1

 私はあせっていた。傾きかけた日の光が杉やけやきの葉と葉の間からわずかに差し込み、森は徐々に暗さを増していた。カラスの鳴く声、ひぐらしの声が、かえって静けさを際立たせる。深い森の中で私は完全に迷っていた。
 暑い。顔中から汗が流れ、いくらぬぐっても次から次へとふき出して、土の上に滴り落ちる。まぶたを伝って眼に入ると、痛くて開いていられない。何度となく見た地図をもう一度広げる。木々の間をぬうように続いているこの小道を進めば、国道に出られるはずなのだ。
 だがそんな私の期待は、またしても裏切られた。
「ああっ、また」思わず言葉が口をついて出る。
 朽ちかけた木の道標が、私の前に姿を現した。左を向いた木の板には「井場トンネル」、右を向いた板には「笠が池」と、どちらもほとんど読めないくらいに消えかかった字で書いてある。
 もう何度、この傾いた道標を見たことだろう。同じ所を堂々巡りしているだけだ。井場トンネルを抜ければ国道に出られるはずだ。だがこの分かれ道を左へ進んでいくと、徐々に草でおおわれて、道は細く、細くなって、やがてなくなってしまうのだ。それでも草をかきわけて進んでいくと、ようやく木立の間をぬう小道が現れる。しかし先に進んでいくと、道は途中で何度も枝わかれし、その度に別の道を選ぶのだが、結局は元の場所へ戻ってしまう。私は大きくため息をついて首をうなだれた。
 ふと、笠が池の方へ行ってみようかという気になった。水筒の水はとっくに切れて、のどが乾いていた。うまくすれば飲める水かもしれない。それに、道標があてにならないのならば、どちらに進もうが同じことだ。
 休日の、ちょっとした山歩きのはずだった。それがこんなふうに迷ってしまうとは。自分の迂闊さを呪いながら、けもの道のような細い道を進んでいくと、清々しい水の音が聞こえてきた。
 急に視界が開けて、広い空間に出た。大きな池が目に映ると、安堵のため息がもれた。周りは木々に囲まれ、正面は崖になっていてちょっとした滝のような流れが水の中に注いでいる。底まで見えるような清らかな水面のそばに小走りに寄り、手を差し入れた。
 両手いっぱいにすくった水を口元に持ってきた時、突然人の声が聞こえた。
「その水、飲んじゃだめだあ」
 驚いて声が聞こえた方を向くと、池の向こうに老婆が立っていた。かすりのうわっぱりに縞のもんぺ。頭にほっかぶりをしている。
「腹こわすよ」
 私は慌てて手の中の水を池に戻した。しかし、こんな山奥で人に会えたのは有り難かった。
「あの、すみません。国道に出るにはどう行ったらいいですか」言いながら、お婆さんに近づいていく。
「あれまあ、道に迷ったかね。国道まではだいぶ歩かねばならんよ」眉をひそめて私の顔を見る。
「どのくらいかかりますか」
「さて、二時間くらいですかの」
 私は腕時計を見た。もう六時になろうとしている。
「今日はもう遅いし、夜の山道は歩くのがしんどい。明日になさったらどうかね。家に泊まったらいいが」


