トーストを食べながら、私は新聞を読んでいた。その間から一枚のチラシがはらりと落ちた。
 白黒の粗い写真を見た時、私は仰天した。揚台という、名の知られていない中国の陶芸家が作った大昔の壷だ。マニアでなければその値打ちは分からない。百万出してもいいくらいのものが、たったの十万とは!
 まだ売れていないだろうか。ぜひ手に入れたい。
 古物商、別府ゼブルという名前をみつけた時、どこかで聞いたことがあるな、と思った。私はパンを皿に置いたまま、広告に見入った。
 二十数年前、客の手にやけどをおわせたために引退した手品師だ。売れっ子ではなかったが、その事件だけは覚えている。同一人物なのだろうか。
 明日は土曜日だ。行ってみなくてはなるまい、と思い、私は朝食をほったらかしにして立ち上がった。
 ネクタイをしめる手に自然と力が入る。帰りに銀行に寄るのを忘れないようにしなければ。今日は学生達に、無名の芸術家の話でもしてやろうか。私の心は踊っていた。


 電車を乗り換えるたびに、風景は田舎になっていった。チラシに載っていた場所は、高木に囲まれた豪邸だった。華やかな舞台から追放され、今は古物を取り扱い、細々と暮らしている元マジシャンがいるのだから、雑居ビルの狭いオフィスであるとか、そういう所を想像していただけに、意外だった。
 自宅で商売をするとはどういうことだろうか。売るというより、自分が持っている珍しい物を、安価でゆずってやるから取りに来てくれ、といった気持ちだろうか。
「あのう、広告を見てきたのですが。揚台の壷をぜひゆずって頂きたくて」
「いやあ、よくいらっしゃった」
 にこやかに応対する別府ゼブルは、背の高い、がっしりとした体格の男だった。白髪をオールバックにし、これもまた白い口ひげとあごひげをたくわえている。風貌こそ変わっているが、二十年前テレビで見た手品師と同一人物であった。
「婆や、揚台の壷を持ってきてくれ。一番奥の右端にある、青いやつだ。あ、それから」私の方に向き直る。「昼食はお済みになりましたか?」
「いえ、まだ」
「少し早いが、お昼にするから、それも持って来てくれ」
 控えていた老女が、一礼して出ていった。
「そんなにしていただかなくても。ただ壷を買いに来ただけなのに」
「いいんですよ。こんな田舎に引っ込んでいると、寂しくてね。店を構えているわけでもないから、客なんてめったに来ません。あなたは大事なお客様ですよ」
 そう言って、彼は声をたてて笑った。
「あの、昔手品師をやっていた、別府ゼブルさんではありませんか?」
「ああ、覚えてくれている人がいたとは。有り難いことです。しかし」彼は急にまじめな表情になり、私の顔をのぞきこむようにした。「手品師ではありません。魔術師です」
「こ、これは失礼しました」
 思い出した。別府はよく、自分のは手品ではなく、魔法だと言っていた。しかしそれほど大げさなものではなく、素人でもトリックを見破れそうな、安っぽいマジックだったような気がする。だいぶ前の事だし、有名でもなかったので、よく覚えていない。
「おや? あなた、腕時計はどうされました?」
「え?」
 見ると、はめていたはずの時計がない。
「あそこですよ」
 指差す先、本棚の上から二段目にそれはあった。
「いやすみません」彼は微笑みながら立ち上がり、その安物を私に返した。
「ポケットから出したのなら、手品です。しかし、あなたの目を盗んであんな所に置くことなど、不可能ですよ。ではこれはどうです?」
 いつの間にかテーブルの上にワイングラスが二つ、出現していた。深い赤色の酒が満たされている。
「私には生まれつき、不思議な魔力があるのですよ。トリックなどありません。世間は信じてくれませんでしたけどね」
 別府ゼブルという名は地獄の最高君主、ベルゼブルに似ている。ヘブライ語で「高い館の王」という意味だ。偉大なるソロモン王を連想させるために、後にベルゼブブ――「蝿の王」に置き換えられてしまう。
 そんな悪魔をきどっているのだろうか。


