神の視点

 絶対零度の闇の中に、巨大な火の玉が激しく輝いている。それは誕生の苦しみにもがくかのように、炎の尾をいくつも噴き上げていた。計り知れない高温と高圧にさいなまれ、火球は震えていた。ついに耐えきれず、爆発した。今、時間が流れ始めた。
 温度は下がり、内に包んだ細かい粒達は互いに結合して大きな粒となり、それらがつながってさらに大きな粒子になっていき、物質を形作る素となった。
 火の玉であったものは急速に大きくなり、密度が小さくなり、荒れ狂う原子達は次第に穏やかになっていった。熱いガスは所々に集まり始めた。渦巻く流体の中で、さらに粒子達は何千、何万という塊に分かれた。
 密度が疎になっている部分は、真空へと近づいていった。膨大な数の銀河達の一つ、その端の方に、小さな恒星が生まれた。星の周りにさらに小さな子供がいくつも生まれ、内側から三番目の惑星は、水をたたえた美しい星に変貌をとげた。
 海の中に息づく者が誕生し、大きくなり、姿も様々になり、やがて海上の世界にあこがれる者が、陸へ上がった。
 彼らは子孫を残し、その度に種類が増えた。時間がたち、巨大な動物が支配したが、すぐに氷河期が来て絶滅した。残ったのは、小さな生き物だった。その中に、二本足で歩く者がいた。彼らは道具を使うことを覚え、岩をうがったり、土を掘り返したり、石で他の生物を殺したりし始めた。
 人間と呼ばれるその生物が支配する時代が来た。地上をいろいろな建物で埋め、土地が足りなくなると森を切り崩し、機械で走り回り、飛び回り、地球から出ていくことさえ覚えた。時には集団で争い、殺し合った彼らが、ついに巨大な火球を生み出す道具で、地上を焼き始めた。母なる星を傷つけ、彼らは全滅した。宇宙へ逃げた者も、他のどの星にも適応できず、次第に絶えていった。
 宇宙は、そんな微生物のことなど知らぬというように、平然と膨張を続けていたが、やがて最初の爆発による力よりも、内の物質同士が引き合う力の方が大きくなり、収縮していった。
 長い時間をかけて、火の玉に戻り、再び爆発した。そして星を生み、生命を生み、外側への力が弱くなるとまた縮んだ。
 時間の流れの中で、少しも変わることなく繰り返される営み。それは、永遠に続くかのようだったが、そうではなかった。


  紀元前

 肩を揺すられているのに気づいて、ワツは目を覚ました。徐々にはっきりしてくる視界に、子供達の笑顔が見えた。
「おじいちゃん、またあのお話を聞かせてよ」
 隣りの穴に住んでいる、一番やんちゃな男の子が、期待に胸を膨らませたような顔をして言った。
「ああ、人食い魚の話かい? それとも穴があいた太陽の話かい?」ワツはまだ半分眠ったまま答えた。
「逆さ人(びと)!」
 男の子が言うと、周りの子も口々に叫び始めた。
「逆さ人! 逆さ人!」
 老人は床に右の手の平を押しつけ、上半身を起こした。穴の入り口から赤い日の光が射し込んでいる。もう夕方か、と彼は思った。ちょっとだけ昼寝をするつもりだったのに、ずいぶんと眠ってしまった。
 ワツは毛むくじゃらの腕をさすりながら、頭をふった。最近寝る時間が長くなったような気がする。子供達に起こされなかったら、永遠の眠りの世界に入っていたかもしれない、と考えると、彼は少し怖くなった。
「またあの話をするのかい? もう何べんしゃべったか、分かりゃしない」彼はゆっくりと立ち上がった。「困ったもんだ」
 全身毛むくじゃらの子供達が飛び跳ねて喜ぶのを、ワツは微笑ましく思った。妻は先に逝き、息子夫婦は象にふみ殺された。しかしこの子達がいる限り、まだ生きていける。
 ほら穴の外に出ると、大きな夕日が大地を赤く染め、彼は強い光に思わず目を細めた。幼児達が背をかがめて丘の方へ駆けていくのを、老人もまた背を丸めて追いかけた。
「おいおい、そんなに急ぐもんじゃない」
 草の中の小道を、子供達の笑い、はしゃぐ声を聞きながら登っていくと、木も草もない平らな土地に出た。
「逆さ人!」
 隣りの子が指差す先に、毎日のように見続けてきた石像があった。
「早く! 早く!」
 急き立てられて、彼は像に近づいていった。
 一見、人間にも見えるが、彼らの姿とはかけ離れている。毛は頭にしかなく、顔は突き出していない。下半身だけでなく、上半身まで見たこともない衣に包まれ、しかも下半身は、足首の方まで覆われている。体型は、彼らよりもだいぶ細い。それが、ワツの胸ぐらいの高さに、逆さになって浮いているのだ。石像とは言っても灰色ではなく、肌が露出した部分は白に近いピンクで、衣の部分はほとんど白だが少しだけ灰色がかっている。非常に固く、叩いても、やりで突いてもびくともしない。
 何か恐ろしいものでも見たかのように目と口を大きく開き、両腕を水平に伸ばしている。首をのけぞらせ、しっかりと地面を見つめている。
「おじいちゃん、お話を聞かせて」
 女の子がせがむ。まだこの子には聞かせたことがなかったなと、彼は思った。
「昔、この土地はクア・クアという精霊に支配されていたんだ」
「クア・クアって何?」女の子は人差し指を口にくわえて言った。
「クア・クアは、クア・クアだよ。まあ、超自然の生き物と言ったらいいのかな。お嬢ちゃんには難しいかな」
 小さな瞳が彼を見つめている。
「この男は狩りをしていたが、森の中に迷い込んでしまったんだ。日が暮れてどんどん辺りは闇に包まれていった。男は途方にくれて、森で一晩すごすことにしたんだ」
 彼らの周囲もだいぶ暗くなってきた。
「朝になって目が覚めると、近くで水の流れる音が聞こえた。彼が音を頼りに奥に進んでいくと、小さな泉があった。男がのどをうるおすために水をすくおうとすると、どこからともなく声が聞こえた。『ここは私の土地です。早くお帰りなさい』とね。彼は、それがクア・クアの声だと分かったが、こう言った。『何を言う。ここは俺達の土地だ。だから俺がどこに行こうと勝手だ』」
「いけない人だなあ」と男の子が言った。
「彼はクア・クアの水を飲み、しばらく休憩した。もう声は聞こえなかった。森の中をずいぶん歩いて、太陽が真上に来る頃になって、ようやく出られた。すると、彼の目の前に象がいたんだ。しかしその腹の中でクア・クアが休んでいることを、彼は知らなかった。男は象を殺してしまうんだ。その罰を受けて、彼は永遠に逆さ人となって浮かぶことになったのさ」
「この人はずっと昔からここに浮かんでいるの?」と女の子が言った。
「おじいちゃんが若い頃、像はもっと低い位置にあったんだ。このくらいかな」彼はかがみこみ、子供の膝くらいの高さに手を掲げた。「子供の時は、さらに低い高さに浮いていたんだ」
「その前は? 頭が地についていたの?」
「そうだな、もっと小さい時は」
 ワツは思い出そうとしたが、できなかった。昔の記憶がなくなってきていることに対して、どうしようもない老いを感じる。
「もっと小さい時は……どうだったかな」


