目が覚めると、私は絨毯の上に倒れていた。ペイズリー柄の、赤い絨毯だ。その上に置いた右手の少し先に、携帯電話が転がっている。
 いったい私はどうしたのだろうか。なぜこんな所に寝ているのか。疑問に思いながらもとにかく上半身を起こす。私は頭をふった。なんだかふらふらする。ぼんやりとすわったまま、辺りを見回した。
 なんだこれは?
 それが最初に浮かんだ感想だった。窓はなく、明かりがついている。昼か夜か分からない。四方の壁は石膏らしきものでできていて、立体的な、不気味な彫刻が施されている。
 正面の壁には瓶を持ち上げようとしている二人の男が刻まれている。古代人らしく、上半身は裸で、腰布を巻いている。異様なのは、瓶から巨大なさそりが頭をのぞかせている事だ。人間と同じくらいの大きさではないだろうか。その他の部分は、小さな花でびっしりと埋められている。製作者の異様な神経質さに震えが来るほどだ。
 右の壁に描かれているのは岩だろうか。しかし人間の腕が何本も生えている。驚くべきことに、すべて壁の表面から突き出している。つまり、完全に立体的に作られているのだ。助けを求めるように手を伸ばしているもの、固く拳を握っているもの、失神したみたいにだらりとぶら下がっているもの、様々だ。岩は土の上にあり、背景には鬱蒼とした森が彫りこまれている。土の質感、木の一本一本が、完璧なまでに表現されている。まるでその風景を魔法によって一瞬にして石に変えてしまったかのようだ。
 左の壁は材質が少し違う。毛布のような、絨毯のような。しかし色は他と同じだ。そこには木製のドアがある。鍵がかかっていなければ出られるだろう。
 振り返ると、巨大な熊が大きく口を開いていた。そのあまりのリアリティに、思わず身が固くなった。周囲は無数の鳥やカマキリや蛇で隙間なく埋めつくされている。
 なぜこんな異様な部屋にいるのか? ……分からない。では、その前は何をやっていたのか? 思い出せない。今朝の食事は? 昨日の天気は? どこへ行ったか。どんな仕事をしているのか。
 すべて忘れてしまった。私は記憶喪失になってしまったのだろうか。なぜ?
 自分の名前は? これは分かる。平田小五郎、三十七歳、男、生まれは……思い出すことができない。結婚しているのか、独身か、大学は出ているのか。大学どころか何小学校を卒業したのかさえ、記憶から抜け落ちてしまっている。
 頭を強打したのだろうか。事故にあったのだろうか。しかしどこも痛くない。ただ少し、体がふらふらする。気分が悪い。なんという事だ。
 とにかく立ち上がろう、そう思った時、そばに転がっている携帯電話が気になった。それを拾い、ふらつきながらもなんとか床を踏みしめた。血が頭から足の方へすっと下がった。
 調べてみると、電話のメモリーには一件だけ番号が登録されていた。アケミという名前で。
 どうやら、携帯の使い方は覚えているらしい。
 さてどうしようか。ドアを開けようか。もし開かなかったら? 外に恐ろしい殺人鬼がいたら? 私をこんな所に連れてきた犯人は、なぜ外部と連絡する小道具を置いたのだろう。一件だけあるというのも、まるでそこにかけてみろと言っているかのようだ。
 一般人には理解し難い珍妙な部屋を用意する奴だ。危険な罠が仕掛けてあるかもしれない。出た途端に兵士の像が矢を放つか、あるいは鬼面の口から毒ガスが吐かれるか。そう考えると、電話してみるしか選択肢が残されていないような気がした。
 私はその番号にかけてみた。呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回。
「はい?」
 少しかすれた女の声だ。困ったな、名乗らない。
「もしもし」
「どなた?」
 警戒しているような調子だ。少し躊躇した。
「あの、平田と申しますが」
「ああ、平田さん」
 親密味のある口調になった。私を知っているようだ。しかし相手の名前も、素性も分からない。何と言えばいいのか。少なくとも家族ではないらしい。
「ええと、お久しぶりです」
 昨日会ったのかもしれないし、ずっと前かもしれない。犯人かもしれないし、あるいはその仲間かもしれない。
「ほんと、久しぶりね」
 良かった。さて、どうしようか。そうだ、登録されていた名で呼べば……。
「あの、アケミさん?」
「あら、下の名前で覚えていてくれたのね」
 どうやらあまり親しい間柄ではないようだ。一、二度会ったきりか。声から推測すると二十代、いや三十代か?