   2

 崖のそばに、木々の間に隠れた細道があって、お婆さんはそこに入っていく。私は慌ててついていった。たいした健脚の持ち主で、遅れないようにするのが大変だった。
 森林を抜けると、そこには村があった。かやぶきの農家が密集し、暮れかけた日に照らされている。地図には出ていない。それほど小さな村だということか。お婆さんはそのうちの、やや大きめの二階建ての一件に足早に歩いていく。
「父ちゃん、ただいま。お客さんを連れてきたよ」
 奥の障子が開いて、つるっぱげのお爺さんが顔を出した。
「どなたじゃ?」
「道に迷いなさったそうで、泊まってもらうことにしたんだよ」
「すみません。ご迷惑をおかけします」私は頭を下げた。
「おや、そうかい」お爺さんは驚いたように目を見開いた。「それは大変だったのう。何か食ったかい? 腹減ったろう。さあ、上がって」
 今時珍しく玄関を入ると土間があって、かまどの上の羽釜から湯気がたちのぼっている。土をしっくいで固めて作ったらしい土がまの中では、薪が勢い良く燃えている。その横を通り過ぎて座敷に上がると、板の間の真中に囲炉裏があって、鮎を刺した串が数本立っていた。
「お疲れじゃろう。さ、さ、お座んなさい」紺の襦袢にももひき姿の主人は私に座布団をすすめた。
「こんなもんしかないが」お婆さんが土間から上がってきて私の分の鮎を囲炉裏に立てた。
「いえいえ、ご馳走になります」
 主人はマッチをすってきせるに火をつけた。自在鉤に下がった鉄鍋の中では味噌汁がいい匂いをたて、ほどなく、囲炉裏に置かれた鉄瓶が湯気をふき始めた。日は急速に沈み、夜が訪れようとしていた。
「この辺は、よく都会もんが迷うてくるでな」主人は口を開いた。「村のもんでも、子供は迷う。道路が整備されるといいんじゃがな」
「あの、ここは何という村ですか」
 主人は、きせるを吸い、そして煙をはいた。
「竜宮(たつみや)村じゃ。時々来る都会の人に聞いてみても、誰も名を知らん。まあ、人里離れた小さな村じゃから、無理もないが」
 鮎が、いい具合に焼けてきた。
「町は今、どうじゃね」
「どう、と言いますと?」
「つまり、何というかな、開けてきたんかい。車や、建物は、増えたんかね」
 私は、ちょっと不思議な気分で老人の顔を見た。
「町にはあまり、出かけないんですか」
「ああ……、そうじゃな。わしが山を降りたのは、もう……ずいぶんと前のことじゃ」
 私は、この古びた村に閉じ込められるようにしてひっそりと暮らしている老夫婦の生活を想像した。ひどく侘しいものに違いない。
「ええ、車はひっきりなしに通っていますよ。ビルがぎゅうぎゅう詰めに建っていて、窮屈なほどです。それに比べると、ここはいいですね。私はどちらかというと、こういう静かな暮らしにあこがれます」
 事実、座敷にはテレビさえなかった。
「ほほう、そうかね」主人は奇妙な笑みを浮かべた。
「都会の人には信じられんほど、古風な村じゃ」お婆さんが三段に重なったお膳を持って現れた。
 脚がついたそれを私達の前に置き、自分は座布団のないござの上にじかに座る。膳の上の食器は、お茶碗にご飯が盛られて、あとは空だ。赤い椀に味噌汁をよそい、鉄瓶から湯を急須に注ぎ、それぞれの湯のみに茶をいれる。
「ささ、お食べなさい」と、主人は言った。
「いただきます」
 料理は、田舎の味がした。炊飯器で炊いたのではないご飯も、スーパーで買ってきたそれとは一味違う鮎も、うまかった。それは、新鮮だった。
 すっかり満腹すると、主人は風呂をすすめた。庭を横切って風呂場に行き、木の湯船につかると、昼間の疲れが体から溶け出していった。温泉に出かけるのとはまた風情の異なる、独特の味わいがある。迷ってかえって良かったかな、と私は思う。
 戻った私はお婆さんに言われて二階に上がった。
「ゆっくりお休み」とだけ言って降りていく。私は、排気ガスで汚れていない風でしばらく涼んだ後、敷布団の上に寝転がって籐枕に頭をのせた。山歩きの疲労も手伝って、急速に眠りに落ちた。