  空の人

 潜水服に身を包んだ男が、魚の群れとたわむれている。彼の撒き餌を頂戴しようと寄ってくる。彼は、こうしている時が一番楽しかった。
 魚達がいっせいに向きを変える。水中に射し込む日の光を受けて、黄色がきらりと光る。まるで踊っているかのようだ、と彼は思った。海は神秘の楽園だ。実際には、ここも陸上と変わりなく弱肉強食の世界であることを知っているが、彼は努めてそういう嫌な側面を考えないようにしていた。
 群れの向こうに、男がよく知っている動物が泳いでくる姿が見えた。愛嬌のある顔、賢い頭を持つ者。彼は水の抵抗に逆らって手を振った。まるで旧知の友ででもあるかのように。
 イルカがダンスしながら周りを回るのを、彼は楽しげに見つめた。いつまでもこうしていたい。しかし酸素がそろそろ無くなるので、残念ながらもう上がらなければならなかった。彼は、お別れの挨拶として投げキッスをすると、水面へと向かった。
 水飛沫をあげて空気中へ顔を出すと、がっしりとしていて浅黒い、少ない白髪を毛羽立たせた老人が、筋骨隆々の腕を差し出した。彼は友人の手をつかむと、転がるようにして小船に上がった。
「おっと、こいつはいけねえ。酸素が底をついてるじゃねえか」ずいぶんと年上の友は、彼の背からはずしたボンベを調べながら野太い声を出した。「孫の顔を見せないうちに先だったら、かあちゃんが悲しむぜ」
「まだ余ってたさ。呼吸は楽にできた」彼は潜水服を脱ぎながら答えた。
「どうする、ジャック。帰って飯でも食うか」
「いや、もう少し西に行ってみたい。珊瑚のきれいな場所があるんだ」
 少しも年齢を感じさせない大男は、日に焼けた手を額にあてて、真っ青な空を見上げた。
「あーあ。まだ付き合うのかい。暑くてたまらん。日射病になっちまうぜ」
 そのままずっと首をそらせているので、彼は不審に思って声をかけた。
「どうした。嵐でも来そうか」
「見てみろよ。ありゃあ、何だ」
 またUFOが出たなどと言い出すんじゃないだろうな、と思いながら、彼は太陽がまばゆく輝く大空を見上げた。そんなものがいたためしがない。
 水色を背景にして、灰色のしみのようなものが見えた。
「鳥じゃないのか」と彼は言った。
「バカ言え。じっとしてる鳥なんかいるかよ」
 彼は目をこらした。よく見ると、逆さにした十字架のような形をしている。
「双眼鏡があっただろう」
 大男がどたどたと走っていき、戻ってくると、彼はその手から双眼鏡をひったくった。
 拡大された風景の中に、その物体の姿をとらえた。彼は「あっ」と声をあげた。
「どうしたんだ、ジャック」
「人間だ。人間が頭を下にして浮かんでいる」
「そんなバカな。そんなことありっこねえよ」
 全体に灰色がかっている。スーツを着ているようだ。生きている人というよりも、石像のようだった。顔は服より薄いグレーだが、細かくは見えない。両腕を広げ、空中に静止している。
「俺、カメラをとってくる」大男が怒鳴るように言った。
「ああ、頼む。急いでくれ」
 だが、視野の中で、像は点滅するように現れては消えを繰り返し始めた。すぐに見えなくなってしまった。
 彼は双眼鏡を目から離した。
「消えた」とつぶやくのが精一杯だった。


  フォーチュン・シティ

 タクシーを降りた途端、腐ったような路地の臭いが容赦なく鼻腔に侵入してきて、奥田大智(おくだ だいち)は顔をしかめた。今にもくずれそうなバラックが道の両脇を埋めている。フォーチュン・シティ(幸運都市)とはひねくれた名前をつけたもんだ、と、彼は心の中で毒づきながら、不快な臭いを鼻に送りこんでくるアスファルトに唾を吐いた。どう考えても、貧乏人が他に行き場がなくて仕方なく住んでいるような場所だ。行き交う人々はみな汚らしい格好をしている。
「さて、どうしたもんかな」と彼はつぶやきながら、辺りを見まわした。
 向こうから太った小男が歩いてくるのが目に入った。彼は慌ててポケットから写真を引っ張り出しながら、重いスーツケースを持ち上げ、駆け寄った。
「エクスキューズミー」
 男は驚いたような、怒ったような変な顔をして立ち止まった。
「この女を知らないか(Do you know this woman?)」と彼は英語で聞いた。
 中国のアクション映画に出てくる三枚目役を思わせるその男は、彼の手元を見つめ、そして丸い顔を上げた。
「ああ、知ってるよ。だけど知らないな。(Yes. I know. But I don’t know.)」
 奥田は舌打ちして、財布を取り出すと男に札を一枚渡した。
「この通りをまっすぐ行って、二番目の信号を右に曲がって、少し行くと左に細い道があるから、そこに入って五分ぐらい歩くとミルフィーユっていう店がある。彼女は気まぐれだから、開いてる時もあれば、閉まってる時もある」
 彼は礼を言って、男が教えた方向に歩き出した。
 信号を曲がると、人が一気に増えた。肌の白いの、茶色いの、いろんな人間がいて、人種のるつぼだ。東洋人が多いが、日本人はいないだろう。
 本当にこんな所にタイム・ボートがあるのかと、彼は心の中でいぶかった。正規のボートは、大きめの研究機関に行けばある。しかしそんな所は奥田には無縁だ。だが、闇で貸し出している業者はいる。それが今から彼が会おうとしている女、ミス・ジェニーだ。
 教わった場所に近づくと、鉄の板に「MILLEFEUILLE」とペンキで書きなぐった看板が見えた。それをミルフィーユと読むのかどうか奥田は知らなかったが、他にそれらしい店がないのでたぶんそこなのだろうと思った。名前から連想されるようなかわいらしいケーキ屋や、カフェではなく、薄汚れた家屋だった。
 扉にあまり清潔とは言えないガラス窓がはめこまれていて、中は暗く、わずかに射し込む日の光で、陳列されているガラスの瓶が見える。瓶には漢方薬の材料になりそうなひからびた植物が入っている。
「すみません、誰かいませんか」
 扉を開けようとするが、鍵がかかっているらしくびくともしない。
「あの、すみません」
「奥田さんね」
 突然聞こえた声に驚いて振り返る。そこに妖しい赤色のチャイナドレスに身を包んだ、背の高い白人女性が立っていた。
「予約を頂いたお客さんね」
「ミス・ジェニー?」
「お待たせしちゃったかしら。外出していたものだから」
 長い金髪が日光を受けて光る。
「いや、今来たところだ」奥田はサングラスのつるをつまんで引き上げた。


