの小袋を出し、粉末スープとかやくを麺の上にふりかけた。
 こうしてまた、卓上にゴミが増えていく。
 やかんには沸騰したことを知らせる笛がついていない。鼻親父待ちだ。彼がいて助かるのは、その点だけだ。
 壁のしみを見つめる。だんだん人の顔に見えてきた。目をつり上げ、口を大きく開いている。
 他のしみも見ていろいろなものを連想しているうちに、湯がわいてきた。ごごご、という音が聞こえる。
 おや、鼻親父の歌が聞こえない。どうしたのだろう。まさか、溶けたのではないだろうな。ふたを開けて、スープ状になっていたら嫌だな。まあ、そんなことは今まで一度もなかったので、大丈夫だとは思うが。
 湯の音が徐々に大きくなっていく。私の不安もふくらんでいく。
「ピー! ピー、ピー!」
 突然、親父は甲高い声をあげた。私は跳ねるようにして立ち上がり、やかんの前に行った。
 ふたを開けると、もうもうと湯気がたちのぼる中に彼の姿がかすんで見えた。
「はーあ、いい湯だわい」
 彼は耳親父になっていた。
 私はとても嫌だった。


  風呂と爺さん

 風呂場に入ると、異様な者がいた。ユニットバスで、バスタブの横に様式の便器があるのだが、それに見知らぬ爺さんが入っている。いや「入っている」という表現はふさわしくない。彼はすっぽりと便器にはまっているのだ。上半身と、ひざから先だけが見えている。
「よう、先に使わせてもらってるよ」
 爺さんは頭にのせたタオルを手に取ると、顔を拭き始めた。少ない毛が濡れて頭にへばりついている。背は小さく、痩せている。
「いや……」と言いかけたが、何も言葉が浮かばず、仕方なく湯船につかった。
「相変わらず寒いねえ」
「ええ、まあ」私はあいまいに返事をした。
「マラソンしてきたのかい?」
「いえ、今日はしていません」
「てっ! 三日坊主かい」
 そう言われても、困ってしまう。健康のために夜走ることを始めたのは、一年も前だ。しかし毎日というわけではない。やる気がしない時には無理に走らないのだ。とは言っても、三日のうち二日はそういう気分だが。しかし私は、それを彼に説明するのが億劫だった。
「おや、湯があふれそうだけど、いいのかい?」
 言われて初めて気づいた。水かさが徐々に増してきている。蛇口からは一滴の湯も出ていない。なぜだ。
「魚が全然売れなくてねえ」魚屋なのか? 「不景気だねえ」
 ついに湯船からあふれだした。その勢いはどんどん増していく。
「あ、そうそう、八百屋の奥さん、おめでただってよ」
 まるで滝のようだ。床に湯がものすごい勢いでたまっていく。
「あの、これ、どうなってるんですか」私は怖気づいて言った。
「次から次へと、よく作るねえ。もう八人めだぜ」
 ついに湯船が水没した。
「家計は大丈夫なんだろうかねえ。火の車だろうぜ」
 そんなことはいい。そんなことはどうだっていいのだ。
 私の体は浮き始めた。爺さんも浮いていた。便器からは抜けたようだ。
「あの、そこのドア、開けてくれませんか。早く逃げないと」
「八百屋の売上げで育てていくのは、大変だあ」
 ひょっとして、ドアの隙間から漏れ出しているのか? だとしたら台所は水浸しだ。いやそんな事を言っている場合ではない。
「このままだと、天井に着いちゃいますよ」
 室内が湯で満たされたら、息ができなくなってしまう。こんなふうに溺死してしまうのは嫌だ。
「しっかりしなよ。上よく見てみな」
 いつの間に開いたのか。天井には人一人が通れそうな四角い穴があった。
 ついに穴のすぐ下に来た。私は腕をのばし、縁につかまった。どんどん水位が上がって、私は上に出た。
 そこは廊下だった。だが私が住んでいるボロアパートではない。立ち上がり、足元を見るが、何もなかった。ただ体から滴る水が床を濡らしているだけだった。
 爺さんはどこに行ったのだろう。そんなことより、何とかしないと。誰か来るとまずい。素っ裸のところを見られてしまう。私は廊下を進み始めた。
 途中に、ドアがあった。中から鼻歌が聞こえる。爺さんの声だ。
 勢い良く開けて入ると、彼はすでに服を着ていた。赤いトレシャツにトレパンという変な格好だ。そこはスポーツ選手が使う着替え室のような部屋で、ロッカーが並んでいた。
「へっくしょい!」爺さんは威勢良くくしゃみをした。「湯冷めしちまった」


  金太郎飴

 鏡に映る像はなぜ左右が逆で、上下は逆にならないのか不思議に思う人もいるだろう。そういう人は寝転がって鏡を見ればいい。ほらね、ちゃんと上下が反転したでしょう?
 え、しないって? それは向かい合っているからであって、鏡に映った自分と、実際に存在する自分を横に並べて見ることができたとしたら、頭と足の位置関係が逆になっているはずだ。
 そんなことは不可能だって? そりゃそうだが。しかし、よく考えると普通に顔だけ映った場合でも、それを横に並べて見ることはできない。わざわざ写真でも撮らない限り。
 待てよ? すると私は、鏡に映る顔が左右反対になっていると、どうして分かったのだろう。
 そうだ、金太郎飴だ。彼の顔を見て知ったに違いない。
 金太郎飴を製造する過程を考えるだけで、嫌気がさしてくる。目の部分、口の部分、そういったパーツを細長く作っていく。それを職人の熟練した技術で、正しい位置になるように他の飴で巻いていくのだ。違うかもしれないが今はそういうことにしておいてほしい。
 その技を習得するためには、気が遠くなるほどの修行が必要だろう。金太郎飴の職人でなくて良かったと、つくづく思う。
 ふとした疑問がわく。私が金太郎飴を見たのは、何年前のことだろう。いや生まれてこの方、そんなものは見たことがないのかもしれないぞ。
 テレビで見たのは、おぼろげながら覚えている。しかし二つに折ったのを並べて放映したのではないのかもしれない。
 金太郎飴とは、どんな味のものなのだ。金太郎飴とはいったい、何なのだ。
 私はどうすればいい。誰か教えてくれ!
 おおそうだ。確かめなくてはならない。熊を倒していい気になっている、その傲慢な面をおがんでやるのだ。
 私は近所を歩き回った。スーパー、お菓子屋、コンビニエンスストア、そういった場所には、置いていなかった。この現代社会で、いったいどこに行けば手に入るのか。
 電車に乗り、三つめの駅で降りた。古き良き時代の風情を頑なに守っている駄菓子屋があったはずだ。一時間ほどかかって、ようやく見つけ出した。
 その店にはお婆さんがいた。顔中しわだらけの、小さい老婆だ。金太郎飴は隅っこの、しかも一番下の棚にあった。心の中で大はしゃぎし、しかし表情はあくまでも平静を装い、金を払い店を出た。
 ガチャガチャがあったので、なつかしく思いながら百円を投入した。ハンドルを回すとカプセルが出てきて、中に小さなおもちゃが入っている、子供にささやかな喜びを売るマシンである。昔は十円、二十円程度のものであった。
 この機械の呼称は「ガチャガチャ」でよかっただろうか。自分でそう思いこんでいるだけで実は誰もそんな名では呼んでいないのかもしれない。
 幼少時に見たのと比べ、ずいぶんと大きなカプセルを開けると、ロボットの形をしたゴム製の人形が出てきた。ロボットのくせにぐにゃりと曲がっている。
 私は安らいだ気持ちで帰った。もはや金太郎に対する憎しみもなかった。
 まな板に飴をのせ、包丁で切ろうとするのだが、うまくいかない。なぜ拒むのか。のこぎりを使うように引いては押しを繰り返し、最後には刃を叩きつけてようやく切断することに成功した。
 私はやっと、金太郎と対面した。二つの顔は左右が逆に……あれ?
 彼の顔は左右対称であった。どういうことだこれは。私は慌てて鏡の前に駆け寄った。二本になった飴をつきだした。
 そこには、二つの書類に同時にはんこを押そうとでもしているように飴をかまえた、仁王の表情をした私の姿があった。


