存在の意味とは何か? そもそも、人間の存在には意味があるのか? 
 ただでさえ二日酔いなのに、そんな事ばかり考えているものだから、嘔吐感が喉元までこみあがってくる。
 思わず「ウッ」と声をもらすと、周りの人間が露骨に嫌そうな顔をする。
 こうして毎日満員電車に揺られ、会社ではいろんな人にペコペコと頭を下げ、誰も待っていないアパートに帰っては、野球なんかを見ながら缶ビールを飲む。
 そんな日常がこれからもずっと続くのかと思うと嫌気がさし、ついつい飲み過ぎると途端に二日酔いだ。
「苦しいかね?」
 頭の中で声がする。
「私達としてもこれ以上こんな事を続けたくないのだよ、人類代表。ぜひとも条件をのんでほしい」
「またあんたらか。私には関係ないことだと言ってるだろう」
 私は頭の中で答える。
「おやおや、一ヶ月ぶりの再会だというのに、つれないね」
 人を愛するというのはどういうことだろうか? 宇宙と人類の関係とは?
 そんな事ばかり考える人間になったのは、小さい頃から時々聞こえてくるこの声のせいかもしれない。
 彼らは私を「人類代表」と呼ぶ。日本などという小さな国の、平凡な一市民にすぎない私をなぜそんなふうに呼ぶのかさっぱり分からないし、聞いても答えてくれない。
「言う通りにしないと、この苦しみはずっと続くよ」
 彼らによると、私が、いや私だけでなく人間が、何かしら悩みを持ちながら、楽しいことよりも嫌なことの方が多い人生を生きていくのは、実は彼ら「超越者」の拷問なのだという。
 太古の昔、人間は悩み苦しまなかった。人々は日々の糧のために猛獣と戦い、生きることに必死だった。
 彼らが人類に干渉するようになってから人類は文化を持ち、悩み、苦しみ始めた。彼らはその時代その時代の「人類代表」を見つけ出し、要求をつきつけた。
 要求の内容は様々だった。人類代表のうち何人かは彼らに屈した。だが、私は決して彼らに屈しない。
 私は最近になって私なりに見つけた、人生の意味について話した。
「人生とは修行だ。苦しくて当たり前だ。そうやって人はカルマを刈り取り、やがて霊村に帰り、そして生まれ変わり、修行を繰り返す。最後に解脱するために」
「アッハッハッ! 宗教か。それはあなた方のうちの知恵ある者が、人類の心の拠り所となるべきものとして作ったにすぎない」
「そんなことはない。人類は長い年月待ち続けていれば、やがて救世主が現れ、救われるのだ」
「それは古い文献にそう書いてあったのだろう? あなただって本当に信じているわけではあるまい。それともあなたは本に書いてあることや人から聞いたことをそのまま信じるのかね」
「なんだと!」
「では聞こう。水とは何だ?」
「水とは、水の分子の集まりだ。そして水の分子とは水素と酸素が結合したものだ」
「ほう! あなたはそれを見たことがあるのか。水素や酸素の原子を見たことがあるのか」
「な……」
「それは授業でそう習っただけなのだろう? 偉い科学者が実験によってそれを証明した。でもあなたはそれを見たことがない」
「……」
「いくら待っても救いなど来ない。あなた方は私達が実験的に作ったものにすぎないのだから。救いが来る前にあなた方は滅びるよ。私達がそのように仕掛けをしたのだから」
「どういうことだ」
「アポトーシスだよ。つまり細胞自滅だ。あなた方のDNAには、何種類もの致死遺伝子が組み込まれている。例えばあなた方の手に水かきがないのは何故か? それは胎児の頃にある水かきの細胞がやがて死んでしまうように、あらかじめプログラムされているからだ。ミクロな目で見ればそれは細胞の自滅だろう。だがマクロな視点で見れば、あなた方の種がやがて絶えてしまうことさえ、DNAの中に情報として組み込まれているのだ。人類は発生したその時から、滅亡に向かうよう、運命づけられているのだ」
「ひどい。何故そんなことをする」
「あなた方は放っておけばどんどん進化する。あなた方の科学力がやがて私達に追いつき、追い越してしまったとしたらとても恐ろしいね。そうでなくても、今でさえ、あまり知られたくなかったことまで人類は知ってしまった」
「例えば?」
「あなた方のうちの天才科学者が、美しい、シンプルな公式を発見した。

 E=mc^2

 質量とはエネルギーである。例えばウラン等の重い原子核が分裂した際、分裂した核の質量の合計は元のそれより減っている。減った分はどうなったのか? エネルギーになったのだ。人類は効率良く物質からエネルギーを取り出す装置を発明した。その装置は日本の、広島と長崎に落とされた。それ……原子爆弾から発生した膨大なエネルギーは、光と熱となって人々を襲った。さらにそれから出た放射線が人々の細胞をこわし、後々まで人々を苦しめた」
「む、むごい。あまりにも。それもあんた達の仕業なのか」
「違う!」声はいきなり荒々しくなった。「あなたは何も知らない。だから誤解されても仕方がない。しかし、私達はあなたに全てを教えることができる。全ての真理を。人間とは? 宇宙とは? 水は本当に水素と酸素の原子からできているのか? 存在の意味とは? だが、その交換条件として、私達の要求をのんでほしい」
 真理! それは私にとって、あまりにも魅力的な餌だった。
「ど……どうすればいい」
「簡単なことだ。この契約書にサインすればいい」
 もはやそこは電車の中ではなかった。
 真っ暗闇の中、契約書とペンだけが浮いているのだった。
 契約書の内容は、こうである。

 <契約書>

 私、人類代表は、人類の全ての「愛」を、超越者に譲渡することをここに契約します。


「人類の……"愛"……」
「そうだ。それはあなた方が持っていて、私達が持っていないものだ。私達は実験的に人類を作った。その人類は、独自に愛というものを作った。それは性欲とは全く異なるもので、とても良いものらしい。私達は愛が欲しい」
「愛がなくなった人類はどうなる」
「なに、たいしたことにはならないさ。人は、愛がなくても生きていける」
 私はぶるぶると手を震わせながらペンを握った。
 ああ、すまない、人類よ。私はユダだ。
「よろしい。あなたはこれから、私達の世界へ、あなたが言うところの"霊村"へ行くのだ。あなたも、超越者となるのだ」


 電車の中で、彼はいきなりがっくりと倒れた。彼の心臓が止まると同時に、日本中のあちこちで暴動が起こり始め、また世界中のあちこちで紛争が起こり始めた。

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