  タイム・ボート

「どこに行くの?」
「西暦二〇〇〇年の東京だ。日本の」
 店の奥に、地下に通じる長い階段があった。女の後について降りていく時、冥府に下るみたいだな、と彼は感じた。彼女は美しいが、冷たい目をしている。こんな商売をしているくらいだから、あまり幸福な人生ではないのだろうなと思ったが、もちろん口には出さなかった。
「不景気でみんなあえいでいた頃ね」
「おや、日本の歴史に詳しいのかい?」
 一九九九年、二〇〇〇年、二〇〇一年の三年間はまったく期待はずれの年だった、と奥田が調べた資料には書かれていた。ノストラダムスの大予言はたいした騒ぎもなくあっさりと外れ、二〇〇〇年は、単に数字の区切りがいいというそれだけの年で、もっとバカ騒ぎをしてもよさそうなのに、やたらといろいろな物の名前の後ろに「二〇〇〇」という言葉がつけられたのがこの年に対するささやかなお祝いで、むしろ大不況のまっただ中であった。二十一世紀の最初の年も同じようなもので、科学が飛躍的に発達したとか、政治が変わったという事もなく、新しい世紀の始まりはまるで貧粗なものであった。
「そうじゃないけど、みんなあそこに行きたがるのよね。なぜかしら」
「とぼけなさんな。ある賞金首があの時代へ逃げ込んだ。大物だ。捕まえて政府に渡せば、一生遊んで暮らせる」
「あなたも逃亡者狩り? 嫌ね」
 奥田は答えなかった。日本では高い検挙率を誇る警察機構は、時間警察においても同じで、彼の出る幕はなかった。他の国では時間犯罪者に堂々と賞金をかける所がいくつもあった。
 未来はまだいいとしても、過去を変えることは重罪である。世界全体が、本来進むはずだった歴史とは別の流れの中へ入ってしまう。大量殺人よりも罪が重い。今自分が暮らしているのが、正しい歴史の中なのか、それとも誰か犯罪者が変えてしまった世界なのか、奥田には分からなかった。
 逃亡者狩りと時間犯罪者は区別がつかない。逃亡者狩りが、過去を変えてしまうことだってあり得る。本来正式に認められた者でなければ過去にも未来にも行くことができないのだ。そんな犯罪者同然の扱いを受けながらもこの商売に魅了されるのは、いっきに大金をつかむ事ができるからだ。
 とはいうものの、こつこつ金をかせぐ事をいやがるような人間だから、せっかく大金をかせいでもあっという間に使ってしまう。
 階段を降りると、赤錆びた鉄製の観音開きの扉があって、女が開けた途端まばゆい光が広がった。
「いつ見ても驚かされるぜ」と奥田は言った。
「何が?」
「あんたら業者のことさ。見た目はこぢんまりとしているのに、地下にこんなでかい港をもってやがる」
 彼は広々とした、強いライトに照らされた空間に踏み込んだ。
 港といっても、水はない。むしろ地下鉄の駅のようだ。鋼鉄の頑丈なトンネルが横の方にのびている。
 正面にクルーザー型のタイム・ボートがあって、一人の男がその上で立ち働いている。
「景徳、お客さんよ」
 男がこちらを向いた。中国人か、朝鮮人か、いずれにせよ女よりもフォーチュン・シティの市民としては似合っている。
「整備は済みました。いつでも出発できますよ」と彼は少し発音のおかしい日本語で言った。
「彼が案内するわ。チップをはずんでやってね」
「おいおい、運転は自分でできるぜ」と奥田は顔をしかめて言った。
「見張り役よ。あなたが過去を変えないようにね」
「ずっとついてるのか。冗談だろう。やりにくくてしょうがないぜ」
「取締りが厳しくなったのよ。彼はあの時代の東京に詳しいから、役に立つわよ」
 彼はおおげさに両腕を広げてみせた。
 スーツケースを持ち上げ、ボートに歩いていく彼に、女が後ろから声をかける。
「ねえ、前金でちょうだいよ」
「バカな。ボートが事故ったら、おじゃんだろう」
 景徳がのばす手につかまって、彼はボートに上がった。
「奥田だ。よろしくな」と彼は日本語で挨拶した。
 オイル臭い男の後について、キャビン内へ入る。中を見て彼は驚いた。椅子が二つあって、窓を取り囲むようにして様々な計器や、スイッチや、レバーが並んでいる。外見は船だが、内側は飛行機のコックピットのようだ。
「すげえな。こんな高級な設備、見たことねえ」
 こりゃ自分で運転するのは無理だな、と彼は心の中で舌打ちした。
「ええ、最新のマシンですから。正確に希望の日時に行くことができます。一時間の誤差もありません」景徳は誇らしげに言った。
 彼がすわったので、奥田も隣の席に腰掛けた。
「結構。じゃ、すぐに出発しよう」
 景徳がスイッチの一つを押すと計器のあちこちが光り始めた。
「東京の、いつに行きますか?」
 船室内が轟音で満たされ始めた。
「二〇〇〇年の九月三日だ。時間はお昼にしてくれ」
 景徳がキーボードを打ち、レバーを引く。途端に轟音は爆音に変わった。
 トンネルが奥に向かって異様な長さにのびたかと思うと、今度は急激に収縮した。風景の全てが中心の一点に集まり、爆発した。目を開いていられないほどの光が襲い、すぐさま真っ暗になった。もはやボートの中ではなく、奥田は何もない空間に放り出されていた。
 奥の方からレーザー光線が幾筋ものびてきて、回転し始めた。幻覚だ、と彼は思った。目前に巨大な星雲が現れたかと思うと、七つに分裂する。虹のそれぞれの色だ。一つ一つが自転しながら、全体として中心の周りを回転する。未来に行く時も、過去に行く時も、幻視を体験する。時空間上を急激に移動することが、脳に影響を及ぼすのか、それともこれが時間移動をする際に見える正しい光景なのか、分からない。
 ガムランのゆるやかな調べが聞こえ始め、それは激しいリズムに変わり、続いて和太鼓を打ち鳴らす大音響が鼓膜を叩き、頭が痛み始め、胃の中がかき回された。
「バッド・トリップだ!」彼は幻視と幻聴に翻弄されながら怒鳴った。
「こいつぁあ、やばいぜ」