  美女と豆腐

 馴染みのバー、「フランソワ」に入ると、サラリーマンらしき男がビールを飲んでいるだけで、他に客はいなかった。私はカウンターに行き、ブランディーを注文した。テーブルの上で腕を組み、沈思黙考していると、私の前にグラスが置かれた。
 氷のかわりに、さいの目に切った豆腐が三つ、浮かんでいる。私は用心深くまろやかな液をのどに流し込んだ。
 決して豆腐を口に入れてはならない。酒と混ざると異次元世界とでも形容すべき味がするのだ。もしもの場合にそなえ、魚の形をしたプラスチックの容器に入った醤油をポケットにしのばせてある。コンビニで売っているそばについている、おろし生姜の小袋があれば完璧だが、残念ながら今ストックがない。
 扉が開き、金髪で、瞳の青い美女が入ってきた。アメリカ人だろうか。フランス人のようにも見える。彼女は私から椅子二つ分、離れた位置にすわった。
「ワイン、ヲ、クダサーイ」長い髪をかきあげる。「アカデース」
 すぐに胃が温まってきた。ブランディーを半分ほど飲み干した頃、彼女の前に赤ワインが置かれた。驚いたことに、それにも豆腐が三つ浮かんでいた。
 ワインに氷を入れるというのは、聞いたことがない。いかんいかん、と自分に警告する。これはあくまでも豆腐なのだ。氷に鰹節とねぎをのせ、醤油をかけて食うか? そんなバカな話はない。味噌汁に氷が入っていたら、どうリアクションせよと言うのだ。すぐにとけて水になってしまうぞ。
「うーん、ちょっと薄いな」でいいのか? それとも、「うーん、ちょっとぬるいな」か?
 やわらかな白い面が、女の唇に当たる。
 いけない。見とれてしまった。胸ポケットから煙草とライターを取り出し、一本抜き出して火をつける。そんな私を見て、彼女は微笑んだ。
「オヒマ、デスカ?」
 水商売なのか? そんなふうには見えない。
 通じなかったと勘違いしたらしく、彼女は眉を八の字にして言いなおした。
「ヒマジン、デスカ?」
「ノー、ノー。アイ、アム、ア」すっかり慌ててしまった。「ペン」
「アー、アナタハ、ペンサンデスカ」
 彼女は再びグラスを口につけた。驚愕すべきことに、豆腐がするりと中に流れ込んだ。
 私に向かって微笑んだまま、くちゃくちゃと噛む。異次元世界の味が広がって、何とも思わないのか?
 よく見ると、下唇の付近に、豆腐の小さなかけらがついていた。
「あのう」私は指を自分のあごに当て、二度軽くたたいた。
 しまった! 人差し指ではなく、中指を立てていた。
「オー、ガッデム!」彼女はグラスの中身を私にぶっかけた。
 驚いて口を開いたひょうしに煙草は落ち、かわりにワインと豆腐が飛び込んだ。
 奇怪な味が私を襲った。
「うぐ!」
 慌ててポケットから醤油を出し、ふたを開け、急いで吸った。


  早口ラップ

 (できるだけ速く読んで下さい。)

「お前な、高校生がこんな所で遊んでていいのか」
 私は甥に説教していた。いわゆるクラブと呼ばれる店で、たまたま彼が入るのを見かけたので、来てしまった。
「勉強しなきゃだめじゃないか」
 色とりどりの光が乱舞する中、若い男女が踊っている。私達は隅のテーブルで向かい合っていた。
 騒々しい音楽が鳴っている。ラップとかいうやつだろうか。
「生麦生米生卵なーま麦生米生卵」
 変な曲だ。こういうのが流行っているのか?
「来年受験だろ? こんなことしてる場合じゃないぞ」
「赤巻き紙青巻き紙黄巻き紙、まーいて巻いて黄巻き紙」
 徐々にテンポが速くなっていく。
「だいたい、その髪の色はなんだ。学校で許されているのか」
「お綾や親にお謝りさあさあお綾やお謝り悪いことしたんだからお謝り」
 猛スピードだ。よく舌がもつれないものだ。
「隣りの客はよく柿食う客とーなりの客はよく柿食う客とーなりの客はよく柿食う客、だあー!」
 ドンドンドン、ドド、ドン、ドドドドドン。
「このこの竹竹竹竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたかったから竹立て掛けたの、さあっ!」
「そのイヤリングはなんだ。姉さんはなんとも言わないのかいや姉さんというのは母さんのことでいやいや俺の母さんじゃないつまりはお前のお母さんのことで何も言わないのか」
 いかんいかん。私の口調までおかしくなってきた。
「坊主坊主ぼぼ坊主が上手に坊主が上手にびょうぶびょうぶびょびょ上手にびょうぶに坊主の絵をかい、たあーっ!」
「先生が注意しないのか先生は何をやっているせんせせんせ何やってんだ」
「武具馬具武具馬具ぶぐぶぐぶぐぶぐ武具馬具武具馬具三武具馬具あーわせて武具馬具六武具馬具あーわせて武具馬具むぶぐむぶぐむぶぐむぶぐばぐばぐ」
「お前が俺をお前と言うないつからお前はお前お前と言うようになったああ分かったよお前をお前と呼ばないからお前も俺をお前と呼ぶな」
「この竹たたたた竹竹垣に竹立て掛けたのは竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたのは竹立て掛けたかったから竹立て掛けたの、さあーっ!」
 ああ、耳がもつれる!
「ハーイ、ペンサーン」
 声のした方を見ると、豆腐の美女が手を振りながら歩み寄ってきた。
 相手が外国人の時、どうするのだろうか。握手でもするのか? そう思った私は、立ち上がった。
「コンナミセ、ヨクキマース!」
 え? 「あなたのような歳の人が、よくこんな店に来ますね」の意味だろうか。それとも、「私もこの店にはよく来ます」と言いたいのだろうか。
「やあ、この間はどうも」私は手を差し出した。
「ピーターパイパーピッペッピッペパー! (Peter Piper picked a peck of pickled peppers!)」
「はい?」私はいきなり呪文のような文句を言われて、とまどった。
 彼女は音楽にあわせて腰をふっている。
「ハウマッチウッドウダウッドチャックチャックイファウッドチャッククチャックウッ? (How much wood would a woodchuck chuck if a woodchuck could chuck wood?)」
「……」私は石像のように固まってしまった。
 彼女の目がつり上がった。
「オーウ、ワタシ、ニホンノブンカ、リカイシヨウトスル。ナゼニホンジン、アメリカヤヨーロッパノブンカ、リカイシヨウトシナーイ」
「いや、そう言われても」
「シット! (Shit!)」
 私はすわった。
「オウ、ガッデメッ!」
 彼女はすたすたと歩み去った。
 怒りっぽい人なんだなあ、と私は思った。