「すみません。苗字をど忘れしてしまって」
「京野よ。京野明美」
「ああ、京野さんですか」思い出せない。「ええと、最後にお会いしたのはどこでしたっけ」
「最後も何も、一度しかお会いしていないわ。キリマンジャロっていうバーで」
 自分はバーに行って女を口説くようなタイプなのか。あまり立派な人間じゃないな。
 さて困ったな。次は何を聞けばいいのだ。いっその事、全てを正直に打ち明けて、相手が敵か味方か確認したい。
 気まずい沈黙が支配する。
「いやだ。まるで、成功したみたい」
 黙っていると、彼女の方から話題をふってきた。しかもとても気になる事を。
「成功? 何が成功なんですか」
「あら嫌だ。本当に成功したみたい。……冗談なんでしょう?」
「ですから、何が成功したんですか」
「ええ? ある人がね、あなたを記憶喪失にするって。まさか、ほんとに忘れちゃったの?」
「あなた何か知ってるんですか」
「嘘。演技なんでしょう? 私のこと、からかってるんでしょう? だって、そんな事ってある? ドラマと違って、記憶喪失なんて実際にはそうそうない事だって、その人言ってたわ」
「演技じゃありません。本当に忘れてしまったんです!」
 興奮してつい怒鳴ってしまった。彼女は言葉を返さない。その数秒間が重苦しかった。
「私は今奇妙な部屋にいるんです。おかしな像が壁一面に彫りこまれていて……。さっきまで倒れていたんです。そして、それ以前の事はまったく忘れてしまいました。正直に言います。あなたの事も覚えていません。何か知っているのだったら教えて下さい」
「あきれた。でも平田さんの言ってることが本当なら、教えてあげられないわ」
「なぜですか。ある人とは誰ですか。あなた、犯人の仲間じゃないんですか? 成功って、私を拉致するのに成功したという意味ですか」
「そうかもしれないし、違うかもしれないわね」
「お願いです。少しでもいいんです。何か知ってるんでしょう? 頼みます」私は懇願した。
「その人が教えるなって言ったのよ」
「つまり、私が記憶をなくす前、そいつが京野さんに、教えてはならないと言ったのですか」
「そうよ。私はその人の話にすごく興味を引かれて、もし成功したら絶対協力するって言ったわ。でもこんな事起こるわけがない。なんでイタズラするの? 私の気を引こうったってだめよ。あなたとは一度飲んで、楽しい話をしただけ。私にその気はないから」
 電話は一方的に切られた。


 私は床にうずくまっていた。どのくらいそうしていたか分からない。何時間か、それとも何分か。時計もなく、風景も動かないので、時間の感覚がうまく働かない。
 ここでじっとしていても仕方がない。部屋の外に危険な罠が仕掛けてあったとしても、用心深く進めば回避できるのではないか。犯人は私に、この不気味な空間にずっといる事を要求しているのだろうか。鍵が掛かっていなかったとしたら、答はノーだ。
 私は思いきって立ち上がり、携帯を持ったままドアに近づいていった。進むにつれて、寒気がしてきた。その正体は、壁のそばに来た時に分かり、全身に鳥肌が立った。
 蟻である。
 いったい何万匹、いや何億匹いるか知れない蟻が、びっしりと彫りこまれているのだ。素材は他と同じであった。布のように感じたのは、触覚がすべて壁から突き出しているからであった。なんという細かい作業だろうか。
 恐ろしい。とにかく出よう。私はドアノブに手をかけ、回した。何の抵抗もなく扉は開いた。犯人は私を、ここに閉じ込めておく気ではないらしい。
 ゆっくりと、慎重に踏み出す。どうやら、予想したような攻撃はなさそうだ。外には廊下が真っ直ぐにのびている。何か変わった物はないか。銃や、毒針が仕込まれていそうなものは。そんな事を考えながら私は進んだ。
 犯人はどこにいるのか。
「おおい、誰かいないか」私は叫んだ。
 胸に染み込むような静寂が答える。
 それにしても、なんという古びた建物だろう。きれいにしているが、柱にも、壁にも、床にも、無数の傷が見られる。築年数が長いのか、あるいは廃屋なのか。だが、部屋の石膏像は比較的新しいようだった。
 用心深く歩を進める。先ほど出てきたドアの向かい側と、前方の左右に同じような扉が並んでいる。私は少し前進し、左側のドアを開け、入った。
 壁を埋め尽くさんばかりに並べられた絵画が目に飛び込んできた。角を生やした一つ眼の巨人が海から出てこようとしているもの、エアコンに、大量の耳がくっついているもの、マネキン人形を抱えて逃げるように走っている男、いずれも奇怪な絵ばかりであった。そのうち、他より一際大きい絵画に、私の目はとまった。
 毛の長い、大きな犬だ。しかしチャウチャウのような種類ではなく、マルチーズなのだ。人間の腕が奥に向かってのびていて、手に噛みつこうとしている。
 背景には通行人が小さく描かれているが、皆こちらを見て嘲り笑うような表情をしている。
 私の中に正体の分からない不安感がわき起こり、自分の右手を見た。人差し指に傷跡がある。絵の中の犬も、人差し指を噛もうとしている。さらに、根元に小さなほくろがあるのを見つけた。私にも同じ位置にほくろがある。これは、私の腕なのか?