   3

「大変だあ」
 次の日、朝食をご馳走になっていると、勢いよく戸を開けて一人の若者が飛び込んできた。
「どうしたんじゃ三郎、騒々しい」
「伊槌さん家の鶏がやられたぞう」
「またか!」主人が箸を置く。
「いったいどうしたんです?」私は興味をひかれ、聞いた。
「いやいや、鶏が山犬に食い殺されたんじゃ。よくあるんじゃよ」
「山犬が出るんですか」
 村の近所を狼みたいなのがうろついているのかと思うと、ぞっとした。なんという田舎だ。
「ああ、都会の人には信じられんだろうが」
「そうじゃねえんだ」三郎と呼ばれた野良着姿の若者は、血相を変えて言った。「蛇にのまれたんだ」
「なんじゃと!」爺さんまで顔色を変えた。「大変じゃ。こもらんといかん」
「あの、どうかされたんですか」と、私は言った。嫌な予感がした。
「この村のならわしでな。鶏が蛇にのまれたら、その日一日村にこもらんといかんのじゃ。誰も外に出られん」
「そうですか。それはやっかいですね」
「あんたの事を言っとるんじゃよ! あんたにも今日一日ここにいてもらわんといかん」
「ええっ? 私も!?」私は仰天した。「それは困ります。家族が心配します」
 今日は日曜日で、仕事の問題はないのだが、昨日帰らなかったことで妻は心配しているだろうに、もう一日帰らないというのはどう考えてもまずい。お婆さんが困った顔をして私の方に手を伸ばしかけた。
「すまんのう。この村の忌み事なんじゃよ。禁忌というやつじゃ」
「誰か一人でも外に出ると、村に祟りがあるぞ!」
「申し訳ないが、いてくれんかのう。……そうじゃ。祭りでも見ていったらええ」
 私を外人でも見るような目で見つめていた若者が、口を開いた。
「おお、そうだ、そうだ。今ちょうど龍神祭りの最中だ。あんたあ、いい時に来たなあ」
 そう言われても、こんな小さな村のお祭りなど、興味はない。しかし、タブーをおかすことは難しいだろう。仏滅の日の結婚、丙午の出産。都会でさえ忌み嫌うのに、ましてや都市化されていない世界ではタブーは重要視される。都会人が単なる迷信と片付けてしまうことが、村の人間にはそれでは済まないのだ。
 私は、妻に電話の一本でもいれておくべきだろうと思った。
「あの、それじゃあちょっと、電話をお借りできますか。今日は帰れないと、伝えておかないと……」
「この村に、電話はない!」
 きっぱりと言いきった主人に、私は目を丸くした。


   4

 しかたなく、私は散策を始めた。池に通じる森の入り口に行ってみると、二人のたくましい若者が見張りをしていた。回れ右をして、農家のかたまりの向こう側へと歩いていく。山間の小さな村には田園が美しく広がり、稲穂が一面に実り、弧を描くようにこうべをたれていた。太陽が暑く照らし、ほんの数分歩いただけで汗がしずくとなって額をつたい始めた。
 田んぼのあぜ道を歩いていると、野良襦袢を着たおばさんが早稲の刈取りをしているのを見つけた。
「すみません。祭りというのは、いつ始まるんですか」私は大声で言った。
「ああ、村のもんは気まぐれじゃからなあ。じき始まるだろうよ」
 広大な田の中で、このおばさんだけ一人でぽつんと作業をしている。
「お一人で大変ですね」
「他のもんはみんな祭りの準備をしてるだよ」
 様々な楽しみが用意されている都市と違い、村ではたいした娯楽もない。祭り、それは労働におわれるケの日常の中で、年に数度やってくるハレの日だ。村の人々はその日だけは仕事から解放され、おおいに楽しむことができるのだ。
「あの、笠が池を通る以外に町へ出る道はないんですか」
 ひょっとすると村人達の目を盗んで帰ることができるかもしれない。
「見ての通り山に囲まれとるから、他に道はねえだよ」
 私は周りを見渡した。ここは盆地になっているらしく、高い山が取り囲んでいる。峰を越えていくのは無理そうだ。
「あんたあ、悪いことを考えん方がええよ。今日一日は村から出れねえから。出ると龍神様が怒って雨降らせなくなったり、村に疫病が広がったりするだあよ」
 三郎が村中に伝達して回ったのか。鶏の件はみんな知っているようだ。
 おばさんに一礼して再び歩き始める。さて、どうしたものかと私は考える。どうやらやはり今日は帰れそうにない。明日早朝にお婆さんに案内してもらい、急いで帰って身支度をして出社しなくてはなるまい。こりゃ朝飯は抜きだな。
 田んぼの中に麦わら帽子をかぶったかかしが立っていて、のんきな顔をして遠くを見つめている。横を通り過ぎようとする私の目の前を、細っこい蛇がゆっくりと横切っていったのでびっくりした。
 ずっと歩いていくと、あぜ道が細くなってその先が森となって消えていた。田もそこで終わっている。木々はゆるやかな斜面をのぼっていき、山の上の方まで続いている。
 道端に地蔵がまつられている。もうだいぶ年月がたっていて、摩滅して表情が分かりにくかったが、微笑んでいる口元と目元がわずかに判別できた。
 私はあらためて田園をながめた。風景はのどかで、空気はきれいだ。こうしていると、都市の日常生活に疲れた心も、体も、徐々に癒されていくようだった。