  たこ焼き君

 いい匂いがした。見ると、露店でおばちゃんがたこ焼きを売っていた。つい足がその方に向いた。
「いらっしゃい」
 職人の手さばきで、あざやかに引っくり返していく。
「一つ、もらおうか」
「あい。有難うございます」
 私は紙でくるまれたたこ焼きを受け取り、金を払い、立ち去ろうとした。
「たこ焼き君が入っているかもしれないから、気をつけて」
「はい?」
 振り返ると、おばちゃんは何事もなかったようにうつむいて、手を動かしていた。
 何と言ったのだ? 「たこ焼き君」というふうに聞こえたが。怪しく思いながらも家に帰りつき、流し台の横を通り過ぎようとした時、やかんの中から声がした。
「お、いい匂いだねえ」
 鼻親父だ。彼は時々現れる。たいていはやかんの中だ。
「やらないよ」
 彼は気力がすべて消失しているかのようなため息をついた。
「心配しなさんな。食べやしない」
 居間に行き、紙包みを開けた。透明なプラスチックの箱の、セロテープをはずす。
「たこ焼きから触手が生える」また変な歌をうたいだした。「一本、二本、三本」
「やめてくれ」
 うまそうな丸い食い物達と対面した。と、突然そのうちの一つが浮かんだのでびっくりした。
「たーこ焼ーきくーん!」
 よく見ると、そいつには胴体があった。鼻親父と同じ構造をしている。
「な、なんだ?」
「だから、たこ焼き君だっつってんだろ。あ?」
「あんた一人だけだろうな。他のは大丈夫……」
「ふああっ!」
 彼はその小さな両腕を私に向けて突き出した。一瞬、風景がゆがんだような気がした。
 私は立ち上がり、やかんの前まで歩いて行った。ふたを開けると、相変わらず鼻親父が水につかっていた。
「おや、どうした。目がうつろだよ」
「ラーメンを食うんだよ」
「ラーメンって……たこ焼きはどうした?」
「たこ焼き? そんなものはないよ」
「嘘だね。鼻だけは自慢できるぞ。あれはたこ焼きの匂いだ」
「変な歌うたうな!」
 私は水を足し、ふたをし、火をつけた。
「会話として成立していないだろう。まあ、別にどうだっていい」
 私は居間に戻った。台所から鼻親父がまだぶつぶつ言っているのが聞こえる。
「たこ焼き君がいるのか? あいつにはあまり関わらない方が……まあわしには別に……」
 テレビの上からカレー味のカップ麺を取り上げ、袋を破りふたを開け、粉末スープをふりかける。卓上になにか丸いものが並んでいて、そのうちの一つに体がついていて、腕組みしてじっとしているが、まあいい。気にしない。壁のしみに人の顔を見出しながら待つ。
「ピーッ!」
 鼻親父はなげやりに一回だけ合図をした。歩いていきやかんをつかみ居間に戻り湯をかけガスコンロの上にもどした。
「あまり乱暴に扱わないでくれ」と鼻親父は言った。
 腕時計を見てトイレに入りすっきりし手を洗い卓の前に行き座布団にすわり……
「ああっ!」
 ふたは取り去られ、麺の上に丸いものがこんもりと盛られていた。たった今思い出した。それはたこ焼きだ。
「お前、私に術をかけたのか。これは、お前がやったのか」
「ふふふ、さあどうする。ラーメンから食うのかい? それともたこ焼きから食うのかい?」彼は意地の悪い口調で言った。
 なんという奴だ。このままではスープがたこ焼きにしみこんでしまう。慌ててつまようじを探すが、おばちゃんはつけてくれていなかった。立ち上がり、冷蔵庫の横の、棚の前に行く。急げ! 箸かつまようじが必要だ。
「やれやれ、変な奴が来てしまったな」鼻親父が気だるく言った。
「お前が言うな!」私は激しい口調で突っ込んだ。


  饅頭恐怖症

 なになに恐怖症と名のつくものには、たくさんの種類がある。高所恐怖症、先端恐怖症、赤面恐怖症、疾病恐怖症など、など、など。何かが怖くてたまらないならば、その人はそういう恐怖症なのだ。
 ああ、ビデオデッキが怖いよう。電源を入れた途端、「ハアーッハッハッ」という高らかな笑い声とともに不気味な仮面を着け、黒いマントに身を包んだ男が画面に現れ、呪いをかけるよう。掲げた両手から輪っかみたいなのがたくさん出てきて、同心円状に広がりながらこちらに向かってくるよう。休日のお昼に、ちょっと気を抜いた瞬間に、デッキの取り出し口からビデオカセットが、にゅっ! と顔を出すよう。兄さん、怖いよ兄さん。
 ビデオデッキ恐怖症である。
 カレンダーが怖いよう。一枚破りとろうとしたら、今月の分までいっしょに破ってしまうんだよう。月の初めが、日曜日から始まっていないと落ちつかないよ。一日(ついたち)の隣りの空白が微妙に怖いよ。ふと、月曜日が左端にあるカレンダーなんて、あったかなあ、と思ってしまうと気になって眠れないよう。ああ、なぜ苦しめるカレンダー!
 カレンダー恐怖症である。
 そんな奴はいないが、今私の目の前にいる佐々木という男は饅頭恐怖症である。
「お金の件は、もう少し待ってもらえませんか」彼はかしこまって言った。
「ああ、いや、そういうつもりで来たんじゃないんだ」
「借りた五十万は、必ず返します」
「まあまあ、気にしなさんな。近くを通りかかったんで寄ってみただけなんだから。あ、そうそう」
 私は紙袋から菓子の箱を取り出した。
「すぐそこに良い和菓子屋があるね。手ぶらじゃなんだな、と思って買ってきた」
「そんなお気使いなさらな」
 私はいきなり包装紙を破いた。
「せっかくだから、二人でつまもうじゃないか。私も小腹がすいたんでね」
 ふたを開けた途端、彼は小刻みに震え出した。
「あのう、お金は必ず……」
「その話はやめにしないか?」
「しかし、私が饅頭を怖がることは、ご存知ですよね」
 私は箱を彼の方に押しやった。顔が少々青ざめたように見えた。
「なんでも、恐怖症というやつは、幼少の頃に受けた心の傷がトラウマになっているんだそうだよ。君も克服しなきゃ。金なんかいくら遅くなってもいいさ。私はむしろ、君のことを心配してるんだよ」
 目が大きく開かれている。呼吸まで荒くなってきた。
 私は饅頭を取り上げ、ビニールの袋を開けた。かじると、甘味が口いっぱいに広がった。
「こんなにおいしいものが、なぜ怖いのかね。さあさあ、お一つ、ど、う、ぞ」
 私だってこんな真似はしたくないのだが、こちらの家計が苦しくなってきたので、仕方がない。
 彼はおずおずと饅頭を手に持ち、袋を開いた。
「せっかく、そう言ってくださるんですから」
 彼は目をつぶり、かじった。猿の脳みそでも食ったかのように、顔がゆがむ。
「なんだ。食えるじゃないか。慣れてしまえば、どうということはない。さあ、全部食ってしまいなさい」
 残りをいっきに口の中に押しこんだ。今にも泣きそうだ。
「君を見ていると、『饅頭怖い』という落語を思い出すよ」
 なんとか飲みこもうとするが飲みこめない、という感じで、口を一生懸命動かしている。
「他に怖いものはないが、饅頭だけはだめだ、という男がいて、日頃バカにされているみんなが、そいつが寝ている間に周りに饅頭を並べるんだ」
「題名だけは聞いたことがありますが」やっと嚥下した彼は言った。「そんな話でしたか」
「ところが目を覚ました男は、全部たいらげてしまうんだな」
「それが落ちですか」
「ええと」待てよ? 『饅頭怖い』の落ちって、どんなだったかな。「とにかく、私が言いたいのは、君は本当はその男のように、怖いふりをしているだけなんじゃないの? ってことさ」
「とんでもないです。私の場合、本当に怖いんです」
「他に怖いものはない、と?」私は意地悪く言った。
「いえ、一つあります。笑わないで下さいよ」
 私は興味を引かれた。まだあるというのは、初耳だ。
「百円玉です。実は、あの銀色のぎらぎらする感じが、どうしてもだめなんです」
「は! それで小銭が貯まらないと、そういうことかい」
「いやいやそうじゃなく、純粋に、本当に百円玉がだめなんです。十円や五円は平気なんです。信じて下さい」彼は心底困ったように言った。
「饅頭を怖がるような男ですよ? 不思議ではないでしょう」
「ほう、そうか。ではそれも克服しなくちゃな」


 ふふん、いい事を聞いたぞ。
 次の日私は銀行で五万おろし、全部百円玉に両替してもらった。受付の女の子は変な顔をした。夜みんながすっかり眠りこんだ頃、結構な重量のそれを佐々木が住む木賃宿まで持っていき、ドアの前にばらまいた。
 ふっふっふっ。すっかり降参した彼はしばらくしたらやって来て、丁重にわびて金を返してくれるだろう。
 一週間後、彼から手紙が来た。

 ――私の都合で、突然故郷に帰ることとなりました。事前にご挨拶を申し上げなかった非礼をお許し下さい。これまで大変親切にして頂き、有難うございました。風邪などひかないよう、健康にはお気をつけ下さい。
 あ、そうそう。『饅頭怖い』の落ちは、男の台詞で『今度は熱いお茶が一杯怖い』ですヨ。

 敬具

 何てえバカだ! 私は自分を呪った。彼は、私から同情をひき、金を返さずに済ますためにお芝居をしていたのだろうか?
 おのれ佐々木! 「もう勘弁して下さい」と言いながら泣くまで饅頭を食わせ、トラウマにし、本当に饅頭恐怖症にしてやるぞ!