  西暦二〇〇〇年――東京

 奥田はふらつきながらボートを降りた。鋼鉄製のトンネルが広がっている。いつものことながら、時間移動した気がしない。港を出るまでは、確かに別の所に来たのだという事を確信できない。どこの港も似たような形で、区別がつきにくい。
「気分はどうですか?」
 声をかける景徳に、奥田は頭をおさえながら答える。
「最悪だ」
「悪酔いですか。奥田さんは時間移動の経験があまりないのですか?」
「お前の運転が下手だからだよ。それより、早く出ようぜ。外のうまい空気を吸いたい」
 景徳は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あまり期待しない方がいいですよ」
 歩き出した彼を、奥田はこめかみを小突きながら追った。来た時と同様に分厚い鉄の扉があって、そこを出ると薄暗く長い階段が上にのびていた。
「誰を探すのですか」
 上りながら、景徳が声をかける。
「おや、お前知らないのか。この時代に逃げ込んだ、みんながやっきになって探し回っている時間犯罪者、塔多教授を」
「いいえ、知りません。私は今までお客さんを送り迎えするだけでした。旅の目的は聞かないのがルールです。しかし今回はあなたの良きパートナーですから」
「見張り役だろう。頼むから足を引っ張るのだけはやめてくれよな」
「大丈夫です。私はお客さんが用を済ませるまで、その時代で暇をつぶしていました。二〇〇〇年の東京には何度も来ていますから、役に立ちますよ」
 今まで何人もの人間を捕まえてきた。もちろん大半は悪者だが、そうでないやつもいた。現代では働く所がないが、過去にはあるという人間。単なる冒険心だけで未来へ行ってみようとする奴。しかし、政府に許可されていない者はみな犯罪者なのだ。良心の呵責を感じる必要などないのだ。警察に渡した人間がどうなっても、知ったことか。そんな事を考えているうちに、階段の上に着いた。
 そこは狭い踊り場で、鉄製のはしごが壁を這っていた。景徳は人差し指を上に向けた。
 彼の足の裏を見ながら上っていく。スーツケースを持ったまま上がるのは、少々苦労した。景徳は天井の丸いふたを開けた。途端に明るい光があふれてきた。
 這い出ると、そこは何も置いていない、コンクリートの壁が四方を囲んでいる、殺風景な部屋だった。
「さ、こちらへ」
 景徳にうながされて外へ出る。細い通路があって、進むに従ってにぎやかな音楽が聞こえてきた。
 旧式の洗濯機や掃除機が並んでいる場所に出た。人がひしめいている。店員らしき人間が笑みを浮かべ、奥田達に声をかける。
「いらっしゃいませ」
 その店員は急に真顔になって、うなずいた。景徳がうなずき返すと、元の笑顔に戻った。
 店を出ると、大量の人間が歩いていた。高いビルが立ち並んでいる。
「ひでえ空気だな。これじゃ頭痛が治りゃしねえ」と奥田は言った。
「言ったでしょう? 期待しない方がいいと」
「どこに来たんだ?」
「秋葉原です」
「ああ、この時代では確か、コンピュータを売っている店がたくさんあった場所だな」
「ええ、そうです。これからどこに行きますか?」
「お前、飯食ったか」
「いいえ。ボートを整備していましたから、まだ食べていません」
「じゃ、決まりだ。食いに行こうぜ。どっかうまいもの食わせる店に案内してくれ」


  秋葉原

 奥田は公衆電話を見つけると、一一七にかけて腕時計を合わせた。
「よし、行こう」
 景徳に連れられて、広い車道の脇の狭い歩道を歩いていく。店頭にはひどく古いタイプのコンピュータが並んでいる。記憶容量がメガバイトやギガバイトといった単位で測られるような、とんでもなく記憶力の悪いマシン達だ。考えることもできなければ人間の言葉を理解もできない。そんなものを高い金を出して買っていたのだから昔の人間はかわいそうだ。
 道を曲がる。ラーメン屋や宝くじ屋の横を通り過ぎて、駅の改札口がある所に入った。大量の人間が吐き出されてくる。皆ちゃちな娯楽用品を求めてここに来るのだ。あわれな連中め、と、奥田は心の中で嘲笑った。当時の最新技術に彩られた電化製品を少しでも安く手に入れるために、地方から長い時間電車にゆられてやって来た奴も大勢いるはずだ。奥田には彼らが一個の饅頭に群がる餓鬼のように見えた。
 駅の反対側に出る。切符の販売機の前に人間が密集している。機械から切符をもらわなければ電車に乗ることさえできなかったのだ。恐ろしく不便な時代だ。
 群集の真ん中へんで喧嘩が始まった。列に割り込んだ、割り込まないと言って騒いでいる。あまり住みたい時代じゃないな。そう思うと、奥田の口の中に酸っぱいものが広がった。喧騒の都市、東京。汚れた空気。ストレスで傷だらけの心をかかえた人々。しかし、自分よりはましかもしれない、と奥田は考える。逃亡者狩りなどという唾棄すべき商売をしなければ生きていけない。不況のどん底とは言っても、こいつらにはコンピュータや、CDや、DVDを買うだけの金があるのだ。
「たくましい人間だな、俺も」と奥田はつぶやいた。
「は?」景徳は不思議そうな顔をした。
「あんたも」
 奥田はあらためて彼の姿を見た。油で汚れた作業服の格好のままだ。
「着替えた方がいいぜ、景徳」
「さあ奥さん、見て行って下さい。ほんの少ししみにつけて、ちょちょいと水ですすぐと、ほら、この通り」
 自分が売っている洗剤の素晴らしさを野次馬達に一生懸命アピールしている男の脇を通り過ぎて、建物の中に入る。
「何が食べたいですか? カレー屋あり、そば屋あり、お好み焼き屋もありますよ」
「お好み焼きって、なんだっけ」
「小麦粉と卵を混ぜて、野菜や肉を入れて焼いた食べ物です。結構おいしいですよ」
「あまりうまそうじゃないな」
 奥田は周りを見回した。景徳の言う通り、いろんな店がある。お土産屋らしいのもある。カレー屋の中が見えていて、少し席が空いている。
「あそこにするか」
「この時代のお金は持っていますか?」
「もちろん」
 二人でその店に入り、奥田はタイカレーを、景徳はインドカレーを注文した。
 出されたカレーライスを口に入れたまま奥田はしゃべった。
「しかしこの食い物は長い年月に渡って生き残っているもんだな。まあ俺達が食っているのより少し下品な感じがするが」
「最初に日本に入ってきたのが、確か明治維新の時ですよ。一八六〇年頃ですか」
「やけに詳しいじゃないか」
「私、日本の歴史や文化にとても興味があります。この商売を始める前、ヨコハマ・シティに三年ほど住んでいました」
 景徳の皿はあっという間に空になった。奥田はまだ半分も食べていない。
「塔多教授というのは、どんな罪を犯したのですか」
「あんまり突っ込んだことを聞くなよ」奥田はスプーンをライスの中に差し込みながら、景徳をにらんだ。「お前、スパイじゃないだろうな」
「はあ、すみません」
 奥田が食べ終わるのを、じっと待っている。
「奴は時間の研究者だが」奥田は水を飲んだ。「あまり研究しすぎて、変な結論にたどりついたんだ。タイムマシンは発明されるべきではなかった、とね」
「私には分かるような気がします」
「とんでもねえ! 発明されなきゃ、こっちの商売はあがったりだ。奴はH.G.ウェルズを殺そうとして失敗し、牢屋にぶちこまれたがすぐに脱獄した。次にアインシュタインを殺そうとしたがまた失敗し、脱獄し、どこに行ったのか分からなくなった。ここにひそんでいるという説が有力だが、誰も見つけられねえ」
「どうして見つからないのですか?」
「お前を信用して言うがな、奴は整形したらしい。整形後の写真を俺は裏のルートで入手した。こいつは最新の情報だ。俺が一番のりってわけさ」
 食べ終わった奥田は、残りの水をいっきに飲み干した。
「しかし、この広い東京で、どうやって見つけ出すのです?」
「今日の三時から、S大学で学会の研究発表会がある。偉い先生方が集まってくる。そこで苅野という教授が時間に関する論文を発表するんだ。あまりにも荒唐無稽で誰にも相手にされないんだが、ずっと後になってその研究がタイムマシンの発明に大きく貢献するんだ。奴は必ずそこに現れる。発表する前に苅野教授を殺したいはずだからな」
 奥田は立ち上がった。
「案内してくれよな。三時までに着くように」