   5

 他にすることもなく、私は昼過ぎまでその辺をほっつき歩いていた。何やら若者達の威勢のいい掛け声が村道の方から聞こえ、行ってみると、道の両脇は人々で埋まり、向こうの方から神輿をかついだ行列がやって来るところだった。
 わっしょい、わっしょい。
 らっせい、らっせい。
 上下にゆれながら、神輿がだんだんと近づいてくる。その周りで人々が奇妙に手足を動かして踊っている。沿道の見物人達も次々とその中に加わり、こちらに来るに従って数が増えてくる。
 笛を吹く者、小太鼓を打つ者。演奏と、おそらくは彼らが龍神と呼ぶ神が乗った輿を運ぶ若者達の掛け声が、一定のリズムを保ち、男も、女も、その周りで狂ったように舞い、一団が徐々に膨れ上がりながらこちらに向かってくる。踊る者達は、みな一斉にしゃがみこみ、猿のように手を打ち鳴らし、突然飛び上がり、体を何度も回転させる。原始的で不恰好なダンス。麻の葉模様のはんてんを着た子供が、下手くそながらも一生懸命に大人達の真似をして手足を動かしている。
 ついに集団が私の前にやってきた。群集は、口々にわめき散らしながら、舞踏の中へなだれこんでいく。彼らの熱狂ぶりと、見ているだけではずかしくなってくる奇妙な動きに、私は苦笑いを浮かべた。
 数人の娘が人々に酒をふるまっている。ほっぺの赤い一人が、私に升を差し出した。軽く頭を下げ、受け取ると、一升瓶から清酒が豪快に流し込まれ、縁からあふれた。
「おっとっと」急いで口へ持っていく。一口飲むと、酒は変に甘酸っぱかった。
 隣の男がいきなり私の腕をつかんだ。
「ほら、あんたも踊るだよ」
「いやいや、私は」慌てて首をふる。
「おや、町の人は飲みが足りねえぞ」
「何をはずかしがっとるだあ。そら、ぐっと空けるだあよ」別の男が口を出す。
 おらおら。さあさあ。周りの人達に囃したてられて、私は升の中身をぐっと飲み干した。途端に別の升が乱暴に渡される。しずくが顔にかかる。
 それも全てのどに流し込むと同時に、私は人の波にのまれるようにして踊りの集団の中へ押しやられた。
「はずかしがっとったら祭りにならねえだよ!」
 叱咤するように言われて、おずおずと手を動かし始めた。
 不思議だった。村人達の真似をして体を動かしているうちに、ゆっくりと私の心に火がつき、燃え上がっていくようだった。音楽と喧騒とが脳を麻痺させ、さらに酔いも手伝って、私の動きはだんだん大きくなっていった。恥も外聞もなく猿のように手をたたき、飛び跳ね、回転し、腕をふり、足を前に出したり、引っ込めたりを繰り返しているうちに、まるで脳内麻薬が発生したかのような一種の快感が広がり、気分が高揚してくるのだ。阿呆のようにげらげら笑っている者、やるだよ、行くだよとわめいている者。それはまるで、集団催眠にかかっているかのようだった。
 心は若返り、忘れかけていた十代の頃の熱い感覚がよみがえってきて、普段の自分がひどくつまらない者のように感じられてきた。毎晩のように盛り場で踊り狂う若者達の気持ちが分かるような気がした。若さゆえの情熱が、心と体をわき立たせるのだ。
 他のどんな趣味に熱中したところで、スポーツに参加したところで、これほどの喜びは得られまい。人の精神に術をかけるような祭りだ。現代人の脳の奥底に閉じ込められた野生の本能を、理性から解放するのだ。
「らっせい! らっせい!」全く自然に、私の口から大声が飛び出した。
 踊りながら村中をねり歩いていく。一周して元の場所に戻ってきたかと思いきや、また同じコースを進んでいく。
 いったい何周したのか分からない。そうこうするうちに、私達は小さな広場に着いた。その真中で白い着物を着、神楽面をつけた二人の人物が飛び跳ねている。集団はその二人を囲んで、輪になって舞い続けた。
 神輿をかついだ若者達が輪からはずれていくと、一人、また一人と舞踏から抜けていった。馬鹿騒ぎが徐々におさまっていく。もう日が暮れようとしていた。ということは、まるで気づかないまま、ずいぶんと長い時間踊りつづけていたことになる。
 女達によって酒や料理が運びこまれ始めた。村人達は少しずつ輪から抜け、焼き魚や山菜を食べながら酒をくみかわした。神楽面の二人が舞いをやめる頃になってやっと私も正気を取り戻し、勧められるままに酒を飲み、鮎の踊り串を食べた。陶酔はいつまでも頭の芯に残り、さめることはなかった。
 すっかり疲れ、酔っ払った私は、老夫婦の家へと戻り、倒れこむようにして眠った。
 翌日の早朝、お婆さんに案内してもらって国道へと出た。不思議なことに、私が歩いていた時には見つからなかった枝道があって、そこをずっと行くと井場トンネルに着いた。


