小説家、横田氏は、とある研究所からの帰り道、同じ小説家仲間である田所氏にばったりと出くわした。
「よう、久しぶり」と声をかけられると、横田氏の顔にはにかんだような笑みが浮かんだ。小説家などという職業をしていると、二、三日くらい平気で誰とも口をきかずに過ごしたりする。1週間ぶりに友人と顔を合わせたりすると、やはりうれしいものだ。
「どうしたよ。背広なんか着て」
「ん? ああ、実はある所に取材に行っててね。その帰り道さ」
 田所氏はちょっと驚いたような顔をした。「へえ。お前も取材なんかするのか」
「そりゃそうさ。俺だって小説家の端くれだもん」
「で、どこに行ってきた」
 横田氏はちょっと上の方を見て、それから慌てて手を振った。
「だめだめ。そりゃあ企業秘密だよ。同業者に教えたりするもんか」
「……お前なあ、そういうとこ、直した方がいいぞ。まあいいや。それより、久しぶりの再開を祝して、乾杯といきますか」
 全く。暇人だなあ、と横田氏は思った。

       *       *       *

「小説のために取材までするやつの気が知れないね」
 田所氏はのけぞるようにして椅子にもたれかかり、右腕をだらりと垂らした。すでに顔は真っ赤になっている。
「だいたい、いきなりどこの馬の骨ともしれないやつがやって来て、“私は小説家です。取材をさせて下さい”なんて言われてみろ。びっくりするぜ」
「ちゃんとアポを取ったよ」
 田所氏は新たに運ばれてきた生ビールのジョッキをいっきに半分ほど空けた。
「あー。やっぱりおごりの酒はうまいな。あ、お姉さん。枝豆とから揚げ2つ」
 恰幅のいいおばさんは、愛想のいい笑顔を浮かべて注文を繰り返し、去っていった。調子のいいやつだ、と横田氏は思う。
「ところで、どう。最近」田所氏はよれよれの黄色のスポーツシャツの襟を正しながら聞いた。
「ああ、こう暑いんじゃ、頭が働かないよ。……なんだか頭がひどく、ぼうっとする」
「ああ、俺もだ。頭の中が空っぽになったような感じだ。でもあと二、三日すれば、涼しくなるってよ」
 横田氏はおもむろに、身をのりだして、ささやくように言った。「実はな。週刊SFから執筆の依頼が来てな」
「ほう」田所氏の眼が丸くなる。
「それが、多重人格の特集をやってて、それに関連した話を書いてくれって言うんだ」横田氏は背広を脱ぎ、横の空いた椅子の背にかけた。
 クリーニングしたての、真っ白なYシャツのボタンを、二つほど外す。
「いいなあ……いいなあ……俺も執筆の依頼、来ねえかなあ……」田所氏はちょっといじけてみせながら、豆腐を箸でくずした。「で?」
「タイトルだけは決まってるんだ。『入れ替わり』っていう題だ」
「多重人格だから入れ替わりか。安直だな」
「それがな……中身が全然なんだ。アイデアが浮かばないんだよ。自分の人格が別の人格と入れ替わってしまうだけっていうんじゃ、それこそ安直だからな。そこでちょっとひねろうと思ったんだが、まるでうまい手が思いつかないんだ」
「そういう時はだな、元のアイデアを一旦きれいさっぱり捨てちまうことだよ。そんで一週間くらい、小説のことなんか忘れて、ぷらっぷらするこった。もっといい案が天から降りてくるよ。『入れ替わり』なんてやめちまいな」
「そうもいかないよ。その場で、“じゃあ、『入れ替わり』っていう題で何か書きます”って、言っちゃったもん」
 田所氏はビールジョッキの取っ手を握ったまま、しばらく考え込んだ。しかしやはり、多重人格という言葉から思いつくのは、まるで違う人格がころころ入れ替わるというような話ばかりである。
「こんなのを考えたんだよ。小説の中の登場人物が、途中で入れ替わってしまうんだ。つまり、例えば二人の登場人物がいたとしてだな、その二人がちょうど俺達みたいに酒を酌み交わしていたとする。それがいつの間にか、よく分からないうちに入れ替わってしまうんだ。これなら多重人格の特集にも、似合うだろ?」
「ふうん。良さそうじゃない」
「ところがだな。やってみると難しいんだよ、これが。いい方法が全く思い浮かばない」
「何がそんなに難しいんだ」
「つまり、結末だよ。登場人物が入れ替わるのは構わない。……しかしそれに、どうやって合理的な解釈を与えるか、だよ」