  研究発表会

 他の人間達に紛れて、さりげなく講堂内に入り込んだ奥田は、黒い頭で埋まっている会場を見回した。
「本当にいますかね」
 景徳の問いには答えず、適当な席を探して歩く。
「ここにするか」
 奥田は後ろから二列めの席を指差した。景徳を先にすわらせ、自分は通路側に腰掛ける。途中で背広を買って、着替えた景徳は、それでも貧乏臭さが抜けきれていなかった。彼自身はスーツケースに入れて持ってきたグレーのスーツに着替えていた。
「苅野先生が壇上に上がって、塔多が飛び出したら捕まえるんですね?」
「それじゃあ遅すぎるな。俺達より先に警備員に捕まってしまう。そしたらもう手が出せない。第一、その前に殺さないとは限らない。苅野教授の後ろにすわって、毒針を刺すとかね」
 奥田は首をのばして周囲を見た。
「急がなきゃならん。俺ちょっと、会場見て回るわ」彼は景徳に、にやけて見せた。「大丈夫だよ。逃げたりしねえって」
 左右をよく確認しながら歩いていく。難しい顔をして配布資料をにらんでいる者、やたらと咳払いをしている者、いろんな奴がいる。だがその中に苅野教授も、塔多教授の顔も見えない。ただ、奥田が手に入れた苅野教授の写真は二〇一二年に撮られたものだったので、いても分からないかもしれないが。
 最前列に着くと、今度は隣りの通路を後ろへ進んで行く。どこにも二人の姿はない。こりゃまずいぞ、と思うと、胸の中にあせりが広がってくる。
 最後列にたどり着き、壁際の通路を前に進もうとした時、進行係が開会の挨拶を始めたので奥田は席に戻った。景徳は退屈そうにあくびをしていた。
「どうでした?」
「いねえな。いや、いるかもしれんが、見つけられなかった。二人とも」
 奥田は景徳が見ている配布資料を奪い取った。
「苅野教授の発表は四時からか。おい、こういう時発表者はどっか控え室にいるもんなのか? それともみんなと同じようにすわっているのか?」
「さあ、知りません」


  塔多教授

「もうすぐ四時ですね」と景徳が言った。
「ああ、分かってるよ」
 途中で何度も、怪しまれない程度にうろついてみたが、二人を見つけることはできなかった。人数が多すぎる。奥田のあせりは頂点に達していた。
「ええ、続きましてはY大学理学部の苅野先生の発表です」進行係の声が響き渡る。「テーマは、時間移動の新方式についてです」
 周囲がざわめいた。この時代の人間には、あまりにも奇妙な題目であるに違いないということは、奥田にも分かった。
 壇上に苅野教授が現れた。奥田が見た写真よりも若いが、髪の色を除けばそう変わらない。その時、講堂のドアが開く音がして、彼は首を後ろにねじ向けた。
 長身の、白髪頭の男が辺りを見回している。
「あ」思わず声を出してしまった。「おいでなすったぜ。塔多教授だ」
「グッドタイミングですね」
「バッドタイミングだ」
 教授は、奥田達の脇を通って前へ歩いて行った。立ち止まり、辺りを見回す。左腕をくの字に曲げた。胸元に手をあてているらしい。
「やべえ」つぶやいて、奥田は立ち上がった。駆け足にならないように、しかしできるだけ速く、歩み寄っていく。
「塔多先生」声をおさえて話しかける。
 ぎょっとした顔が、彼の方を向いた。教授にとって知らない人間から声をかけられることは恐怖であるに違いない。
「いやあ、お久しぶりです。こんな所でお会いするとは思いませんでした」
 教授の耳に口を近づけて、ささやく。
「その胸のバッチがレーザー銃だなんて、誰も気づかんでしょうなあ」
「はて、どこの大学の方でしたかな。よく覚えていないのですが」
 奥田は塔多教授の横に立ち、ポケットに入れた手の、人差し指をのばして彼の腰に突きつけた。
「外でお話しませんか。やっと会えたんですから」
 歩きながら、腰を浮かせかけた景徳に言う。
「行こう。先生はご気分がよろしくないそうだ」
 会場の隅で目を光らせている警備員を気にしながら、扉をくぐる。クーラーの効いた室内から夏の余韻を残す屋外への気温の変化が、奥田の額に一しずくの汗を流させる。
「物騒なものは、いただいときましょ」
 奥田はポケットから右手を抜くと、教授のバッチをむしりとった。高級そうな背広にごく小さな穴が開いた。
「君達は時間警察ではないな」と塔多教授は言った。
「どうしてそうお思いで?」
「銃を持っていない」
「今は持ってますよ」奥田はバッチを教授に向けた。「これ、高かったでしょう。私も欲しかったんですが、二百万もするんで、あきらめました」
「逃亡者狩りか。君達はそんな事をして楽しいかね」
「楽しかあ、ありません。生活のためなんで」
「君はまぬけだな。人生は楽しむものだ。生きるためだけに生きるのは、窮屈だろう」
 奥田は少し、腹が立った。金のある奴が考えそうなことだ。
「金のない奴は、毎日飯食えるだけで満足なんですよ。なあ、景徳」
 景徳は答えず、ひどく不愉快そうな顔をした。プライドを傷つけたかな、と奥田は思った。


