祖母が亡くなり、葉二はその葬儀のために、香川の実家に帰ってきていた。線香の煙の後ろで微笑む祖母の写真を見ているうちに、葉二はふと、子供の頃のことを思い出した。
 昔、三つの不思議があった。一つは、決して見てはならぬ鏡のことである。それは納屋の奥に、古めかしい鎧や日本刀に囲まれてひっそりと置かれ、幾重にも布がかけられ、ひもがぐるぐると巻かれていた。なぜ祖母が、あれほど厳しく鏡を見ることを禁じたのか、幼い葉二には理解できなかった。
「あれを見た者には不幸がおこるの」
 そう言う祖母の顔はどこか悲しげだった。
 二つめは、葉二が五歳の頃の話である。葉二が田んぼの畦道でトンボを追っていると、突然何もない空間から、人間の手がにょっきりと突き出した。
 葉二が目をまるくしていると、その手は煙のように消えた。あれは何だったのか、子供の見た夢だったのか、分からない。
 三つめは葉二が中学の時に起こった。葉二はあることで、父親からひどい折檻を受けていた。竹刀で体中を何十回となくうたれ、ついには「目をつぶしてやる」と言われ、右眼を突かれそうになった。その時父の背後にいきなり大きな鋏を持った両腕が現れ、背中を突き刺した。葉二と一緒にいた娘と、何事かと思い部屋にとびこんできた母親が目撃しているので間違いない。父は次の日の朝死んだ。


 葉二は、納屋の中にいた。祖母がいなくなった今、もはや鏡を見ることを禁ずる者はいない。そうすると、あの鏡が見たくてたまらなくなってきたのだ。
 葉二はついにひもをほどき、何枚もの布をはぎとった。そこに、古びた細長い鏡が現れた。
 あまりに古く、全体がくもってもはや何も映さない。が、しかし、しばらく見ているうちに鏡に異変が起こり、葉二は息をのんだ。
 そこには、赤子をとりあげる産婆と、それをうれしそうにながめる若き日の母の姿があった。呆然とした葉二の前で、鏡の中の情景は次々に変わっていった。最初猿のような顔だった赤ん坊は、だいぶ人間らしくなってきた。写真で見たことがある。赤ん坊の頃の葉二だ。
 鏡は次々に葉二の思い出を映しだしていった。小さい頃の葉二が田んぼの畦道で、はしゃぎながらトンボを追い回していた。思わず葉二は、鏡にふれた。手は何の抵抗もなく、まるで池の中にひたすように入っていった。鏡の中の葉二がびっくりした顔をしてこちらを見たので、慌てて手をひっこめた。
「これは……」
 何かの科学雑誌で見た「タイムトンネル」という言葉が、葉二の頭に浮かんだ。
 そうしているうちにも鏡の情景は次々に移り変わっていった。小学校の頃の葉二。病弱だった葉二は、元気に走り回る他の子供達を一人ぽつんと見ていた。
 そしてついに、鏡は忌まわしき過去を映しだした。葉二は顔をしかめた。
 葉二は自分の部屋で、ある娘と愛し合っていた。葉二も、相手の娘もまだ中学生だった。
 そこへ現れた父は、烈火のごとく怒り、葉二の剣道用の竹刀をむんずとつかみ、これでもかと言わんばかりにうちつけた。
「いいか。今度やったらお前の目をつぶしてやるからな!」
 だが、葉二は若かった。二人の情交はその後も続いた。
 そして運命の日はやってきた。夜まで帰らぬと言っていた父が、昼過ぎに帰ってきたのだ。二人の姿を見つけた父は、再び葉二を激しい勢いでうった。
「約束通り目をつぶしてやる。覚悟しろ!」
 葉二の目の前に、竹刀が迫ってきた。
「いけない!」
 鏡の前の葉二は慌てて周りを見回した。目についた庭木のせん定用の大鋏をむんずとつかみ……
 だが、葉二にはできなかった。厳しく、恐ろしく、それ故に憎んでいた父も、今となってはなつかしい。そんな父を殺すことなど、とうていできるはずがなかった。
 ブン! と竹刀が突き出され、鏡の中の葉二は「ギャッ!」と声をあげた。うめき、うずくまる葉二。自分がしたことに青くなり、竹刀を捨て、かがみこむ父。
「大丈夫か! 葉二!」
 一体どうなったのか。だが父の背がじゃまになってよく見えない。ふっとその情景が消え、今度は病室でうんうんうなる痩せ細った父を映しだした。
 次に医者と母が話し合っている姿を映した。
「肺癌ですな。もってあと二ヶ月といったところでしょうか」
 最後に鏡は父の葬儀の様子を映し、そして元の何も映さぬ鏡に戻った。
 結局、父は死ぬ運命にあったのだ。過去の一部が変わったとしても、運命というものは、全体としてはそう変わらない。そういうものなのかもしれないな。
「葉二、何やってるの! あれほどその鏡を見てはいけないと……」
 いつの間にか背後に立っていた母の声に驚き、葉二はふり返った。
「キャアッ! あんたどうしたの、その顔!」
 ふり返った葉二の右眼はつぶれていた。

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