「フローラが!?」爺さんの突然の報告に、私は驚きの声をあげた。
 山岡君も奥山さんも、驚いて腰を浮かせかけた。
「ああ、ついさっき……。わしらには何の連絡もなくな」爺さん……中田老人は、しょんぼりと肩を落とした。

 衛星フローラ。それは火星のフォボスに似た星だ。探索チームがアルファケンタウリに到着した時、そこに1つの地球に良く似た地質、気象条件を持つ星を見つけた。その星にはNext Terraを略してネクテラという名前がつけられた。
 そのネクテラの、でこぼこの、愛らしい月には、誰が最初にそう呼んだか知らないが、フローラという愛らしい名前がつけられた。
 フローラには炭素が豊富に含まれていた。それが命とりになったのだ。上層部は強引に、基地建設のための資源を、フローラから採掘することを決定した。
 私達がネクテラに来た時には、すでにフローラは三分の一を残して、全て削り取られていた。

 その最後のひとかけらが、ついさっき粉砕されたというのだ。
「日本人には未だに自然を愛でる感情が心の奥底に残っておると、彼らは思っとるんじゃろうな。だから知らされんかったのじゃろう」爺さんはもじゃもじゃの白ひげをいじくりまわしながら、しかめっ面をした。 
 ネクテラの第四次探検隊は、ほとんどがアメリカ人とロシア人で占められている。数少ない日本人が、我々四人だ。
 私は窓辺に寄って空を見上げた。もちろんそんなことをしても、フローラは今、ネクテラの夜の側にあって、どうなったのか見ることはできないのだが。おそらくフローラがあった辺りには、数々の作業機械達が、まだ浮かんでいるのだろう。
 見上げる私の眼には、ちょうど中天にさしかかった、フローラよりも若く、小さい、この星の第二の月である、アルテミスが大きく映っていた。

       *       *       *

 二日後、司令部から来たという軍服姿の男が、私達に一つの紙袋を持って来た。
「フローラのかけらです」と、男は言った。
 最後に数十個の小石となったフローラは、探検隊の各チームに配られることになったのだという。無理もない。みんなこのあばた面のちっちゃな星に、愛着を持っていたのだ。いわば、形見分けというわけだ。
 男は敬礼すると、さっさと行ってしまった。
「どうじゃろう……」爺さんはつぶやいた。「わしらの手で、葬儀をしてやらんか」
「葬儀?」まだ20代そこそこなのに40にも見える、分厚い牛乳瓶の底のような眼鏡をかけた山岡君が聞いた。「でもやり方を知ってる人なんて、この中にいませんよ」
「ハハハ。爺さんの言ってるのは、そんな大げさなもんじゃないよ。穴の中に埋めてさ。花でも供えて……」という私の言葉を爺さんがさえぎる。
「実はわしの爺さんは神社の神主でな。わしも小さい頃はよく手伝わされたもんだよ。大雑把にしか覚えとらんが、神式の葬儀ならできるよ」 
 爺さんのそのまた爺さんか。一体何年前の話だろう。
「やりましょう!」と、チームの中では一番若い奥山さんが言った。彼女の眼には涙がにじんでいた。
「で、やるとして、何が必要なんです?」と、山岡君。
「おいおい、本気かね」私は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そうじゃな。米と、塩と、酒と、小刀と、あと木の板がいるな。塗料がついてないのがいい。白木の台を作るんじゃ。あ、それと、富樫さん」
「はい?」呼びかけられて、私はとまどった。
「悪いが、榊を探してきてくれんかね」
「サカキ?」
「ああ、玉串を作るのに必要なんじゃ。基地の南はずれにある植物園か、そこになければ中央の植物研究所にならあるかもしれん」