  悪心

 風邪をひいてしまった。病院に行き、薬をもらって帰ってきた。袋の中にはたくさんの薬が入っていた。総合感冒剤に、消炎酵素剤に、鎮痛剤。小さな紙片に、これは何という薬で、どういう効能があって、どんな副作用があるかといった説明が書き連ねてある。なんとも親切なことだ。副作用の記述に、吐き気や悪心といった言葉が多く見受けられる。恐ろしいな、と思う。そういうのを覚悟の上で服用しろというのだろうか。
 まてよ? 「悪心」って、何?
 辞書をひいてみた。まさかと思ったが、ずばりそのまま、「わるいこころ」とあった。風邪薬を飲むと、ジキルとハイドのようになるのか? まあ、どうでもいい。何も起こりゃしないだろう。そういうもんだ。
 食後服用とあり、腹はすいていたがかまわず飲んだ。
 煙草を吸いながら、テレビを見る。熱のせいで内容がよく分からない。
「はう!」
 突然、何とも言い表しようのない衝動が私を襲った。なんだこの感覚は。燃えるような、下降するような……いや違う。適当な言葉が見つからない。
 ぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。ぎゃふん! と言わせたくなった。もしかすると……これが、悪心なのか? だめだ、冷静さを保つのだ。たかが風邪薬に負けちゃいけない。
「ふふふ、へへへ」
 勝手に笑いが口からあふれた。いいじゃないか、別に。俺達全員、地球のそばにブラックホールが突如現れたら、みんな吸いこまれて死ぬのだ。催眠術師がテレビに出演したら、みんな操られてしまうのだ。橋の上で風景を撮ろうとしている時に、背後から知人に「よう」と声をかけられ、肩をたたかれ、驚いてカメラを下のゆるやかな川の流れの中に落としてしまったら、「はああ!」というすっとんきょうな声をあげるのだ。誰だってそうだ。
 そんな人類が絶滅し、新たな種が支配する世界になったとしても、宇宙の膨張が止まり、縮み始めたとしても、構うものか。地球上のありとあらゆる卵が消えうせ、オムレツが永遠に味わえなくなっても、俺の知ったことじゃないね。
 テレビを消した。こんなものを見ている場合ではない。今こそ、やってやるのだ。悪の限りをつくすのだ。
 財布だけ持ってスーパーに行った。ホースを二本とゼリーをたくさん買った。これで人々を恐怖のどん底に落とすことができるのだ。さっそく、そのスーパーに罠を仕掛けることにする。
 俺はトイレに入った。だめだ。人がたくさんいる。エスカレーターで一つ上のフロアに行った。そこの便所には誰もいなかった。いいぞ、しめしめ。水道も一つしかない。俺が望む要求を満たしている。
 袋からホースを出し、結わえてある紐をほどいた。輪状のそれを、まっすぐに伸ばす。急がなくてはならない。誰か来たら大変だ。
 俺はホースを水道の蛇口にはめた。もう片方の端は床の上に放った。
「ふふふ、ははは」
 思わず笑ってしまった。任務完了だ。これでもう、誰も手を洗うことはできない。
 ティッシュを丸めてつめるとかではだめだ。すぐに取り除かれてしまう。その点ホースだと、何らかの意味があるのではないかと思い、はずさないのだ。人々は泣く泣く他の水道を探さなければならない。
 残酷だ、あまりにも。俺は自分が悪魔にでもなったかのような気がした。「ああ、自分には、手を自由に洗う権利さえないのか」と言って、おのれを嫌悪する男達。「パパ、ママ、手が洗えないよう。僕は、僕は、どうしたらいいんだよう」と、泣き叫ぶ子供。鬼だ。俺は、鬼になったのだ!
 だが、愚かなる人類よ。この程度で許されると思ってもらっては困る。なぜ、もう一本ホースを買ったか分かるか、ええ? 今度は、不潔感にさいなまれるくらいでは済まない。命にかかわるのだ。
 俺はさまよい歩いた。条件を満たす場所がどこかにあるはずだ。
「あった!」
 公園に、それは存在した。水飲み場だ。栓をひねると、水が上に向けてふき出す、渇いた人々を癒す装置だ。俺はさっそくそれにホースをはめた。噴き出し口の方がやや直径が大きかったので、少々苦労した。
 ふっふっふっ。これでもう、喉をうるおすことはできない。マラソンをしている人が、「ああ、喉が渇いたな。あの公園で飲むとするか」と思い、ここへやって来るのだ。そして愕然とする。ひざまずき、両手を大地にあて、荒く呼吸をするが、誰も助けてはくれない。
「水、水をくれ。頼む、私はもう、倒れそうなのだ」と嘆き悲しんでも救いはない。砂漠だ! そして現れたオアシスは幻なのだ。
 その公園には、もう一つの悪夢を実現させるためのものはなかった。俺は根気よく探した。別の公園でそれを見つけた。すべり台だ。俺は色とりどりのゼリーを、ついていたプラスチックのスプーンで、できるだけ形をくずさないように慎重に取り出してすべり台の下に並べた。その作業には結構時間がかかった。
 純朴な子供に大きなトラウマを与える、悪夢の仕掛けだ。「わーい」と言いながらすべってきた子は、ゼリーに気づき青ざめるのだ。だがもう遅い。甘い、やわらかな天使のお菓子が、別の側面を見せた時、子供は裏切られたことに気づき、そのショックは一生心に刻まれるのだ。足で着地できればまだ被害は少ないが、とっさの判断ができなければ、お尻に怖気をふるう形態と化したゼリーが大量に付着するのだ。
「あっはっはっ。あーっはっはっ」


 気がつくと、私は畳の上に寝転がっていた。テレビがついたままになっていた。
 すべては夢だったのか? そうだ、そうとも。私があのような悪魔の行いをするはずがない。
 そばに薬の説明が書いてある紙があったのでつかみ上げ、読んだ。総合感冒剤の副作用の記述に、「眠気」とあった。


