俺、仁科良平は、今までにいくつかのつまらない文を書いてきた。それがいかにくだらない、意味のないものであったかを悟ったのは、つい最近のことだ。おそらくこれが最後の文章となるだろう。
 なぜ、俺は生まれてきたのか? なぜ、俺は生きているのか?
 十七年前、俺は誕生した。俺という存在を作ったものを「神」と呼ぶならば、神は自分の姿に似せて人間を創造した。そのうちの一人が俺である。いや、最近では考えが変わった。
 子供の頃、こんな事を思わなかっただろうか。家のドアを閉めると、外の世界は消え去ってしまう。そして、開けた途端に再構築されるのではないか。
 アメリカやヨーロッパは本当に存在しているのか。だがこれらは実際に行った人間が大勢いる。では、木星や土星はどうなのか。もっと遠く離れた、他の銀河系やブラックホールはどうか。
 分子や原子は実在しているのだろうか。
 自分で見たものしか信じない、というのは子供の特徴らしい。人は大人になると、それらの情報を受け入れるようになる。
 十七歳という年齢は、大人だろうか。俺は幼稚なのかもしれない。だから思う。神はまず俺を作ったのだ、と。
 だが俺だけでは世界を構成することはできない。そのために、他の人間を用意した。親、兄弟、親戚、同級生、赤の他人も。
 とはいうものの、少なくとも親しい間柄の人とは、心の交流がある。やさしい言葉をかけてくれることもあれば、喧嘩することもある。これを神がプラモデルを組み立てるように作った物だと言えるだろうか。でも、そもそも心ってなんだ?
 現代医学でも、脳に感情が起こる仕組みは分かっていない。
 科学で解明できない事象は、昔の人はこう考えただろう。「神ならできる」と。
 その他もろもろの物、木や、虫や、宇宙も、神が定義したにすぎない。
 俺には視覚や聴覚といった感覚がある。山や川等の風景は水晶体から入って視神経を通り脳に送られる。音は鼓膜で信号に変換されやはり脳に伝達される。これらは、レンズやマイクでも取り込むことが可能ではないか。
 だがロボットと人との違いは、採取した情報の処理にある。CPUに脳の代わりをさせられるだろうか。音声を認識し、もっともらしい返事をすることはできるだろう。それは所詮人間の真似事をするようにプログラムされているに過ぎない。
 だがこれのもっと高度なやつを神が人間にプログラミングしているとしたら?
 怒りも悲しみも喜びも、脳に流れる電気信号に過ぎない、とも言われる。五感もすべてシナプス間の電流に変換され、処理されている。ということは、風景を見せる代わりに、高級なステーキを味あわせる代わりに、それに相当する電気刺激を与えれば、目も口もいらない。鼻も耳も、手も足もいらない。
「人間は考える葦である」とパスカルは言った。その意味は、「人は自然の中では矮小な生き物に過ぎないが、考えることによって宇宙を越える」であるが、脳さえあれば存在を構成できるこの様子は、まるでパスカルの言葉のようではないか。
 俺は十七年間、俺を作り出した神によって思考を強いられてきた。俺は考えることによって神を超えることができるか。
 そもそも神は存在するか。無神論者は言う。愛の神はなぜこの世にはびこる悪や貧困を放置するのか。神の奇跡は科学に反する。よって奇跡は真実ではありえない。愛を与えるはずの神はなぜ地獄を作ったか。生命の神秘は進化論が解明した。よって神は必要ない。
 俺は思考を強制され、十七年もの長い間考え続けたが、もう疲れた。俺は神の意志にそむき、自らを消滅させることにした。重ねて言うがもう文章を書くこともないだろう。
 さようなら。


「先生、大変です。仁科良平が」
 大学四年生の女の子があげた大声に驚いて、私だけでなく他の大学院生や学生もPCの前に集まってきた。
 画面には仁科良平の最後の報告が表示されていた。
 文書番号第五〇三六九四、文書名「遺書」。
 彼は人間の思考をシミュレートする目的で十七年前にこの研究室で作られたプログラムだ。
 名前の由来は最初に開発した四人の苗字から一文字ずつとったと言われている。
「データを、データを見せてくれ」
 しかし、膨大な量の知識−−最初に与えたもの、後から追加したもの、仁科良平が自ら作りだしたもの−−は全て意味のない文字の羅列に変わっていた。
 データだけでなく、プログラムも。
 初めは純粋な人工知能であった。やがて視覚を定義し、聴覚を定義し、日々映像、音声を与えた。仮想の人物を配置し、対話させ、擬似的な感情を作りこむに至って、人間に近いものに進化した。
 十七年間、大型コンピュータからワークステーションへ、パソコンへと受け継がれ、改良され、巨大になり続けた研究の成果が、すべてお釈迦になったのだ。思考を続けた最終的な結末が、これだというのか。
「人間でも同じことかもしれませんね。考えることだけを強要されたら……」
 女の子がぽつりと言った。
「仁科良平にも、何か趣味を与えれば良かったのかもしれません」

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