  不可知論

 奥田が手を上げると、黄色いタクシーが彼らの前に停まった。押しこむようにして教授を乗せ、両側からはさむ。
「秋葉原駅まで頼む」
 車は軽快にスタートした。
「君達は、あれができて良かったと思うかね」塔多教授は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。
「あれ?」
「タイムマシンだよ。あんなものが広く一般に開放されたら、歴史はめちゃくちゃになってしまう」
「そうさせないために、時間警察がいるんでしょ」奥田は、何を今更、と思いながら言った。
「君は、人類が自らを取り締まることができるほど、完全だと思うかね? 少しのミスも許されないのだ。誰かが過ちを犯せば、あっという間に歴史が変わってしまう。私達は今、人間か?」
「はあ?」
「ついさっきまで足は四本、目は三つあったかもしれないではないか。そしてそれが本当の人間で、今の私達の姿は、誰かが太古の昔に戻って種の進化にちょっとしたいたずらをした結果ではないと、どうして言えるだろう。タイムマシンのせいで、何も信じられなくなってしまう。全ての実存が意味を失う。君は誰かのおもちゃの歴史の中で暮らして、何とも思わないのかね」
「一説によると、誰かが過去をいじると、その結果別の歴史が生じるけどそれは私達のとは別の世界で、我々には関係ないっていうじゃありませんか」
「我々がいるのがいじくられて生じた別世界の方ではないと、どうして分かる?」
「あなたはひねくれた人だ。私達は生まれた時からこの世界にいる。小さい頃からの記憶は、確かなものですよ」
「私はそう思わない。この世界は誰かがタイムマシンを発明したくらいで壊れてしまうような、もろいものなのだ。君は、土星が本当にあると思うかね」
「またとんちんかんな事を」
 教授はあわれみに満ちた顔をした。
「土星の実物を見たのは誰かね。私達は写真でしか見たことがない。いや、絵の方が多いかな。写真すらろくに見ていないのだ。ましてや実物など見たことがない。その写真さえ、さまざまな画像処理をほどこしてこしらえたものだ。実物がああいう色や形をしているかどうか、分からない。君は幽霊かね」
 奥田は答えず、首を横にふった。
「逃亡者狩りというのは、危険な仕事だろう? 今まで何度も危ない目にあっているのではないかね。君は実は死んでいて、ここはこういう形をしたあの世かもしれない。ただ君が気づいていないだけかもしれないよ」
「あんたの言い分を聞いていると、どっちにしろこの世界は虚構であるかのようだ。タイムマシンとは関係ないでしょう」
「君は幽霊ではない。たぶんね。土星はあるだろう。おそらく。だがタイムマシンは話が別だ。幽霊か、土星は存在するか、それは自然の領域だろう。神の領域といってもいい。だが歴史は、人間が簡単に変えられるようになってしまった。それは、許されざることだ」


  帰還

「さ、降りて下さい」
 塔多教授が外に出ると、奥田はすかさず腕をつかんだ。怒りを含んだ目が彼に向けられた。
「私はここが気に入っているのだがね」
「先生の話を聞いて分かったんですが、先生はここにいるべきじゃないでしょう」
「時間犯罪者で捕まっていない人間は、何人いるのかね。歴史はすでに多くのバカ者によって汚されてしまった。私がここに残ろうと、残るまいと、どうでもいいことだろう」
 電化製品店が並ぶ通りを奥田と景徳とで教授をしっかり捕まえて歩く。周囲の人間が好奇の目を注ぐ。
「君達はバカ者だ。人間は愚かだ」
「あんたも同じですよ」
 目的地に到着した。店に入ると、あの店員が寄ってきた。
「いらっしゃいませ」
「トイレはどこですか。この人、気分が悪いそうなんですよ」と景徳が言った。
「この先をまっすぐ行った所にありますので」
「これから、タイムマシンに乗るんだよ」教授は怒鳴った。
 人々がいっせいに注目する。
「私も、この二人も、犯罪者だ! 誰か警察を呼べ!」
「飲み過ぎですよ、先生」奥田は笑みを浮かべて言った。「まったくこんな早い時間から。歳のことも考えて、体をいたわらないと」
 空き部屋に着いた。教授にバッチを突きつけ、はしごを降りさせる。階段を降り、港へ入った途端、塔多教授は奥田達の手をふりほどこうともがいた。
「君は捕まえた人間がどうなるか、知っていてこんな商売をしているのかね」教授は言い放った。
「知りませんねえ。歴史を変えちまうような悪人は、切り刻むなり、釜茹でにするなり、好きにすりゃあいい」
「愚かだ。タイムマシンの発明は、科学の発展がもたらした恩恵だ。誰も発明者を犯罪者だとは言わないだろう。だが、間違いだったのだ。過去や未来に行けば、当然歴史に影響を与える。何もしなくても、行った時点ですでに時間の流れにわずかなゆがみを生じさせてしまう。せっかくタイムマシンができたのに、使うなというのかね? 私の結論は、タイムマシンの発明をなくしてしまうことだ。なぜ君達は邪魔するのだ」
 教授はあばれるが、数々の荒波をくぐりぬけてきた奥田の方が、腕力が上だった。
「捕まった人間は、起きている間中、あらいざらいしゃべらされるのだ。歴史を変えるような事をしなかったか、何時何分何十秒に何をしたか、その一秒後には何をしたか、詳細に聞かれるのだ。何度でも、何日でも。だが、ついにその人間が歴史を変えなかったとは証明できない。当然だろう。例えわずかでも変えているのだから! 政府に認められた者は罪人ではなく、認められていない者は無条件で死刑だ。まあ、その前に発狂して獄死するがね。理不尽だとは思わないかね」
「俺の知ったことか。俺は時間犯罪者を捕まえて政府に売り渡す。それでご飯を食べる。他に意味はない」
 景徳がボートに上がり、腕を差し出しても、教授は乗ろうとしない。奥田はバッチを突きつけてのぼらせた。
「私は帰らないぞ。どうせ未来に行くのなら、うんと遠くへ行って、人間がもっとましになった時代へいく」
「ましになんかなりゃしませんよ。我々とこの時代の人間と、大差ありません。俺にはむしろ、悪くなったように思える」
「君はネガティブだな。人間は少しずつ、賢くなっていくのだ。未来の未来のそのまた未来に、必ず人間がまともになった時代がある」
「いいかげんにして下さいよ。それともあんた、縛り付けられたいのか」