 突然、頭にイメージが浮かび上がった。小さい頃の自分が、マルチーズに噛みつかれているのだ。そして私は泣き喚く。指からは血が滴り落ちている。映像が浮かんで消えるまで、ほんの一瞬であった。
 何かが思い出せそうで思い出せない。
 今のが本当にあった出来事だとしたら、この絵はいったい誰が描いたのだ。私自身? そんなバカな。だとしたら、自分の絵がなぜこんな場所にあるのだ?
 子供の時犬に噛まれた事、人差し指の付け根にほくろがある事を知っている人物。かなり親しい間柄だ。家族か、親戚か、友人か、あるいは……さっきの女!
 いや、彼女は一度会ったきりだと言っている。しかし、この状況では彼女がもっとも疑わしい。いったい何をしたいのだ。記憶をなくす前、私はあの女とどんな会話をしたのか。
 時間をかけ、一つ一つの絵を鑑賞していった。冷たく、恐ろしい世界、しかしなぜか、自分の心に違和感無く浸透してくるような気がする。
 私はそこを出て、向かい側のドアを開けた。
 今度は、鉄の部屋だ。重々しいオブジェが、壁に沿って並んでいる。人が乗った馬、怪鳥、巨大なムカデ、星――いや、ヒトデだろうか。どれも抽象的で、単なる鉄くずにも見える。鉄板が直線的に切り取られ、溶接されている。色は塗られておらず、金属の肌を露出している。
 これらを作り出した奴は、様々な分野の芸術に手を出しているようだ。それとも自分の創作物ではなく、コレクションなのだろうか。だがそんな金持ちが廃屋に住んでいるとは考えにくい。
 芸術家はわずかな貯金で古い家を買い取り、自分の世界を構築したのだ。だがそれを私に見せる意図はなんだろう。
 もう一度彼女に電話をしてみることにする。呼び出し音が鳴る。
「はい」
「あの、平田ですが」
「もう、なによ。しつこいわねえ」
「聞いてください。私はやましい気持ちなどないんです。本当にすべてを忘れてしまったんです。ところで」さて、何と聞こうか。「あなた、芸術の才能がおありですか?」
「はあ? どういう事よ」
「この家は奇妙な美術品で埋め尽くされているようです。その中に、私の事をよく知っている人物でなければ描けない絵を見つけました。小さい頃の私に、犬が噛みつこうとしているんです」
「あら、子供の時の事は覚えているのね」
「違います。絵を見て思い出したんです。どうもあなたの言う事は怪しい。部屋に転がっていた携帯に、あなたの番号だけメモリーされていたのも変です。私をこんな目にあわせているのは、あなたなんでしょう?」
「いやだ。とんでもない勘違いね。でも、記憶喪失になった事は信じてあげる。教えるなって言われたけど、ちょっとだけヒントね。二階に上がってごらんなさい」
 電話はまたしても切られた。どういう事だ、これは。幸い、電波が来ないような地理ではないらしい。窓はないが、壁がアルミ箔で覆われていない限り電波は届く。彼女との連絡だけが頼りだ。しかし、これでは五里霧中だ。
 悩んでいる私の目に、一つのオブジェが飛び込んできた。犬にまたがったポニーテールの女の子だ。いや、犬じゃない。
 私の脳裏に再び短いイメージが浮かんだ。メリーゴーランドで、小さい馬にまたがって、こちらに向かって手をふっている妹だ。


 二階に行く前にもう一つの部屋――最初にいた場所の向かい側にある部屋を見ておこうと思った。ドアを開けてみると、そこはトイレと風呂が一つになったユニットバスであった。
 廊下の突き当たりは玄関で、横に階段がある。そうだ。なんという事はない。ここから外に逃げ出せばいいではないか。もっとも、開けばの話だが。
 しかし扉はびくともしなかった。よく見ると、溶接されていた。
 階段を上りながら、私は恐ろしい可能性を考える。自分をこんな目にあわせているのは、自分自身ではないのか。彼女のもったいぶった言い草が、過去の思い出を題材にした作品が混じっている事が、そして、ほくろまで正確に描かれた手が、それを示唆していた。京野明美の言う「ある人」とは私のことではないのか。だが一体なぜ? 彼女は「成功した」と言っていた。意図的に記憶を消すことなどできるのか。