   6

 あれから、一年の歳月がたつ。私は、あの時の森の小道を歩いていた。竜宮村はちょうど龍神祭りの時期だ。土日に三日の有給休暇を足し、アタックザックに荷物を積めこんで、はやる気持ちをおさえてやって来た。今度はゆっくりと祭りに参加することができるだろう。
 一年前と同じように蝉がせわしなく鳴き、木立の枝葉の間からわずかに日が射し込み、昼だというのに、薄暗い。井場トンネルと笠が池への分岐点にたどり着いた時、道標がなくなっていることに気づいた。よく見ると、草の間に木の棒が倒れており、かきわけると、そこにじめじめした土の上ですっかり腐ってしまっているみちしるべが見つかった。
 私は迷うことなく、笠が池へと向かった。木々の間から風景が開け、清らかな水をたたえた池が姿を現した。崖の上から注ぐ水の流れは、しかし、細くなっているように感じた。杉とけやきが入り混じった林の、崖に近い部分を見つめる。あそこに隠れた小道を進めば、その先に村があるはずだ。私の胸に祭りの日の生き生きとした情熱がよみがえり、山歩きの疲れが、太陽を隠す雲が風神に吹き飛ばされるかのようにぬぐい去られた。私はザックをひと揺すりすると、崖のそばに走っていった。
 ――おや?
 変だな、と思う。木々の一本一本を見つめる。ない。道がない。そんな馬鹿な!
 だが、いくら探しても、木と木の間に道が入る間隔はなかった。不安が胸に浮かび、だんだんと大きくなっていった。肩にくいこむ荷物を放り出し、走る。ひょっとすると記憶違いかもしれない。池を回って崖の反対側に行き、整然と並ぶ杉をながめる。しかし、やはり小道は見つからない。
 そんなはずはない。狐か狸に化かされたとでもいうのか。蝉の声が急に大きくなったように感じ、汗が滝のごとくふき出してきた。私は今度はゆっくりと池の周辺を歩きながら、取り囲む木々をたんねんに見てまわった。
 ついに転がっているザックの所まで戻ってきてしまった。疲労が体中によみがえり、それは、心地よいものから痛く、苦しい感覚へと変わっていった。みんみん蝉とひぐらしの合唱が両の耳をふさぎ、私はその場にへたりこんだ。
 たった一年の間に木が繁茂し、道をふさいでしまったということは考えられない。一本の杉が成長するのに一体何年の歳月がかかるだろう。それに、あの小道だけが、町に出るための唯一の経路だったはずだ。この現代社会で、外に出ずしてどうやって暮らしていけるというのか。新しい料理道具も買わず、米も、味噌も、調味料も、全て自給自足でやっていくのか。
 そういえば……。
 あの村自体、ひどく古い、時代がかったものであった。鉄瓶も、かまども、囲炉裏も、どこか地方ならまだ残っている地域があるのかもしれないが、山を降りればそこには都市が広がっているのだ。いくら山奥とはいえ、そんな村があるだろうか。
 突然、笑いの衝動が胸からのど仏へと這い登ってきて、それは弱々しく私の口から漏れた。
「竜宮村か……」私はつぶやいた。
 たつみや……りゅうぐう……。
 都会の喧騒に疲れた中年親父にとって、あれはまさに、竜宮城だった。鯛やひらめの舞い踊りではないが、あの熱狂的な踊り、熱にうかされたようなにぎわい、胸にたぎる情熱の炎は、忘れかけていた“若さ”を思い出させてくれるものであった。
 あの村は、桃源郷だったのだ。もう二度と、狂おしいほどの感情も、命の燃え上がる感覚も、爽快感も、味わうことができないのだ。
 都会ではハレの日は形式的なものとなり果て、ケの日常の一部に過ぎない。そんな無味乾燥な日々が、今後何十年も続くのだ。
 私は玉手箱を開けてしまった浦島太郎のように、一気に老けていくのを感じた。

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