       *       *       *

 地球から遠く離れた地で星の葬式をやることになった奇縁に驚きながらも、私は爺さんに教えられた通り、手桶で手を洗った。
 手水(ちょうず)が済み、爺さんが前へ進み出て、祭詞を奏上する。爺さんは祭詞がどんなものだったか覚えてないので、「フローラの魂が子孫に受け継がれることを祈り……」などと適当な言葉を並べる。
 私は、榊の小枝に紙のかざりをつけた玉串を持って霊前へと進んだ。 
 台の上に水のコップと、御神酒が入ったコップと、塩、洗い米が入った小皿、そして、「フローラ」と筆で書かれた小さな霊じが置かれている。私は台の上に玉串を供えた。まだ採掘が始まる前に撮られたフローラの写真に二礼し、しのび手で二拍手、再び一礼し、自分の席に戻る。爺さんの遠い記憶に頼っているので、どこまで正しいやり方か分からない。 
 全員玉串を奉奠し終えた後、爺さんはフローラの前へと進んだ。
 私達は爺さんが白布の上の小石を白木の小箱に移すのを、厳粛な気持ちでみつめた。
「どうします? 火葬ですか。土葬ですか」と、山岡君が聞いた。
「そうじゃな。まさか火にくべるわけにもいくまい。土葬するにしても、場所がのう……。しばらくは、もがり室に安置しておくことにしよう」 
 私達は、小箱を地下室へと運んだ。そこは土壁が剥き出しになったほら穴のような場所で、ひんやりとしている。すでにダンボールやら何やらが取り除かれ、きれいになっている。もがり室というのは、遺体を安置する部屋のことである。
 部屋の真中のテーブルの上に小箱を置くと、「フーッ」と山岡君がため息をついた。
「うっ……。うっ……」奥山さんが顔を手で覆い、泣き始めた。「フローラ……」
「神道では、死ぬと魂はどうなるのですか?」私は爺さんに聞いてみた。
「肉体がほろんでも魂は不滅じゃよ。人は結婚すると、自分の魂と相手の魂が結びついて、子供へと受け継がれていくのじゃ。氏族の始祖から子孫に至るまで、血がつながっていくように、魂もまた連綿とつながっていくのじゃよ。そして自分が死ぬと、その霊魂は祖先の元へと帰っていくのじゃ。富樫さんはお子さんは?」
「いや、私は子供ができないまま離婚してしまいましてね。今は独りですよ」
「そうか。悪いことを聞いたのう」
「いえ、いいんですよ」
「いつもの事ですが……」山岡君が口を手でおさえて言った。「ここにいると、気分が悪くなる。酸素が薄いのかもしれない。僕もう上がってていいですか」
「ああ」
 山岡君が階段を上がっていってしばらくして、「ああっ!」という大声が聞こえた。
「みんな! ちょっと来て下さい!」
 どうしたのかと慌てて行ってみると、山岡君は寄宿舎の外に出ていた。山岡君が指差す先を見た時、思わず私も「ああっ!」と叫んでしまった。そこにはアルテミスがあった。小さな星だとは言っても、低空にあるためにかなり大きく見える。巨大な岩石が、空に浮いているように見えるのだ。その表面に昨日まではなかった赤い痣のような模様ができていた。
 それは、フローラにあったものとそっくりな模様だった。

       *       *       *

 我々の儀式によって、フローラの魂がアルテミスに受け継がれたのか? そもそも物に魂があるのか? 果てしない議論が、私達の間で繰り返された。答は出なかった。二日たち、三日たつうちに、みんなこの事を追及するのをあきらめたようだ。
 そんなある日、私はふと、もがり室に行ってみる気になった。みんなあれから、薄気味悪がって誰も地下室へ降りていこうとしないのだ。爺さんでさえ。私は石が……フローラがどうなったのか気になった。
 地下室の裸電球をつけると、薄っすらとほこりをかぶった木箱が眼に入った。木箱に近づいてみると、その横に置いてある守り刀にもほこりがついていた。
 私はそろそろと箱の蓋を開いた。そこには変わらぬ姿で小石が鎮座していた。
 ほっとため息をついた私の足に、突然激痛が走った。
「痛いっ!」
 見ると、どこから入ったのか、ネクテラの猛毒蛇マダラバリコブラが私の足に噛みついているのだった。
「シッ!」
 足をひとふりすると、やっと口を離して、にょろにょろと這っていって部屋の隅に開いた小穴の中に姿を消した。
 なんということだろう。この蛇に噛まれたら、三分以内に血清を打たなければ助からない。
「おーい! 誰か!」
 私は、地下室へ通じる分厚い扉を閉めてきてしまったことを思い出した。つまり、声が届かないのだ。階段の方へ歩き出そうとすると、途端に膝ががくんとくずれた。猛毒がすでに右足全体に広がっていた。刻一刻と、毒が体全体に広がってくるのを感じた。
「おーい……誰か……」
 声までかすれてきた。
 私は木箱の方を振り返った。
 ……だいたい、アルテミスの方が若い星で、二つの星がネクテラの月になっているというだけで、フローラとアルテミスが親子だとするのはおかしいですよ……
 そんな山岡君の言葉が甦った。そんな事は分かっている。分かっているのだが……。
 足に手を当て、見ると、手の平にべっとりと血がついていた。
「血のつながり……か」
 それが言葉の彩であることくらいは知っている。実際に引き継がれていくのは遺伝子だ。輸血をしたからといって、親戚になるわけでもあるまい。だが……、私には子供がいないのだ。私の魂は、誰に受け継いでもらえばいい!
 私は木箱の方へにじり寄っていった。
「こんな事をしても、どうにもならないのだろうが……」私は木箱に手を伸ばした。「フローラ……」
 私は血のついた方の手で、しっかりと石を握り締めた。

       *       *       *

 富樫氏の死に最初に気づいたのは、山岡氏だった。次の日の早朝、富樫氏の姿が見えないことに不信をいだいた山岡氏は、もがり室へと降りていったのだ。
 みな驚き、そして泣いた。日本人だけでなく、その近所の住人達も集まってきて富樫氏の死を悲しんだ。そうするうちにも地平線から昇ってきたアルテミスは、徐々にその高度を上げていった。奥山さんがそれを見上げた時、彼女の眼が皿のように見開かれた。
「みんな、あれを見て! アルテミスよ!」
 みなどうしたのかと、彼女が指差す先を見上げた。そこには……、アルテミスの表面には、赤い痣とは別に、もうひとつの別の模様が、くっきりと浮かび上がっているのだった。
「顔よ! あれ、富樫さんの顔だわ!」

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