「いいえ、先生。僕は大丈夫ですよ。もう、普通の生活ができます。もう、暴力をふるいません。誰にも迷惑をかけない自信があります」
 俺は、額からにじみ出る脂汗をなんとかしたかったが、そうはいかなかった。震える手をテーブルの下に隠し、ズボンの膝の所をぎゅっと握りしめる。
「だめです。君はまだ治っていません。昨日看護婦を殴り倒したの、忘れたわけではないでしょう?」
「すみません、すみません。どうかしていたんです。そうだ、そう! 昼ご飯の中に蝿が入っていたんです。それでつい、かっとなってしまって」
「昨日は、看護婦が罵倒したからだと言っていましたが?」
「ああいえ、そうです。看護婦さんが持ってきた昼食の中に、蝿が入っていたのです。それで罵倒したのです」
 医者の眉間にしわが寄る。何か変なことを言っただろうか。
 額から汗がふき出し、したたり落ちるのを、どうすることもできなかった。
 ちくしょう、こいつぅ、こいつぅ、また屁理屈をこね回して、退院を延ばす気だ。俺をストレス解消の道具くらいにしか思っていないのだ。俺がもだえ苦しむのを見るのが、楽しくて仕方がないのだ。俺が退院したら、ストレス解消の道具がなくなるので困るのだ。俺が舌でも噛み切れば、腹をかかえて笑うだろう。そういう奴だ。
 ここは、人間の住む所じゃねえ。人権なんてありゃしねえ。こいつ! 必ず後悔させてやるぞ。糞野郎、糞野郎!
「でもまあ、そんなものが食事の中に入っていたら、誰だって頭に来ますよねえ」医師の顔に苦笑いが浮かぶ。「病気じゃなくても」
 俺はこいつの人を小ばかにしたような笑顔が嫌いだ。もう、我慢の限界をとっくの昔に超えているのだ。いけない。正常なように見せるのだ。普通の人としてふるまうのだ。医者の顔の横に蝶が舞っているが、そんなことは言っちゃだめだ。窓に女がへばりついていて、ケタケタと笑っているが、それを口に出してはいけない。ここは三階で外にはベランダなどないのだ。
「いいでしょう。もう退院しても」
 へ? と思った。あまりにもさらりと、奴が言ったからだ。
「相当長く、君をこんな所に拘束してしまいましたね。実は一ヶ月ほど前からもう大丈夫だと思っていたのですが、余裕を持った方がいいと思いましてね」
 さっきはまだ治っていないと言ったくせに。話をころころと変えやがる。俺はこんな奴全然信用しちゃあいねえ。いったい何をたくらんでいるんだ?
「つらい思いをさせましたね。でも、君を治すためには、仕方がなかったのです」
 でも、出してくれるならそれにこした事はない。今後こことかかわり合いにならなければいいのだ。それで俺は、自由になれる。
「退院の手続きは、こちらですませておきます。いやあ大変でしたね。でももう君は、治ったのです。本当に良かった」


 俺は退院後、すぐに引っ越した。もちろん、あの病院から離れるためだ。仕事をどうしようかと悩んだが、在宅ワークで生きていく道を選んだ。外に出るのは恐ろしかった。ナメクジみたいな犬がいるし、コンビニの店員が包丁を振り回しながら追っかけてくるのだ。生活は楽ではなかった。自分で営業など、できない。インターネットのSOHOの掲示板で、仕事を探すのだ。たいした技術を身につけていないので、文章入力や翻訳くらいしかできない。翻訳といっても、自動でやってくれるツールを使うのだ。出力されたでたらめな文章を、貧困な想像力をせいいっぱい膨らませて修正するのだ。危ない橋を渡っているのは分かっていた。
 仕事よりむしろ、精神がつらかった。俺は時々畳にできた穴を降りていき、人形が住む町をさまよい歩いたし、天空へとのびる豆の木をよじのぼり、大気圏外から地球に核ミサイルを撃ち込んだりもした。
 そんな俺でも、結婚することができた。俺にはもったいないほどの、すげえ美人だ。満足この上ない。彼女が時々、トカゲに変身する点を除けば。
 平静をよそおうのは、大変だった。つらくて苦しくてたまらなかった。変なことはすべて、俺の頭の中で起こっているのだ。現実は退屈で、平凡なのだ。
 子供ができた。幸せだった。心配したような事は、何も起こらなかった。牢獄のような病院とも、人でなしの医者とも、完全に縁が切れたのだ。
 息子が二歳になった頃、とんでもない事が起こった。こともあろうに彼は、畳にできた穴の中に入っていってしまったのだ。もちろん俺もすぐに飛び込んだ。
 真っ暗な中を俺は探した。ずいぶんと長い間、さ迷い歩いた気がする。一時間たったのか、一年たったのか、分からない。俺は、自分の体が腐っていくのを感じた。触ると、ぶよぶよとするのだ、指がめりこむのだ。
 息子はきっと、死んでしまったに違いない。深い絶望感が俺を襲った。悲しくてたまらなかった。泣き喚いた。
 とにかく出口を探した。それから一兆年くらいたって、俺は光を見つけた。俺は走った。だが、その光にふれると、体がぼろぼろとくずれていった。俺は粉々になった。


「まだ、退院させてあげることは、できそうにありませんねえ」
「えっ?」
 目の前に、医師の慈愛に満ちた、それでいて人をこけにしくさった笑顔があった。
 こめかみに違和感がある。さわってみると、吸盤がはりついていて、そこからケーブルがのびているのだ。なんだこれは!?
「だましやがったな!」
 俺は、奴の後ろにあるモニターを指差した。そこには、今まさにくずれさろうとしている、全身かびだらけの俺の姿が、静止画像として映し出されているのだった。
「人の頭の中のぞいて、お前そんな事していいと思ってんのか!」俺は医者につかみかかった。「プライバシーの侵害だぞ!」
 とたんに、屈強な男二人が俺をつかまえ、引きずった。いつも、俺が暴れた時に病室に連れ戻す係の連中だ。
「ちくしょう! 俺をここから出せ!」
 涙があふれた。
「頼む。お願いだ。ここから出してくれえ!」

inserted by FC2 system