  騒乱

 奥田はスーツケースから縄を取り出した。
「やっぱり、縛らせてもらいますよ」
 教授の腕を後ろに回し、両手首を縛る。
「ここにすわってて下さい」前へ歩き、椅子にすわり、振り返る。「外に出ようなんて考えないで下さいね。自殺行為ですから。良い子にしてるんですよ」
 床にあぐらをかいた教授が鬼のような形相でにらみつけた。
「出発しますよ」景徳がスイッチを押すと計器のあちこちが光り始めた。
 キャビン内が轟音で満たされ始めた。キーボードを打つ彼に、教授が声をかける。
「なぜマイクを使わない」
 奥田と景徳の間にある大きめのマイクに興味を持ったようだ。
「人類は完全ではないかもしれませんが、コンピュータはもっと不完全です。ゲームやワープロに音声入力を使うのはいいのですが、こういうことに使用するのは気がひけますね。私はあまり使いません。二〇〇〇年と言ったつもりなのに一〇〇〇年に飛ばされたらたまりませんから」
 言い終わると、景徳はレバーを引いた。鼓膜を破りそうな激しい音が室内を包む。
 トンネルが奥に向かってのび、そして収縮した。中心の一点から広がった風景は、銀色の筒だった。内面が河のようにうねっている。
「さあて、やっと仕事が終わる。短い付き合いでしたな、教授」奥田は嘲笑うような口調で言った。
「短いかな? 私達はこれから二世紀近くいっしょにいるのに」
「ほんの、五分ですよ」
 奥田の目にたくさんの曼荼羅が映り始めた。向こうから回転しながら飛んできて、流れ去る。曼荼羅が幻覚なのか、銀色の円筒形の河が幻覚なのか、彼には分からなかった。
「ちょ、ちょっと。ここには、トイレはないのかね」
 教授の言葉が聞こえると同時に、仏様の大宇宙を表す紋様はふっと消えた。
「辛抱して下さいよ。少しの我慢です」
「え? 何だって」
 奥田はいらいらした。
「我慢して下さい。あんた、その格好のまま用をたすんですか」
 床をふむ音が聞こえた。振り向くと、塔多教授が立ち上がっていた。
「よく聞こえないんだが」
 操縦席に向かって歩いてくる。
「すわってて下さい。揺れますよ」
 奥田の言葉を無視して、教授は二人のすぐ後ろに来た。
「ほほう、ぜいたくな設備だな。逃亡者狩りって、もうかるんだな」
 おじぎをするように頭を下げる。と、突然マイクの前の赤いボタンを鼻で押した。
「未来へ行け! 一万年でも、百万年でも、いくらでも進め!」
「何をしやがる」奥田は立ち上がり、教授を突き飛ばした。
「人間が完全な理性と完璧な知性を獲得した時代へ!」
「今のを取り消す!」彼はマイクに向かって叫んだ。「二千百……」
 頭部に激痛が走った。どうやら教授に頭突きをくらわされたらしい。なんという石頭だ!
 奥田はうめき、床に転がった。倒れた椅子が彼の足を打った。頭をふり身を起こすと、かすむ視野の中で塔多教授が景徳を蹴り飛ばしていた。景徳は壁に頭をぶつけた。
「やめろ……」奥田はふらつきながら立ち上がった。
 ディスプレイに背を向けたまま、顔だけ後ろにねじむけて縛られた手で器用にキーボードを打っている。指がものすごいスピードで動く。ディスプレイの表示が次々とスクロールしていく。
 奥田は両手を組んで教授の頭を思いきりなぐった。
「うっ」
 倒れそうになる塔多教授の腕をつかむ。
「もっと強くやっても良かったんだが、生け捕りが原則なんでね」
「だめです。入力を受けつけません」景徳が叫んだ。
「おい、早く元に戻せよ」奥田は教授の胸ぐらをつかんだ。
「無理だね。でたらめに打ちこんでやった。見たまえ」
 ボートは時間の河を疾走していた。河の表面が様々な色に光り、波が後方にものすごい速度で去っていく。
「もう西暦一万年を越えました」景徳が泣きそうな声で言った。
「君は、時間には終端があると思うかね。宇宙の始まりと同時に時間が始まった。私は長い研究の末、時間にも終わりがあることを見つけた。どうだ、三人で時間の終わりを見に行こうじゃないか」
「貴様」
 奥田は足を蹴られた。椅子で痛めた方の足だ。彼はうめいた。
「てめえ、今すぐ死刑だ。来い!」
 奥田はドアを開け、教授を放りだし、すぐさま閉めた。ため息をつき、景徳の方へ歩いていくと、彼は幽霊でも見たような顔をして船の後方を指差していた。
 船尾に立つ塔多教授が、ガラスごしに見えた。髪がうしろになびいている。
「なぜそんなにタイムマシンを眼のかたきにするんだ」奥田は怒鳴った。
「科学は、とんでもないモンスターを作ってしまった。こいつは時間を破壊する化け物だ」教授は大声で言っているらしいが、ガラスにさえぎられて小さく聞こえる。
「あんたは、科学の発展を否定するんですか。科学の敗北だとでも言うんですか」
「科学を手放しに礼賛すべきではない。個人の思想の方が大事だ。科学的大発明も、それが間違いだったら、誰かが止めなければならない」