  能

 今日は能を見に行った。客の入りは少なく、席には十分な余裕があった。人に話せば老人のようだと言われるが、私はあの音楽のような台詞の言い方が好きなのだ。優雅な立ち居振舞いを見ているうちに、話は中盤にさしかかっていた。
 舞台中央に中将の面をつけ、厚板の着付けに大口をはいた武将が立ち、扇をゆるやかに上下させている。
「おやーじのーせたーけ、さんーめーとる」
 能を鑑賞するという行為は、ヒーリングと似ている。観客は幽玄の世界にひたり、日常のわずらわしい事柄から解放される。
「洗濯機にいいいー、洗剤を入れるつもりでえええー、床にこぼして、おおおおおーあわああーてー」
 江戸、あるいはもっと昔の室町の時代には、芸術などではなく、純粋に娯楽であったはずだ。今の映画や芝居にあたるものだ。
「靴の中にいい、糊を満たしいい、足を入れて感触を楽しむうう」
 ドラマの俳優は面をつけないが、別の人間になりきるということは、面をつけるのと同じではないだろうか。
「インスタントやきそばのおお、湯切りに失敗してええ、麺を流しにぶちいいまけええるうう」
 笛と鼓の囃子が入る。
「天からーボクサーがああー、いきなり降ってきてええー、パンチされたらーいやああーだなあああー」
 現代人にとっては、お芝居を楽しむというよりも、むしろ原始的な音楽にあわせてダンスを踊る民族を見る感覚に近い。
「口がああ裂けてもおお、痛くないいー。目のおお中にいい入れてもおお、しゃべええらないいー」
 落語や相撲も、やがて芸術作品として尊ばれる日がやって来るのだろうか。
「千利休がああ、出された茶を飲んでええ、こんなもん飲めるかと言ってええ、ちゃぶ台をひっくりいい返すうう」
 日本古来のものは、心情に訴える。海外から来たものは、エンターテイメントの要素が強い、と思う。
「ダイエットしても痩せられない風船んんん、体中がかっかと熱くなるでんんんしれんじいいい」
 俳句に代表されるように、わびとさびの文化なのだ。ひかえめで自己主張しない日本人の性格がよく表れている。戦後、海外に追いつけ、追い越せという競争社会になったが、それはアメリカの影響が大きいのだろう。大昔のムラの時代、その生活は実に慎ましやかなものであった。
 一旦競う道を歩み始めると、もう後戻りはできないのだ。子供達は受験という過酷な試練によって、無理やりこの道に引きずり込まれる。それ以前に自分のやりたい事を見つけられなければ、否応なしにこの関門をくぐらされる。そして大人になってから、もっと大切な事に使うべき時間を削ってまで勉強した国語、算数、理科、社会の知識が、ほとんど役に立たない事実を知って愕然とするのだ。ただ、人と競うことを習わされただけである。
 むろん、昔も、武士は戦わなければならなかった。しかし農民や商人が人口の多くを占めており、彼らは少数であった。今は日本国民の大部分が侍になってしまったように思える。
「街を闊歩するプリンター星人んんん。口からA四サイズの紙を大量に吐き出すううう。街はプリンター用紙でいっぱいだああ。その紙には『稲庭うどん星人に気をつけろ』と書いーてあるーうう」
 能のような癒しの文化が残っているのは、大変貴重なことだと、私は思うのだ。


  私の仕事

 私は月、水、金曜日にバーコード職人をやっている。シールにあの密集した縦線を捺印するための印鑑を作っているのだ。熟練した腕と、いい材料を選ぶ優れた目が必要になる。
 最も良い印材と言えば、本象牙であろう。ワシントン条約によって輸入が規制されているために希少価値が高く、硬度、印肉のなじみ、印影の美しさ、どれをとっても素晴らしい。
 そしてオランダ牛の角。一本一本違うマーブル模様に味わいがあり、乾燥による反りや割れが生じにくい。黒水牛もいい。深みある艶と色むらのない漆黒の肌、きめの細かい繊維質が特徴で、プラスチック材には真似の出来ない鮮明な捺印が可能だ。
 より良い材料を求め、北へ、南へと転勤する。そのため私は単身赴任だ。
 私は今、もっとも慎重さが要求される象牙に取り組んでいる。刀をその面にあて、全精神を指先に注ぎ、一ミリの狂いもなく彫っていく。だが、職人にとって一番重要なのは正確さではない。心だ。
「機械さん、機械さん、これはお惣菜ですよ。小なすのそぼろあんかけで、二百三十九円ですよ」と念じながら彫る。でなければ読み取り機には通じない。そういう気持ちが大切だ。
 安い食材にも最高級の印鑑を使ってくれるお店は有り難い。だから真剣さも普段の十倍は必要だ。
 人のけはいを感じた。見ると、いつの間に来たのか弟子の深山君が正座をし、私の匠の技を注視していた。
 私は印刀を置き、微笑んで、自分の右腕を軽く二度叩いた。
「盗めよ」
「いや師匠、それはいいんですけど」と彼は言った。
「なんだ。今集中しているところなのだが」
「師匠のバーコードが、読み取りエラーが多発しているという苦情が殺到しているのですが」
 私は驚いて、深山君に向かって右手を、何かを鷲づかみにしようとするかのような格好にして突き出し、そしてすぐさま引いた。
「ニャチョーン!」
 彼は冷静なまま、じっとしている。
「ううむ、そうか。私の気持ちの入れ方が足りなかったのだろうか。そして君は若いので、何のギャグか分からないかもしれないが」
 私は再び彼の顔を握ろうとするかのように手をのばし、引いた。
「ピャチョーン!」
「師匠、唾がとびます」
 私は腕組みした。
「そもそも、バーコードとは何だ」
「はあ、商品の値段を読み取るための、まあ記号というか符号というか」
「喝!」
「かつって……」
「バーコードとは、人間から機械へ言葉を伝えるための手段なのだ。これはマスクメロンですよ。ええとても高いんです。千五百円もするんです。どうかよろしくお願いしますね。そういうもんだ。だから気持ちをこめて彫らなければならん」
「どちらかというと、物から機械へ情報を伝達するための」
「大昔、人間は天にまで届く塔を築こうとした。これに怒った神は人々の言葉をばらばらにした。この時からコミュニケーションの難しさが発生したのだ。だが外国人の言葉を理解しようとする気持ちがあったからこそ日本は国際社会でこれほどまでの地位を維持しているし君は若いから私よりもよほど知っていると思うが」
「あの、今回の件はいかがいたしましょう」
「機械にコミュニケーションさせる手段として電気信号を使うことを人間は考えそしてそれは一と〇の膨大な組み合わせからなり文字も絵も音さえも最小単位はビットで人の心を電気的に伝える方法を発明したということは画期的なのだ」
「本社に、連絡した方が」
「だから偉大な発明をした人に感謝するために精一杯の気持ちをこめなければならず例えばインターネットは大繁盛しているがこれは個人が世界に向けて自分の気持ちを伝えたいということのあらわれではなかろうか」
「あのう、師匠」深山君はとても困った顔をしていた。
 私は立ち上がった。
「修行だ。気持ちのこめ方が足りなかったのだ。滝に打たれてくる」
「た、滝に打たれるのですか?」
「ここから電車で一時間ほど行ったところに温泉があったな。確かあそこに打たせ湯があるはずだ」
 温泉かよ! と深山君の目が訴えていた。