 二階も、四つの部屋が廊下をはさんで並ぶ構造になっている。私は手前の左側の部屋に入った。そこは台所、というより食糧庫であった。缶詰類が多い。レンジで温めるご飯や、味噌、コーヒーといった保存食ばかりだ。犯人――あるいは私は、ここで長い期間過ごすつもりなのだろうか。
 次に、向かい側の部屋に入る。ここは書斎のようだ。本がたくさん並んでいる。机があって、なにやら数種類の薬がのっている。私はそのうちの一つを取り上げた。錠剤の入った銀色のシートに、「ハルシオン0.25mg ハルシオン0.25mg……」という文字が並んでいる。
 なんだこれは。
 他の薬をつかむ。こちらは金色っぽいシートで「ラナックス0.8mg ソラ」とある。左右の端で文字が切れている。やはり同じ単語が並んでいるのだとしたら、「ソラナックス」だろうか。まだ数種類の薬剤がある。
 もし私のものならば、何の病気だろう。
 とりあえずそれはほうっておいて、書棚をながめる。「記憶のメカニズム」、「記憶の不思議」、「ヒトと記憶」、……。記憶に関する本が多いようだ。私は「記憶のメカニズム」を引きぬいた。
 ――逆行性健忘 一般に「記憶が飛ぶ」という場合は、この事を指します。多量に飲酒した後、翌日目が覚めると、寝るまでの行動がすっかり頭から消えてしまっている状態です……
 私はページをめくった。
 ――記憶は、その内容によって三つに分類されます。エピソード記憶は、いわゆる思い出です。過去の出来事を覚えていることです。手続き記憶はバイクに乗ったり、泳ぐなど体で覚えた技術です。意味記憶は人や物の名前、その存在や、常識などの記憶です……
 私の場合、言葉の意味や携帯電話の使い方は分かるから、エピソード記憶がなくなっているらしい。
 本を元に戻す。彼、彼女、あるいは私は、なぜ記憶について調べているのだろう。人為的に喪失させる方法を見つけるため? そんな事が可能か? しかし、もしそうだとしたら、私に対しては成功したということになる。
 私は書斎を出て、隣りの部屋に入った。
 大量の石膏像だ。しかし目覚めた場所にあったような、壁に彫りこんだものではない。立像だ。怪奇的で、醜悪で、美しい。
 その中に見覚えのある人物像を見つけた。誰だろう。
「芸術家になるだと? ふざけた事を言うなよ」という声が突然頭の中に響き渡った。
 美大で友人だった、岡田だ。
「お前の力量で、プロとして飯を食っていけると思うか」
 確かに、彼の力は抜きん出ていた。優秀だった。
「みんながあっと驚くような、斬新な物を生み出さなければならないんだよ。でなきゃ、誰が振り向くもんか。お前のは陳腐で、幼稚で、子供でも作れるような代物だ」
 屈辱だった。彼の言った通り、その後私の作品はまるで売れなかった。
 ジグソーパズルのピースをはめるように、徐々に記憶が回復している。芸術家が――私が、そうなるようにわざわざ思い出を呼び覚ますようなものを各部屋に置いたのだろうか。
 私ははっとした。妹の像、なぜあれが置かれていたのか。妹は、あの後すぐに交通事故で亡くなったのだ。その悲しみは深く心に刻まれていた。
 この家は私に強い圧力を与える。重圧の箱だ。
 彼女に三度目の電話をかける。
「二階には保存食と、薬と、記憶に関する本がありました」
「あらそう。それで、何の薬か分かった?」
「さあ、私のだとしても覚えていないし、他人のだったら分かりません」
「そうねえ。あなたをそこに閉じ込めた人は、記憶の本をたくさん読んでいたみたいね。薬の本なんかもあるんじゃないかしら? 何か分かるかもよ」
 私は書斎に駆け込んだ。本棚を調べると、「薬の効能を知る本」というのがあった。ハルシオン、ソラナックスについての説明を探し出す。それらは、睡眠薬やマイナートランキライザーであった。そしてその副作用に……健忘があった!
