恐怖は論理的には実体化する。例えば幽霊を見るという人がいる。霊の存在は科学的には証明できない。人はレム睡眠、つまり浅い眠りの時に幻覚を見る可能性があるという。その人の幽霊に対する恐怖が強ければ、そんな幻を見てしまうこともあるだろう。
 つまり、恐怖は論理的には実体化する。
 俺が怖いと感じるのは、意味の不明な世界に閉じ込められてしまうことである。小学生の時、服を着ていないマネキン人形が立ち並ぶ部屋に誤って閉じ込められたことがある。彼らは服を着て、人々に見られることに意味がある。昼間だったから暗くはなかったのだが、明るくても同じことだ。マネキンだから怖いのか? そうじゃない。バレーボールがたくさん転がっている部屋でもいい。そこが体育館だったら、意味がある。普通の室内だったらまったく意味不明である。もちろんその部屋が自由に出入りできる場所なら論外だ。問題なのは、そこから出られないということだ。
 そんな俺の恐怖が実体化したのだろうか。俺は今奇怪な場所にいる。幅一メートルほどの壁が四方を取り囲んだ、穴の中だ。高さは俺の身長の二倍ほどもあって、抜け出すことはできない。上からは日の光が差し込んでいる。
 それが鉄やコンクリートだったなら、どんなに良かっただろう。あっても不思議じゃない物だからだ。しかし内壁は、どこを見てもサイコロ、サイコロ、またサイコロであった。びっしりとすき間なく積み上げられている。床は鉄板のようだ。
 突然、異世界に放りこまれたとしか言いようがない。朝電車に乗ったのは覚えている。いつも混んでいて、めずらしくすわることができて、本を読んだのも覚えている。降りたのも、改札を出たのも覚えている。しかし、そこから先が分からない。気がつくと、ここにいた。
 サイコロの目には規則性はなく、黒い点の渦の所々に赤が混じっている。意識が鮮明になって、自分が異常な世界に紛れ込んだことを知った時、俺は猛烈にあせった。ここはどこだ。いったい何が起こったのだ。現実的な解釈を見出そうとする思考はことごとく失敗した。悪意ある何者かが俺を催眠状態に陥らせ、このわけの分からない場所に閉じ込めたのか? しかしいったい誰が、何のためにそんな凝ったことをしなければならないというのだ。人にいたずらをして、そいつが右往左往する様を楽しむ類のテレビ番組があるが、それであるとは考えにくい。俺は一時的に意識不明の状態になったはずだ。テレビでそんなことをするのは倫理的に問題がある。
 腕時計の針は八時二十八分で止まったまま、動いていない。自分の体内時計に頼るしかないが、もうかれこれ一時間はたったのではないかと思える。ここがまったく意味不明の場所だと気づいた時、俺は絶望した。なんとかサイコロの目に意味を見出そうとした。何かの暗号になっているのではないか? そして、それを解けばここから抜け出せるのではないか? しかし一から六までの範囲の膨大な量の数字の羅列から何かを読み取ろうとするのは不可能だった。
 小さな四角達は完璧なまでに整然と並んでいて、一ミリたりともとび出ているものはなかった。サイコロの間の隙間に爪をくいこませ、抜き出そうとしてもびくともしない。つかむ所がなく、上ることはできない。壁をくずせれば、外に出られるかもしれない。しかしもし、接着剤でくっついているのだとしたらお手上げだ。
 積み重なっているその重さのために微動だにしないのだとしたら、助かる見込みがある。上の方だったら簡単にくずせるはずだ。しかしせいいっぱい手をのばして、爪でひっかいてみても、取ることはできなかった。
 がっちりと組み合わさったパズルのピースをばらばらにするにはどうしたらいいか? 俺は想像してみた。そうだ、振ってみればいい。しかし、この壁を振ることはできない。地震が起こってくれるのを待つしかない。
 では裏側から思いきり叩いてみてはどうか? そう考えた俺は壁をなぐった。何度も、何度も。残念なことに何の反応も示さなかった。よほど厚いのか、それともやはり接着剤で固定されているのか。
 マネキンの部屋に閉じ込められた時の恐怖が記憶の底から少しずつ、少しずつよみがえってきて、心臓は早鐘をうち、呼吸は早くなり、いてもたってもいられなくなった。
「おおい、誰かいないか」
 俺は叫んだ。だが、返事はなかった。人の気配を感じない。足音も聞こえない。それでも俺は叫び続けた。涙さえにじんできた。
 そして今俺は、途方にくれてすわりこんでいるのである。
 サイコロは、すごろくやギャンブルに使われてこそ意味がある。こんなふうにただ積み上げられているだけでは何の意味もない。ものすごい形相をしたお面に囲まれるよりもよほど不気味だ。お面だったら、怖がらせようという意図が汲み取れる。
 俺は床に手をついて、下端の一列を見つめた。どこかに均一性のくずれた所はないか。少しでもいい。出っ張るか、引っ込むかしてくれていれば、そこから壁を壊せる可能性が出てくるのだ。だが非情にも、そんな個所はなかった。
 立ち上がり、両の手の平を目の前の壁に押し当てる。なんとかしなければ。何もしないわけにはいかない。このままの状態が続くと、だんだん腹が減ってきて、ついには飢え死にしてしまうだろう。
 もしも接着剤で密着しているのだとしたら、それがサイコロの間からはみ出しているのを見つけられるかもしれない。今一番問題なのは、このサイコロの群れを自力でくずせるのかどうかだ。手を離し、下端から始めることにして再びかがみこんだ。