  デジタルな世界

 私は内壁が機械類でびっしりと埋まったチューブの中を高速飛行していた。背中に取り付けた噴射機によって、流れるように空中を移動する。和太鼓とコンピュータによって作り出された音がミックスされたミュージックが鳴り響いている。もうすぐ奴の居場所に着く。私は緊張が全身を支配するのを感じた。何重もの扉が、私をいざなうように次々と開いていく。
「ここから先は、危険。ここから先は、危険」機械的な女性の声が響き渡る。「システム・メンテナンス以外の目的で入るあなたのチップIDIDIDオーバーフローオーバーフローオーバーフロー」
 コンピュータは私が狂わせておいた。でなければ、私は今頃セキュリティ・システムによって蜂の巣にされていただろう。
 最終兵器マッドマンの破壊、それが私の使命だ。
 ついに、人類が作り出してしまったもっとも禍々しい悪魔の住処にたどり着いた。赤、青、緑、様々な光が渦巻く巨大な球の内部に、奴がいた。
 ぬるっとした銀色に輝く鎧に覆われた巨人が宙に浮き、瞳のない眼で私をにらんだ。
「とうとうここまで来たか、トーテム・ポール」
「私はそんな名前ではない!」
「我を倒そうなど、一年早いわ、ポール」
「そんなに短くていいのか!」
 私達を取り囲む球はゆっくりと回っている。
「死ね、ポール!」
 大量の赤い三角錐が、回転しながら飛んできた。私はその一つ一つをレーザー銃で正確にねらい、撃ち落した。
「ひしゃくな奴だ」
「こしゃくなだろ……お?」
 カクカクしたポリゴンの柄杓が向かってきた。撃つと、それは無数の四角錐や直方体となって飛散した。
「おしゃくな奴だ」
「まあ、一杯」と言いながら、銚子を持ったワイヤーフレームの中年親父が回転しながら迫ってきた。
 間に合わない! とっさの判断で私はよけた。
「手助けするぞ」
 声に驚き横を見ると、今はすっかり歳をとって田舎に引っ込んでいるはずの父が、皮のような光沢を持つ戦闘服に身を包み、浮いていた。
「バカめ。人間ごときが束になってかかってきても、すずめ蜂が刺すほどにも感じぬわ」
 それは結構痛いのではないか?
「はああっ!」マッドマンは手の平をこちらに突き出した。私はすばやくかわした。
「ああっ」隣りで声がした。
 なんという事だ。テクスチャーを貼りつけやがった。父は木目調になった。
「お前……あれを使え」
「分かった」私は腰に装着したバッグから究極の武器を取り出した。
 サルティンバンビッチ博士から聞いた、唯一奴に対抗できる兵器、それは豆腐だ。
「やああっ」私は思いきり投げた。見事にマッドマンの口に入った。
 だが、次に彼が吐いたのは実に意外な言葉だった。
「うがあ、異次元の味が」
「なに? 酒にひたしてあったのか! いつの間に」


 私は目を覚ました。電脳空間は影も形もなく、かわりに汚い我が家が次第にはっきりと見えてきた。卓の上にワイングラスと、倒れたビンがのっている。どうやら酔いつぶれてしまったらしい。まろやかな赤い酒に、ためしに浮かべた豆腐は三つあったはずだが、いつの間にか二つに減っていた。誤って口に入れたのか? そうしたらすぐに分かるはずだが、酔っ払って食べてしまったのだろうか。ああ恐ろしい。それでこんな悪夢を!



  夜走る

 今夜は気分が安楽な状態なので、走っている。私はいわゆるランナーズ・ハイになりやすい体質なので、困ってしまう。脳内麻薬が大量にあふれだすのだ。こういう時には変な物を見やすいので、注意が必要だ。
 ふと、いつもは行かない細い路地に入ってみる気になった。木々で両脇がおおわれている、さびしい道だ。走るにしたがってだんだんゆるやかな坂になり、私は山に入ったのだと悟った。時々現れる明かりを頼りにして進む。しばらく行くと、道が開けて、広場に出た。周りを家々が囲んでいる。山奥の小さな集落だ。奇妙なことに、真ん中に線路があって、路面電車が停まっている。どうやらここが終点のようだ。おかしいな、と私は思う。なぜこんな山の中に?
 いけない。これはきっとランナーズ・ハイだ。注意しなければ。
 車両は一つだけで、中から明かりがもれている。二人の人物が見えるが、様子が変だ。言い争っているようだ。私は興味をひかれ、電灯に誘われる羽虫のようにふらふらと近づいていった。
「どうするんだ。爆発するぞ」
「落ちつけ」
 聞こえた会話に驚き、思いきってドアを引き開けた。乗りこむと、二人の男が振り返った。黙っているので、私の方から声をかけた。
「どうしましたか」
「ああ、あなた、来ちゃだめです」と、背が低い割りに顔の長い男が言った。肌の色が妙で、だいだい色に近い。あごがしゃくれている。「早く、遠くに逃げて下さい」
「待て、待て。二人で考えるより、この人にも加わってもらった方がいい。三人寄ればもんじゃの知恵と言うじゃないか」頭が変にとがっている、体の細い男が言った。まるで鉛筆のようだ。
「あの、もんじゅ」
「さあさあ、こっちへ来て下さい」
 鉛筆男にうながされて、私は彼らのそばに行った。そして、そこにある物を見て仰天した。
「これは、爆弾では?」
「そうです。爆弾です」だいだい色の男が答えた。彼の顔はまるで三日月のようだ。
「いつ爆発するんですか」
「それは分かりません。時計がついてないんですよ。しかし、おそらく、もうすぐです」
 精密な機械が茶色い筒を取り囲んでいる。だが、彼の言う通り時を刻むような物は何もない。
「今我々が直面している問題は」鉛筆が言った。「青い線と赤い線のどちらを切ればいいかということなんです」
「ああ、青い線と赤い線」
 ドラマ等で爆弾解除のシーンが出てくると、必ずといっていいほどこうなる。どうもしらじらしい。本物を止める時にも、二つのうちのどちらかを切断する仕組みになっているのか? それともやはりこれは幻覚なのだろうか。
「早く決めなければいけません。あなたはどっちだと思いますか?」
「え、そう言われても、私は爆弾のプロではありませんし」私は狼狽した。「ただの通りすがりのおじさんですし」
「我々も同じです。直感で決めるしかありません」だいだい色の男は目をつり上げた。
 我々も同じ、と言ったが、そもそもこいつらは何者なのだ?
「では、せっかく三人いることですし、多数決で決めましょう。おい、お前はどっちを切ればいいと思う?」
「ああ、俺は青かな。赤っていかにも危険そうだし」鉛筆は三角形に近い額に冷や汗をかきながら答えた。
「俺は赤だ。赤は血を連想させる。俺は血を見るのが嫌いだ」相当あせっているのだろうか。だいだい色は変なことを言う。「さあ、一対一になりました。あなたの選択で決まります」
「えっ? そんな、私? 困ります」
 私は腕組みし、考えた。片方は周りの家をすべて吹き飛ばす。片方はみんなを救う。そういう時人間は、どちらの色をどちらに割り当てるだろうか。犯人はどうして、そんなトラップを仕掛けるのだろう。私が犯人だったら、どっちを切っても爆発するように仕組む。
「青、いや赤、いや青、赤、青」
 答は出ない。出るはずがない。
「決めて下さい。時間がありません」だいだい色はつめよった。
「そうです。あなたが運命を握っているのです」鉛筆も語気を強めた。
「待って下さい。私は理学にも工学にも強くないが」私はつばを飲んだ。
「何らかの論理的な解決があるはずです。爆発を回避する、科学的、工学的な方法が」
「どうしろというのです。我々にはこれの仕組みが分からないのですよ? 知識を持ち合わせていないのですよ?」だいだい色は怒鳴るように言った。なぜ脅すのか!
 こんなことが本当にあるだろうか。彼らが狐や狸ではないと、どうして言えるだろう。狐と狸、プラス、ランナーズ・ハイ、これは強力だ。
 青か、赤か。幻か、本当か。どっちが狐で、どっちが狸なのか! ショートケーキとモンブラン、どちらを選べというのだ! 私は一体何者なのだ! 人類はどこへ行くのだ!
 その時、私の頭の中に光に包まれた女神が現れ、微笑んだ。
「あなたはお婆さんに席をゆずったことがありましたね。あなたは池でおぼれそうになっている蟻を助けましたね。だから、私が救ってあげましょう」
 そして、脳内に様々な数式が嵐のように流れた。
「おお」私は恍惚とした。
 だいだい色と鉛筆はきょとんとした。
「おおお」私は喜びに打ち震えた。そしてひらめいた。すごい。天才だ。
「方法が分かりました」
「あの、大丈夫ですか?」三日月顔が心配そうに言った。
「片方だけ切って、爆発しなければいいのでしょう?」
「ええ、ですから早く決めないと」
「まず、両方の皮をむいて、銅線を剥き出しにして下さい」
 二人はしばし呆然としていたが、私の自信に満ちた口調に動かされて、作業を始めた。てきぱきと進み、完了した。
「では、二つの銅線をくっつけて下さい」
「こうですか?」と鉛筆が言った。
「そうです。そしてどちらでもいいから、その状態で切るのです。片方はカットされても、もう片方を橋渡しにして電気が流れます。だから爆発しません」
「すごい。あなたはすごい人だ」
「そんな方法があったのか。いやあ驚いた」
 彼らの賞賛に私は酔った。
「では、いきますよ」鉛筆はカッターを銅線にあてた。寄り集まった細い線が、一本一本切れていく。
 もうすぐ完全に分断される。その瞬間、私は一目散に逃げ出した。
 後ろを振り返らず、全速力で山を駆け下りた。叫んでいたかもしれなかった。何かが間違っているぞと、本能が教えたのだ。やっとの思いで家に帰り着いた私は、ぶっ倒れるようにして眠りこんだ。