 ――ベンゾジアゼピン(BZ)系薬剤は、BZ受容体に結合して効果を発揮します。しかし、そのBZ受容体は記憶に大きく関与する海馬に多く存在するため健忘の症状が現れるのです……
 ――A子さんの体験談 私、ハルシオンとか飲んでた。前の彼氏と別れちゃってさあ。リスカして入院させられて。その時出されたやつ。もう、恐ろしいほどどんどん忘れていった……
 体に衝撃が走った。そうだ。私は記憶をなくす方法を探し求め、これらの薬にたどりついたのだ。普通、病院に行かなければ手に入らない。私は、違法行為によって入手したのだ。中国の、危ない商品を取り扱っている会社から買ったのである。
 どれとどれの薬をどのくらい飲めば自分の望む結果が得られるのか。私は自身を実験台にして試した。組み合わせによっては結構いい所まではいった。だが、たいていは服用後から目覚めるまでの間の記憶がなくなっているだけだった。しかし、ついに成功したのだ。
 私は、最後の部屋に向かった。これですべてがはっきりする、そんな予感がした。中に入ると、そこは額縁に入っていない大量のキャンバスが積み上げられていた。他と違い、窓があった。その下には重々しい鉄製の板が置かれている。そして、画架にたてかけられた一枚の大きな絵が、私の頭を直撃した。
 冠を戴いた王が苦悩する様子を描いている。彼は箱の中に閉じ込められている。外にいる家来や、庶民達からはけっして見ることができない。
 箱はこの家だ。そして王は私自身。私は、自分で築き上げた世界の王なのだ。神と言ってもいい。そして芸術は、誰からも見られる事はない。
 私はついに、すべてを思い出した。
 京野明美に電話する。
「ようやく、全部思い出しました」
「そう」
「前にも話しましたが、私は『閉じた芸術』を作りたかったのです」
「そんな事を言ってたわね」
 バーで、私はだいぶ酔っていた。つい、自分の心に秘めた計画を、誰かに話したくなった。そこにいたのが彼女である。
「どんな賞もとれませんでした。公募展にも蹴られました。私の作品は、誰にも理解されませんでした」
「よくある事よ」
「私は、人に認めてもらうのをあきらめました。そもそも、美術とは誰かに見てもらうためのものでしょうか」
「なんで記憶を消そうと思ったんだっけ。この前聞いたかもしれないけど、私、酔ってたから」
「作品は、着想を得た時はすごいと思うんですよ。しかし、絵の具を重ね、修正を繰り返すうちに、本当にすごいのか分からなくなってしまいます。見慣れて、ぼやけてしまうんですよ。私は、自分で築いた世界を客観的に楽しみたかったんです。なにしろ、閉じていますからね。誰かに評価してもらうわけにはいきません。客は私だけです。自分で鑑賞するためには、まったく初めて見たような状態にするには、記憶を消す必要があったのです。つまり、観客を作りだすために、脳をリセットしなければならなかったのです」
 私は記憶をなくして自分の創作物を見た時、なんと不気味で、恐ろしいのだろうと感じたのではなかったか。そうだ。これは人に見せるために作ったのではない。他人に鑑賞させ、喜ばせ、感嘆させ、賞賛してもらう。それが「美」の意義なのだろうか。
 多数決によって価値が決まるような代物は、一定の枠にはめられてしまう。誰も考えつかなかった斬新なもの、見る人を白けさせないものが求められる。それが芸術の意味だろうか。
 大自然は人を感動させる。荘厳な峡谷、壮麗な滝、怒り狂ったように溶岩を噴き上げる火山、南極の、一日中闇に閉ざされた冬の季節に、空に冷たく輝くオーロラ、そういったものは、人間を楽しませるために作り出されたものだろうか。
 違う。それらの「美」は、評価や賞賛とは無関係である。独立した存在なのだ。
 私は誰にも鑑賞されない、「閉じた芸術」を生み出したかったのだ。
 そして最終目的は、自分自身が作品の一部となる事だった。私は、この世界の神となるのだ。
「どうしたの? 黙っちゃって」
「誰にも言わないで下さい。ここは自宅から遠く離れた場所です。電話番号から調べることはできません。警察にも言わないで下さい」
「普通なら、助けようとするでしょうね。でも私はあなたの考えに賛同した。言ったでしょう? 成功したら、絶対協力するって」
「有難う」
 私は電話を切った。
 窓枠に鉄板をはめれば、誰にも見ることができない「閉じた芸術作品」が完成する。二度と取りはずせない仕掛けになっている。外には田園が広がっている。右手に山が見える。小さな家が、点々と建っている。密やかな場所だ。私は携帯を美しい風景の中に放り投げた。これで、連絡手段はなくなった。
 私は重い鉄の板をゆっくりと持ち上げ、静かにはめた。


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