 透明な塊が隙間から出ていないか。左端から順番にみていく。二、五、三、六、二、四、一……。右端までたどり着いたので、今度は一段上の列を右から左へと確認する。
 この作業は案外時間がかかった。ずっとかがんだままだから、腰が痛くなってきた。ようやく顔の高さまで来たので、俺は立ち上がった。
 丹念にたどっていき、背伸びして見える所まで確認した。接着剤がはみだしている個所はなかった。これだけ大量にあるのだ。人の手でくっつけたとすれば、少しくらい不手際があっていいはずだ。だとすると、やはりボンドや糊は使われていないに違いない。だが油断はできない。なにしろ一ミリの狂いもなく並べられているのだ。相当几帳面な奴がやったか、あるいは機械を使ったのかもしれない。
 俺は左側の壁を調べるため、またかがみこんだ。今度は一つ一つではなく、いくつかまとめて見ていくことにする。
 どこか、他と変わった所はないか。おかしな所はないか。あれば、そこには何かしら意味がある。そのサイコロが実は隠し扉を開くスイッチだという可能性だってないわけじゃない。だが、相変わらず小さな正方形は、みんな同じように整列している。
 途中まで見て、飽き飽きしてきた。几帳面な奴か機械の仕業だったら、いくら見ても無駄なことだ。
 俺は立ち上がり、眉間をもんだ。
 かかっている力が上下方向だけだとしたら、横の向きには簡単にずらせそうなものだ。そんなことはもう何度もやってみたが、びくともしなかった。ということは、左右からも力がかかっているのか? おそらく、サイコロの表面同士が接しているから、摩擦力のために動かないのだろう。すると残るはこちら側に引くことだけだ。だがそのためには、どこかに他より出っ張った部分が必要だ。
 堂々巡りだ。
 どのくらいたったのだろう。一時間半か、それとも三時間か。わずか数時間前の何の変哲もない平凡な生活が、今はひどくなつかしく思える。駅を出て長い坂を、ああ疲れる、なんとかならないもんかな、と心の中で不満を言いながらのぼって、大学に着いて、閉じようとするまぶたを必死に開けて眠い授業に耐え、休み時間になれば友達とどうということもない話をする。本当は今頃そうしていたはずだ。
 これが夢であってくれたならどんなにいいか。そうではないことは痛むほっぺが証明している。何度もつねったので、ひりひりする。
 これから、どうしようか。いや、どうすることもできない。俺はやけくそになって、壁を蹴った。
 何か、細い物があれば。つまようじか、針か。だがそんなものは持っていない。やはり、自分の爪を使うしかない。俺は再び隙間に爪をくいこませた。もうそれしか方法が残っていないのだ。今度はあきらめるわけにはいかない。
 長い時間格闘した。三分か、五分か。もうだめだと思ったその時、確かな手応えがあった。わずかに、ほんのわずかにこちらに出てきた。
「うううっ」
 歯の間からうめき声をもらしながら、俺は引っ張り続けた。ついにそれは、すっぽりと抜けた。
「や、やった!」
 思わず口に出した。小さな四角い穴の向こうにサイコロが見える。今度は喜びのために心臓が早鐘を打ち始めた。
 ほじくり出すようにして、一つ上のサイコロを抜いた。やはり接着剤は使われていなかったのだ。次には左を。そして右を。
 穴が徐々に広がってくる。ついに均衡がくずれ、小さな物達は俺に向かって流れ始めた。角張ったのが大量に頭に降り注ぐと、さすがに痛かった。
 だが、すぐにそんなに甘いものではないことに気づき、愕然とした。くずれたのは、手前の層一枚分だけだ。俺は再び隙間に爪をくいこませ、同じ作業を始めた。額に浮かんだ汗が流れ落ちた。
「痛い!」
 慌てて右手の人差し指を目の前にもってくると、先の方の爪と肉がはがれたらしく、血がにじんでいた。しかし、やめるわけにはいかない。俺は左手で作業を続けた。
 ようやく、そのサイコロも抜けた。再び穴を広げる。
 二枚目の層が壊れた時、先ほどとは違う結果が現れた。見上げると、より多くのサイコロがくずれたようで、上端に一部斜めになった部分ができていた。
 長い時間をかけて、少しずつ壁をくずしていった。爪が折れたら、他の指と交代して続けた。サイコロが降ってくるたびに、疲労と反比例して喜びが増していった。
 ついに傾斜の下端に手が届いた。俺はものすごい勢いでかき落とし始めた。
 足が埋まってきた。俺は出来た傾斜をのぼりながら、さらにサイコロをくずしていった。すさまじい音をたてながら雪崩のように落ちていく。もうすぐだ。もうすぐ外に出られる。上がったら、ここがどんな場所なのか見てやろう。案外サイコロの生産工場か何かで、俺はその集積場に迷い込んだだけなのかもしれない。あるいはやはりこれは夢で、上がった途端にさめて、横で目覚し時計が鳴っているかもしれない。
 上辺に手が届いた。もしもすべり落ちて、底に逆戻りしたらと思うと、恐怖が一気に湧き出して俺は猛烈な勢いで上がった。
 やった、やったぞ。俺は意味不明がもたらす恐怖の世界から抜け出したのだ。四つんばいの格好で、まるで完走したマラソン選手のように荒い息をはく。
 が、しかし、顔を上げた途端その喜びは風船が割れるように消え去った。俺は呆然として立ち上がった。なんだこれは。こんなバカな。そんな言葉は浮かばなかった。頭が空白になった。
 どこを向いても、途方もない数のサイコロが地面を形作り、地平線が沈黙したまま丸く広がっていた。

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