 翌朝、私は昨日のことがとても気になってきた。結局爆発は起こらなかったのだろうか。大丈夫だろうか。
 今度はゆっくり歩いて、山の中に行った。狐や狸にばかされたわけではなかったらしく、路面電車はそこにあった。どこにも異常はないようだ。
 用心して私は乗りこんだ。誰もいない。もう何十年もそこに放置されているような雰囲気だが、散らかっているゴミは真新しい。ガムのかすや、ジュースの缶といったものがある。
 確かに電車はあったが、どうもあの男達は幻のような気がしてならない。爆弾も見当たらないし、あれはいったい何だったのだ?
 私は、昨夜男達が立っていた場所に行き、床を見て、はっとした。そこには柿の種とつまようじが落ちていた。
「つまようじだったのか」と、私はつぶやいた。


  おふくろの味

 なにしろ私は単身赴任なので、飯は自分でなんとかしなくてはならない。というわけで、今日もスーパーでお買い物だ。
「アーラ、ペンサーン」
 アウチ。豆腐の美女だ。
「オヒサシ、ブ!」彼女は日本女性のように微笑んで口に手をあてた。
「リデース」
「あの、私はペンという名では」
「オトコガヒトリサビシク、オカイモノデースカ」彼女は長い髪をかきあげた。「ニョウボウ、ニゲマーシタカ」
「いえ、いえ。私は単身赴任でして」
「ナンダトオ!」目付きが鋭くなった。「ニンシンシマシタカ? タイヘンデスネー」
「違いますよ」
「オーウ、ゴメンクダサイ、ワタシ、ニホンゴ、リカイシヨウトシマース」彼女は眉を寄せた。「ソウゾウニンシン、デスカ?」
「一文字も合ってないですよ。いや、漢字で」
「あなたが好きなのはお母さんなのよ奥さんじゃないのよそんな事だからスーパーで晩御飯を買うはめになるの」
 え? 私は自分の耳を疑った。
「あ、あの、流暢な日本語ですね」
「ナンノコトハナーイ。ドラマノセリフ、オボエタデース」
「ああ、なんだ。びっくりしました」
「ナニヲカイマスカ。レバニライタメデスカ。オミオツケデスカ。アルイハ、レバニライタメツケデスカ」
 私はレバーとにらを鬼のような形相でまな板に叩きつけている料理人を想像し、嫌な気分になった。
「まあ、焼き魚と、ご飯と、ひじきくらいですかね。あなたは何を?」
「ワタシ、オフクロノアジ、カイニキマーシタ」
「肉じゃがとか、味噌汁とか、そういうのですか」
「ワタシ、オフクロノアジ、ミタコトナーイデス。ナンデモ、アタタカイモノノヨウデス」
「ええ、ですから、肉じゃが」
「スーパーノウリモノ、ミンナヒエテマース。デモ、キャサリン、スーパーデカエル、イイマース」
 キャサリンとはいったい誰なのか。
「おふくろの味という食べ物があるわけじゃないんですよ。子供の時にお母さんが作ってくれた」
「サノバー、ビチ!」
 何なのだこの人は。
「ソレハサテオキ、オフクロノアジトイウノハ、ナンデスカ。フルーツデスカ。オカシデスカ」
「いや、そういうのじゃなくて。いや、場合によってはそういうのですが」
「アア、イジラシイ!」
「あー、落ちついてくーださい。ユー、チャイルドの頃、イートしたもの、ママンが作ってくれて、おいしい、おいしい、ユーのメモリーに、残っているもの」
「あなた私のことバカにしてるの? これでももう日本に来て五年になるのよ」
 じゃあもっと、ちゃんとしゃべれよ。
「アー、デモ、アナタノチセツナセツメイノオカゲデ、ダイタイワカリマシタ」
「ああ、そうですか。まあ、分かったのなら良かった」
「ワタシ、トウフヲカウデース」
 えっ? 嫌な予感がする。
「アツカンニ、ソイツヲウカベ、キュットヤルデース。キュキュット。オフクロノアジ、ソウイウコトニシテオクデース」
「いや、それはたぶん、おふくろの味ではないと思うんですけど」
「トウフ、ドコニアリマスカ? アア、アソコニアリマース」
「あの、異次元の味が、あの、やめておいた方が」
 彼女は私に向かって微笑んだ。
「モシモウマカッタラ、アナタニモ、テホドキシテヤッテモイイデース。ソノトキワタシハ、アナタノイエ、カナラズミツケダシテヤル!」
 どうか来ませんように! 私は必死に祈った。


  おやじギャグ襲来

 今日は嫌な一日だった。バイオリズムが低調だったのか、幸運の女神がそっぽを向いたのか。ささいな偶然が積み重なり、いっきに破裂したのか。確率のいたずらか。とにかく、延々とおやじギャグにせめられるという、大脳新皮質がすっかり疲弊して真っ白になる日だった。
 公園のトイレで手を洗っていると、紺の背広を着た、腹が出ていて頭髪の薄い男が、私の横に立ち、水道の栓をひねった。
「はあー、やれやれ」
 お疲れのご様子だ。彼は突然ポケットからくしを取り出すと、残り少ない毛を手入れし始めた。
 気にせず去ろうとする私の背後で、男はいきなり言った。
「おお、髪をとこう」
 他には誰もいない。私に言っているのか? 少し驚いて振り返る。彼は相変わらず髪を整えている。
 彼の手の動きが止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
「うわあっ」
 思わず叫んでしまった。彼の顔には獣の剛毛が隙間なくはえていた。
「あなた、どうしたんですか、その顔」
「それはお前を、食べるためだよ!」
 私は自分でもわけの分からないことを何やらわめきちらしながら、一目散に駆け出した。
 随分と走って、やっと止まる頃には、額に汗が流れていた。横にお爺さんとお婆さんがいて、のどかに立ち話をしている。
「隣りの家に囲いができたってねえ」と、少しの期待をこめた表情で、じいさんは言った。
「ええ、ええ。何でも泥棒に入られたそうでねえ。かわいそうにねえ。山田さんも気をつけた方がいいですよ」
 山田と呼ばれた老人が、意気消沈していくのが、私の心に伝わってきた。
「囲いだけでは心配なので、犬を飼ったんですけど、その犬がまあほえること、ほえること。迷惑なんですけど、そうも言えなくてねえ。それでも足りなくて、防犯システムとかいうのもつけたんですって。高かったらしいですよ。ほんと、物騒な世の中になりましたねえ」
「へえ」
 ああ、なんと言うことだ。お爺さんの寂しい気持ちを私は感じ取る。いたたまれなくなって、その場を離れる。
 これはひょっとして、おやじギャグなのか? そんな疑いを抱いた私に向かって、執念に燃えているような表情の大男が走ってきた。彼はいきなり私の胸ぐらをつかんだ。
「ダジャレを言ってるのは、誰じゃ!」
 足が宙に浮いたまま、私は彼を凝視することしかできなかった。
「俺だよ!」
 男は駆け去ってしまった。これはもう間違いない。おやじギャグだ。風水か、仏滅とかそういうのか分からないが、今日は私にとってそんな日なのだ。おお、おお、なんと恐ろしい!
 逃げなければならない。なんとかして、この呪縛からのがれるのだ。
 だが、少し進むと、向こうから中年男が歩いてきた。何かやるぞ。私は身構えた。突然左右からころがってきた二つの巨大な歯車が彼をはさんだ。
「ぎやっ!」男は叫んだ。
 あうう。なんてつまらないんだろう。このままでは脳が疲弊してしまうぞ。
 八百屋の前を通り過ぎようとした時、店のおいちゃんと主婦の会話が耳に入ってきた。
「この長ねぎ、もっと安くならない?」
「ちぇっ。奥さんにはかなわねえなあ」
 鋭敏になってきた私には分かった。ねぎを値切っているのだ。しかし、気づかない方が幸せなのだ。
 まるで、霧の濃い森をさまよっているかのようだった。いつの間にか、私は公園に来ていた。そこには親子がいた。だが、私は完全に緊張の糸が切れていた。
「パパ、漏れちゃうよ」
「よしよし、トイレに行っといれ」
 子供は分からなかったらしく、駆け去ってしまった。だが、私は全身の血が凍っていた。おやじギャグには、体の、そして心のぬくもりを完全にうばってしまう効果があるのだ。これは恐怖だ。
 そんな目に何度もあっているうちに、すっかり日が暮れてしまった。私はおでんの屋台を見つけた。腹を満たすことにし、椅子にすわった。
「親父。はんぺんと、こんにゃくと、卵と、あと熱燗」
 ほどなくして、うまそうなそれらが目の前に置かれた。だが、すぐに私の体は緊張に支配された。そうだ、油断してはならない。
 親父を、ちら、ちら、と見る。何かするぞ。どんな手だ。どんな手で仕掛けてくるんだ。私は、どうすればいいのだ。
 先制攻撃だ。それしかない。
 私は湯気をたてているこんにゃくに、指を押し当てた。熱い! しかし、我慢するのだ。ねじるようにして、なんとか突き通した。
 そのまま持ち上げ、さらに第二関節まで進めた。それを親父に向けた。
「こんにゃく指輪!」私は叫んだ。
 彼の蔑むような視線が、私を射抜いた。
「寒ぶっ」親父は自らの体を、両腕で包み込んだ。