 運ばれてきたのは、ステーキだった。まだ昼間だし、あまり強い方でもないので、酒は遠慮した。テーブルの端に空色の壷が置かれている。
「見事なものですなあ」
「中国を旅していた時に見つけたものです。こんな掘り出し物がその辺の露店に、ひょい、と飾られていたのですから、びっくりしましたよ」
「ああ、いえ、さっきのやつですよ。ちょっと視線をそらせて、元に戻すと、もうワインが並んでいる。どうやったのかさっぱり分かりません」
 この二十年の間に、相当腕を上げたようだ。きっと、舞台へのあこがれが根強く残っているに違いない。
「どうしても手品だと思われてしまうのですね。まあ無理もありません。常人には理解できないでしょう」
 別府はフォークを一振りした。折れ曲がっていた。
「いやはや、参りました。それだけの手さばきができるようになるまでには、何年もかかったでしょう?」
 彼の笑顔が、一瞬凍りついたような気がした。
「私がなぜ引退したか、ご存知ですか」
「ええ、確か……」
「客の一人がいちゃもんをつけたんですよ。そんなのは魔術ではない。そのトリックは、こうで、こうで、こうだと」別府は遠い昔を思い出すような目つきをした。「強情な奴でね。素人でもできる手品だと言って、一歩も引かないんですよ。つい、カッとなってしまいましてね」
 まさか、たかがそれだけの事で?
「そいつを舞台に上げて、こう、手を握りましてね。力が入り過ぎて、やけどをおわせてしまったんです。いえ、ごく軽いものですよ。ところがマスコミが騒ぎ立てましてね」
「でも、水酸化ナトリウムを使うなんて危険ですよね。倫理に反します」
「そんな薬品を使ったのではない。魔術なのだ!」
 別府がいきなりテーブルを叩いたので、びっくりした。
 彼は私を見つめた。口元は笑っているが、目の奥にどす黒くまがまがしいものを感じ、背筋が冷たくなった。
「大学の先生はおかしなことを言う。しかしあなたの専門は薬学でも化学でもない。考古学のはずでは?」
 どうしてそんな事が分かるのだ。
「たしか、テレビでそう言っていたのだったか、雑誌で読んだのだったか」
「素人がよく知りもしないことを言うべきではない」
 少し腹が立った。なぜ手品ではいけないのだ。
「私だって学者のはしくれです。魔術などという非科学的なものを信用できません。私が大学の教授だと分かったのも、何か特有の動作をしたとか、しゃべり方をしたとか……」
「あなたは、カノプスの壷をご存知ですか?」
 いきなり変な事を言う。
「ええ、古代エジプトでミイラを作る時に使われたものです。遺体の肺臓、肝臓、胃、小腸をおさめるための、ふたが動物の形をした四つの壷です」
「さすが考古学者だ。その四つの壷が、ほら、そこに」
 別府は鳥が翼を広げ、はばたくように両腕を動かした。ゆっくりと、ゆっくりと。
 一瞬、めまいがした。風景が揺れた。と、いつの間にか本でしか見たことがないカノプスの壷が、テーブルの上に現れていた。
「偉大なる西の王よ、私の肋骨の細胞四つを捧げるかわりに、この者が今申した内臓を壷に移したまえ」別府は奇妙な呪文を唱えた。
 まるで夢の中にいるようだった。風景が古い写真のように見えた。
「肺と、肝臓と、胃と小腸でしたかな? 今あなたのを移しました」
「バカな。そんなことがあるはずがない」
「一週間も我慢できないでしょう。あなたは再びここを訪れますよ」
 口中に残る肉の味が、すっかり消え去っていた。


 揚台の壷は、結局買わずに帰ってきた。その後がひどかった。食欲はあるのだが、腹が満たされない。どんな料理も、あまりうまいと感じない。というより、味がよく分からない。なんだか砂をかんでいるようだった。呼吸はできるが、胸が苦しく感じる。感じるだけで、実際に苦しいわけではない。例えて言えば、夏から秋への変わり目だ。気温は下がりつつあるのに、暑いと思う。むしろ、生ぬるい。寒くもないし、かと言ってちょうどいい温度というわけでもない。どういう状態だと、はっきり決められない。実にもどかしい。
 本当に内臓がなくなってしまったのだろうか。もしそうなら生きてはいない。それとも、食道から先が壷の中の胃につながり、小腸から体内の大腸に通じているのか。
 三日たち、体重計に乗ると、六キロ減っていた。こんなバカな事があるか。
 別府は術をかけたのだ。だが魔法などではない。五日目、ついに私はたまりかねて、休講にしてもらい、再び彼を訪れた。
「お願いです。催眠を解いて下さい」
「私が言った通りになりましたね。しかし、なぜ催眠術だとお思いで?」
 別府の目がぎらりと光った。
「他に考えようがありますか。いきなり壷が現れたのも、私の体調がおかしくなったのも、それで説明がつきます」
「悲しいことですなあ。しかし壷は西の王に預けていますし、あなたの内臓はその中ですよ」
 彼は眉を下げたものの、口元には嫌な笑みが浮かんでいた。
「ええ、ええ、あなたのが魔術だということは認めますから、早く元に戻して下さい」
 別府は少し考え込んでいたが、立ち上がり、「いいですよ」と言った。
 両の手の平を私にかざし、気を送るように動かす。
「偉大なる西の王よ、私の髪の毛一本と引き換えに、預けた内臓を戻したまえ」
 腕をおろし、微笑む。
「これでもう大丈夫です。いや、大人気ないことをしました」
 ――だが、その後も胃腸は治らなかった。呼吸の不快感はなくなったものの、食べても食べても、満たされない。腹の中に真っ黒な穴が開いて、料理が異空間へ放り出されてしまっているような、そんな感じだ。空腹感はないが、少しずつ痩せていった。なぜなのか。別府は内臓を返してくれたはずなのに。いやいや、催眠を解いてくれたはずなのに。
 それとも、彼とは関係なく、私は病気ではないのか? もはやそうとしか考えられない。これは大変だ。明日にでも病院に行かなくては。そんなふうに思っていたら、突然別府が来訪したので驚いた。
 とりあえず上がってもらい、妻にチーズと赤ワインを用意するように言った。
「ああ、お気使いなく。すぐに退散しますから」
「あのう、どうして家が分かったのですか」
 彼はそれには答えなかった。
「今日伺ったのは他でもありません。大変なミスをしてしまいまして」
「カノプスの壷のことですか?」
「そうです、そうです。いやあ、失礼。胃を戻すのを忘れていました」
 と言って別府はまた、意味のよく分からない呪文を唱えた。
「偉大なる西の王よ、私の脳細胞一つと引き換えに、この者に胃を返したまえ」
 途端に私の腹は張り、彼と初めて会った時に食べたステーキの味が舌によみがえり、唾液さえ口中にあふれてくるのだった。
「じゃ、私はこれで」
 薄笑いを浮かべ出て行く彼を、私は呆然と見送った。

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