私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、分かりきっていた。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選択肢はない。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったように、同じ事をやっている。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられているのだろうか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱い光が、私の不安を増強する。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓がある。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどうせよと言うのか。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を見るような格好に描かれている。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのものではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭をなでながら女の肖像画を見下ろしている。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、慎重に歩いていく。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいないことだけは覚えている。理由は分からない。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構造としてはやや奇異な感じを受ける。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているような彫刻がほどこされている。
 私は部屋に入った。中は真っ暗だ。勘を頼りにしてさまよう。ふいに、「ふふふ」という少女の笑い声が聞こえた。もう何度も聞いているのに、慣れることはなく、体が寒くなって鳥肌が立つ。明かりのスイッチを見つけることさえできれば、とは思うのだが、何度来てもどこにあるのか分からない。あるいは、そんなものはないのかもしれない。ふいに、部屋の闇が黒さを増した。カーテンの向こうからさし込む月明かりさえ見えない、真の暗黒だ。それとは逆に、頭の中が突然真っ白になる。ぼんやりする。記憶があいまいになっていくような気がする。完全に消去されるのではなく、半端な形で残される、そんな感じだ。外部の闇と内部の白の矛盾する光景の中、もう一度不気味な笑い声が聞こえ、それだけは強く印象づけられる。私は耐えきれなくなり、部屋から飛び出し、ドアを閉じた。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているような彫刻がほどこされている。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構造としてはやや奇異な感じを受ける。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいないことだけは覚えている。理由は分からない。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、慎重に歩いていく。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭をなでながら女の肖像画を見下ろしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのものではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を見るような格好に描かれている。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどうせよと言うのか。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓がある。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱い光が、私の不安を増強する。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられているのだろうか。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったように、同じ事をやっている。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選択肢はない。
 私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、分かりきっていた。

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