  チョー・コギャル

 私は職場から家へ向かう電車の中にいた。途中の駅で乗ってきた女子高生と思しき二人組みが正面の席にすわった。片方は、ブームが去りかけている山姥メークの子だ。驚いたのはもう一人の娘だ。髪は真っ白、目の下は黒く、ほほにあざがある。良く見ると、それが全部化粧なのだ。山姥メークならぬ、白髪鬼メークだ。最近はこんなのがはやっているのか。
 山姥娘がひざの上に広げた雑誌を異形の子に見せている。
「このカマドって、ちょーやばくない?」
 カマド? ああ、人気バンドのボーカルか。
「あああ、ちょう、あざとい。ちょあざ」
 大丈夫なのか?
「えー? そんな脂ぎってるー?」
 何を言っている、山姥。待てよ? 「あざとい」ってどういう意味だっけ。
「おおお、おお、ちょお、こざかしい。カマドはちょこざ」
 こざかしい、か。ホラーな雰囲気なのに、面白い事を言う、彼の態度を言っているのだろうか。
「知ってるー? カマドの彼女、他の男とくっついたんだって。浮気されてんの。ちょー笑える」
「おーのーれー、姦夫姦婦によって、おとしいれられたのか。ちょう、呪わしいー」
 震えている。恐ろしい目つきだ。
「でさー、カマドったらあー、その女から慰謝料が欲しいとか言ってんの。ちょーあぶねー」
「ちょう、嫌気」
「そーうよー、嫌気さすって、感じよねー」
「カマドは……うっ」
 白髪娘は突然自分のみぞおちをおさえた。
「ちょ、ちょっと優子、大丈夫?」
「カマドは……って言うかカマドよ……復讐するのだ。姦婦に、ああ生まれてこなければ良かったと後悔させるような、地獄の復讐をするのだ……って言うか、ちょう復讐」
「追っかけの子がいてさー、しつこくカマドにくっついてまわるんだって。朝起きて、ドア開けたらそこに立ってるんだって。それって怖くなーい?」
「護符を貼るのだ。あらゆる入り口に護符を貼るのだ。そして、どんなことがあっても絶対に出てはだめだ。朝が来たと思っても、決して戸を開けてはいけない。ちょーやばいぞ」
 誰なんだ、お前は。
「でさー、持ってきた手料理渡そうとするんだって。それが、これくらいの弁当箱なんだって」
「小さいつづらを選ぶのだ。大きいつづらを選んではならない。チョベリブブって感じ」
 ブブ?
「カマドったら、その追っかけのこと、豚とか言ってんの。ひどくなーい?」
「藁の家に住んではいけない。丸太小屋もだめだ。レンガ造りの家なら、狼に襲われはしない」
 電車は駅に着き、停まった。二人は相変わらずしゃべっている。白髪娘は枯れ木に花を咲かせろとか、血を吸えとか、変な事ばかり言っている。これが、コギャルの次に来るブームなのだろうか。
 山姥は窓の外を見た。
「ねえ、ちょっと。優子が降りる駅じゃなーい?」
「なにおうっ!」
 慌てて立ち上がり、よろよろと歩いていった白髪の目の前で、無情にもドアが閉まった。
「あーけーろー。ここから、出してくれー」
 電車は走り出した。


  さよなら、鼻親父

「口の中に、虫歯がいるよ」
 鼻親父が歌っている。
「羽根は四枚、脚は六本」
 相変わらず嫌な歌だ。
「ほうらほら、飛び立とうとしているよ。神経をちょん切って、歯茎からぼこっと抜けて、大空に羽ばたいていくよ」
「いい加減に……」
 やかんのふたを開けた途端、あやうく腰を抜かしそうになった。彼は口親父になっていた。とても、嫌だった。
「おや? 顔が青いよ」
「お前こそどうしたんだ、その顔」
 唇と歯があるが、奥は真っ暗闇で、どうなっているのか分からない。
「鼻でいるのが一番居心地がいいんだが、ほら、飽きるだろ」端がつり上がった。笑っているらしい。「しかし、太ももやあごになっても、なんだか分からないし。目、鼻、口、耳、あとは指くらいか」
「普通に、顔をのせればいいんじゃないか?」
「悪趣味だなあ」
 どっちがだ。
「今日は一つ、言いたいことがあるんだよ」
「なんだ」
「もうそろそろ、ここを出て行こうと思う」
 え? あまりにも突然の言葉に、私は動揺した。
「へえ、そりゃまた急に。でも……」
 でも、出ていってくれるなら、それにこした事はない。
「でも、どうしてかって? わしも長い間、この家に幸運をもたらして来たが、もう十分だろうと思ってな。他の不幸せな人を救ってやらんとな」
 そういう奴だったのか? 違うような気がするが。
「ああ、そうかあ。それは残念だなあ」私は悲しく見えるように、眉を下げた。「でも、まあ、仕方ないか」
「分かる、分かるよ。なごり惜しいだろう。悲しいだろう。こらえてくれ」
「ああ、本当に。何か、できることはないか?」
「いや、いいんだよ。あんたの涙を見ないうちに、わしは行くよ」
 親父はやかんから出ると、床に水を滴らせながら、空中を漂っていった。後頭部は赤いUFOのようだった。そして彼は、寂しそうに振り向いた。
「それじゃあ、元気でな」親父の前歯が、泣いているように見えた。
 突然、ドアが開いた。
「ハーイ、ペンサーン」
 なぜ豆腐の美女が! 
 私は何か言おうとした。だが、遅かった。彼がむこうを向いた途端、二人は熱いキスをした。
「ブーリー、シット!」
 彼女の猛烈な発音が、親父を吹き飛ばした。

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