  時間は終わる

「重要なのは科学ではない。哲学だ」と塔多教授は言った。「光の速度がどの系においても不変であることから導かれる未来への時間移動理論にしろ、宇宙ひもを使って過去へ行く理論にしろ、それは科学者の哲学でしかない。時間旅行者にとっては、タイム・ボートに乗れば過去や未来に行けるという事実のみが重要なのだ。だが、人間は時間を自由にあやつるべきではない。それは神のすることだ」
 教授の体が奇妙な感じに見え始め、奥田は眉をひそめた。どうしたのだ。まるで凍ったかのようだ。
「ボートから一歩でも外に出るとどうなるか、よく見るがいい。人間は硬く、硬くなっていくのだ」
 質感が変わっていく。色のついた陶製の人形に変化していく教授を、奥田は苦いものでも食ったような気持ちで見つめた。
「我々は連続する時間の流れの中で生活しているが、時空間を時間軸に直交するように切った断面を見れば、その一瞬は時間が止まっている。むろん、すべての原子も動きを止めている。つまりこれは絶対零度の状態だ。我々には体温があるが、一瞬、一瞬には凍りついているのだ。時間流の中ではそれが如実に現れる。温度こそ変わらないものの、原子は動くことを止め、石のように硬くなってしまう」
「あんたの言ってることは滅茶苦茶だ」奥田は怒鳴った。
「理論は重要ではない。大事なのは哲学だ! 滅茶苦茶、おおいに結構。では君は目の前で起こっている現象をどう説明するのだ。人類が一生賢明発展させてきた科学も、様々な事象を説明するために考え出されたこじつけにすぎないのかもしれんよ? 地球人よりも高度な知能を持った宇宙人から見たら、滅茶苦茶かもしれんよ。そんなものより個人個人の哲学が重要だ」
 教授は完全に陶器のようになってしまった。
「この時間流には終端がないと思うかね。そうではない。時間は終わるのだ。ボートはスピードを落とさない。端にぶつかれば、粉々になってしまうよ」
 教授の体にひびが入ってきた。
「終わりだ。誰も引き返すことはできない」
 陶製人間はこちらに向かって一歩踏み出した。奥田は金縛りにかかったかのように動けなかった。
「時の終わりに近づいている。そこから先に、時間はない」
 教授の体から、まるでたまねぎをむくように、薄く皮がはがれては後方に飛びさっていく。彼は徐々に壊れていく。
 ボートは時間の河をものすごい勢いで進んでいく。流れは虹色に光り、踊り狂っている。もう奥田が住んでいた時代から、何兆年、いや、十の何十乗年、何百乗年離れてしまったのか分からない。塔多教授が言う通り、戻ることは不可能だろう。地球や、太陽系は消滅してしまっただろうか。まだ宇宙は残っているだろうか。
「窓をぶち破ってやる。私に触れれば君達がどうなるか、試してやろう」
 教授が近寄ってくる。キャビンに入られてしまう。
「ちくしょう!」
 景徳は叫ぶと、扉を開けた。
「景徳、やめろ!」
 彼は出ていった。そして彼に起こった現象は、教授のそれとは違っていた。塔多教授の論理は間違っていたのだ。
「バカな、そんな」奥田は信じられない気持ちを口から出した。
 景徳は一気に老けたように見えた。一歩教授に近寄るたびに、年をとっていく。
「奥田さん……どうやら……さよならです……」
 振り返った景徳の顔は百歳の老人だった。さらに年老いていき、しわくちゃになり、肉がぼろぼろにくずれて飛び去り、骸骨は頭の方から砂のようになってさらさらと流れていった。
「形あるものはすべて壊れる」陶製の男の両腕がとれた。「時間とともにはぐくまれてきたもの、宇宙が、そしてその中で生まれた人類が、はるかな時を経て滅び、宇宙もまた縮小して原初の火の玉に戻っていく。すべてが消えた後、時間だけが残ったが、それもまた永遠ではないのだ。分かるか」
 そこまで言った時、教授の頭がもげた。胸が割れ、破片が飛んでいく。腹が、腰が、太ももが、そしてついにすべて消え去った。奥田とボートだけが何もなくなった時空間に取り残された。船の行く手を見ると、虹色の光が渦を巻いていた。邪悪な色をしたガスが、その中心に落ちこんでいく。あれが時間の終端だろうか。船は嵐にのみこまれたかのように激しくゆれ始め、急加速した。おそらくあの渦が吸い寄せているのだ。色とりどりの光が怒り狂ったように踊っている。それは、猛烈な勢いでボートに迫ってきた。奥田は絶叫した。
 室内が激しくきしみ、割れた。船がこなごなになる様を見ながら、彼は吹き飛ばされた。まるで、今まで横向きだった時間流が、縦になったかのようだった。猛スピードで、落ちていく。過去へ戻されていく。虹色の光の映像と重なって、巨大な球体が見えた。彼は宇宙を外側からながめたことなどないのに、はっきりとそれが宇宙だと分かった。急速に風船がしぼむかのように縮んでいく。と、今度はいくつもの銀河が視野いっぱいに広がった。それらは回転しながら半径を縮小し、明るさを増すに従って煙を噴出し、ガスの塊になってしまった。
 奥田は広げた両腕を動かそうとしたが、できなかった。塔多教授のように、体が硬くなってしまったのだろうか。
 縮小しつつある一つの銀河が迫ってきた。彼はその中に突入した。時間流の映像は半透明になり、少しずつ消えていく。大きな恒星と、周りを巡る星達が見えてきた。太陽系だ、と彼は直感した。星々は彼が学校で習ったのとは反対の向きに――つまり時計回りに、恐ろしい速度で公転している。内側から三番目の惑星が視野に広がってきた。
 大気圏に突入する! そう思った時、ほとんど消えた七色の光が突然爆発し、彼は前後左右から真っ白な光に包まれた。彼の頭の中に様々な歴史上のイメージがいっきに流れ込んできた。
 地球人の建物でほとんど覆われてしまった月面、空中を走る車、そういったものが、次々にスライドを切りかえるように目に飛び込んでくる。
 東西ドイツを隔てる壁が壊される風景、原発の事故。ふいに、海上に小型艇が見えた。蟻くらいにしか見えないのに、彼は二人の人間がそこから彼を見上げているのを感じた。だがすぐに別の風景に変わった。
 第二次世界大戦。民衆を前にわめくヒトラー。どこかの城をひどく昔の服を着た兵士が砲撃するシーン。エジプトのピラミッドが建設される様子。
 その時爆発の光が勢いを増した。
 獣を狩る全裸に近い人間達、その姿は、次第に背が曲がり、顔が突き出し、猿に近くなっていった。
 地面が見えてきた。ぶつかる!
「やあああーっ」
 奥田は雄叫びをあげた。


  紀元前

「お父ちゃん、またあのお話を聞かせてよ」
 ワツは、鼻水をすすりながらせがんだ。獣の皮を切り裂いていた父が、振り返り、微笑む。
「またか? 困ったもんだ。もう何べんしゃべったか分からないほど話したろう」父親はそう言うと、鋭くとがった石を土の上に放りだし、立ち上がった。
「僕、壊れ人の話を聞きたいよ」
 父の話は聞くたびに少しずつ違っていた。だから何度聞いても飽きなかった。その時の気分によって適当に話しているのだろうという事は、幼いワツにも分かった。
「よしよし、お母さんの言いつけを良く聞いて、ちゃんと肉の番をするなら話してあげよう」
「うん。約束するよ」
 父が歩き出すと、ワツは喜んで手を打ち鳴らした。
 今日も日がよく照っている。最近は獲物が調子よく獲れて、父母は喧嘩することもなく上機嫌で、ワツもうれしかった。
 丘をのぼると、地面から突き出した人間の足と、転がっているたくさんの石片が見えてきた。
「あっ、もうあんなに生えてらあ」
「本当だ。きっとワツが良い子にしているからだよ」
 この間見た時には、太ももの途中から先しかなかった。しかし今は、腰の辺りが現われ始めている。周りの石片を集めて、日々成長しているのだ。石のかけらの中には、人間の一部分だろうと分かるものがいくつもあった。手や、肩や、そして頭も。それらに触れようとすると、いつも父は怒るのだ。「クア・クアに罰せられるぞ」と。
「お父ちゃん、お話をしてよ」
「ああ、はいはい。昔、この辺りはクア・クアという精霊に守られていたんだ。この男はある日森の中で迷ってしまい、歩き回って、すっかり疲れてしまった。そして森の奥で小さな池を見つけたんだな。汗びっしょりの体を清めるために、彼は池に飛び込んだ。その時どこからともなく声が聞こえてきたんだ。『ここは私達の土地です。早くお帰りなさい』と。男はそれがクア・クアの声だと分かったが、こう答えた。『お前達の土地だって? 冗談じゃない。ここは俺達の土地だ。お前らの方こそ出ていけ』」
 ワツはこちらを向いている頭部を見つめた。そんなに悪い人には見えないけどなあ、と彼は思った。
「男はそばの木の枝からぶら下がっているつたにつかまって、悪ふざけを始めた。揺れながら、水面を蹴った。怒ったクア・クアは、つたを天にのばし、男を空に上げてしまった。太陽が沈み、闇の世界が来て、再び日がのぼっても男は我慢していたが、とうとう耐えきれなくなって手を離してしまった。そうして落ちてきたというわけさ」
 今日の話には象が出てこなかったが、ワツは父の話が終わったのを感じた。
「でも、お父ちゃん、なぜこの人はだんだん元の体に戻っていくの?」
 父の眉根にしわが寄った。やがて、その顔に微笑みが戻った。
「クア・クアがかわいそうに思ったからさ。男は長い間ばらばらだったが、もうそろそろ許してやろうと考えたのさ。さあ、帰ろう。お母さんが待ってるぞ」
 ワツは父の話を聞くのが楽しくて仕方なかった。

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