「別に、結末に凝らなくてもいいんじゃないか? 何の解釈もないまま、不思議な余韻を残して終わる。それで十分な気がするけどなあ」
「いや、そういうのは好きじゃないんだ。結末で納得させたいんだ」
「夢落ちにしちまえば? “今までのは全部夢でした”って」
「それこそ安直だよ。夢落ちなんか嫌だ」
 おばちゃんがやって来て、枝豆と鳥のから揚げを置いていった。
「そうだなあ……、入れ替わることに対して合理的な解釈が必要なのか……、じゃあ、こういうのはどうだい? 主人公は人格を入れ替えてしまう研究所に行った帰り道なんだ」
 から揚げにソースをかける横田氏の手が、びくりとなった。
「で、でもそれじゃあ、頭から入れ替わってしまってるじゃないか。途中で入れ替わらなくちゃならないんだよ」
「そんなのはいくらでもごまかしようがあるさ。例えばだな、入れ替え装置にかけられた後、最初に会った人物と入れ替わってしまうとかさ」
「は、はは。おもしろい発想だな。でもそれじゃ研究所の博士と入れ替わってしまうぜ」
 あんまりびっくりしたので、思わずつまらない突っ込みを入れてしまった。
「だーかーら! それはそれでまたごまかす手を考えりゃいいじゃん」 
 横田氏は慌てた。あの研究所はやっとの思いで見つけた、横田氏しか知らない穴場である。田所氏も知っているとしたら大変だ。あっという間に小説のネタとして使われてしまうだろう。あんまり慌てたので箸からから揚げが滑り落ちてしまった。黄色いシャツの上にソースの黒いしみがついたのを、急いでふきとる。
「でも……、そんなのはあまりにも荒唐無稽だよ。あまり使いたくないなあ」
「ま、そっか。人格を入れ替える研究所なんてなあ。よっぽど未来の話にしたところで、ありそうもないよなあ」
 少し、ほっとする。しかし油断はできないぞ、と横田氏は思う。
「君は、ブーンという男の話を知ってるか?」田所氏は唐突に言った。
「さあ」
「1887年の3月、アメリカのペンシルバニア州に住む、ブラウンという男は、ある朝目覚めると、ブーンという別の男になっていた。つまり……、体がブラウン氏で頭がブーン氏になっていたんだ」
「他人の体の中に入りこんでしまったわけだな?」
「そう。ブーン氏にとってはその日は1月のはずだった。しかもブーン氏が住んでいたのはロード・アイランド州の、五百キロ近く離れた場所だったんだ」
「ブラウン氏はどうなったんだ? ブーンの体に入りこんだのか?」
「いや、そうじゃない。三年後、ハーバード大学の教授が、ブラウン氏に、つまりブーン氏に……ややこしいな……催眠術をかけてみたんだ。そうするとちゃんとブラウン氏の中にブラウン氏の意識が残っていたんだ」
「それこそ多重人格だな」
「ところが催眠療法を進めるうちに、ブラウン氏の意識は消えてしまった。……どうだ、参考になるだろ」
「でもなあ。そういう神秘的な話じゃなくて、SFにしたいんだよ」
 でも、まあ、ネタとして使わせてもらおうかな、と横田氏は思った。

       *       *       *

 だいぶ酔っ払った二人は、足をもつれさせながら、家路についた。何だかよく分からない戯言を口々にわめきちらしながら、ふらふらと歩いていくうちに、やっと何かがおかしいことに気がついた。何か、ちぐはぐな感じだ。しかしその“何か”が何なのかを考えようとすると、頭の中に靄がかかってしまう。結局何がおかしいのか、さっぱり分からなかった。
 頭がぼうっとする感じは、まだ続いていた。田所氏は酒の酔いのせいだろうと思っていたが、横田氏はこう思っていた。
「ひょっとすると、研究所の“装置”のせいかな」と。
 確かに横田氏は、おもしろ半分に装置にかけてもらったのだった。ブオーンという音がして、それで……それだけだった。第一入れ替わる相手がいなかった。
「一体何が起こったんです?」と聞いても、博士は謎のような笑みを浮かべるだけだった。

 多くの読者は、途中で気づかれたことと思う。横田氏と田所氏は、未だ気づかないまま、家に帰りつき、それぞれの眠りについた。きっと明日の朝、ぼうっとした感じがとれて、すっかり頭がしゃきっとしたら、びっくりするだろう。

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