SF界の草分けにして重鎮である緒方先生は、むしろホラー小説での評価が高い。そんな緒方先生を訪ねたのは、暑さの厳しい八月初めのことだ。
 炎天下の京都で、汗を流しながら石段を上っていくと、緑の木々に囲まれた古い屋敷が見えてきた。それが先生の邸宅だ。
「またか。どうしてこの時期になると、みんな私に怖い話を書けと言うのだ」
 浴衣姿で座布団の上に正座し、腕組みした先生は、私に向かって渋面を作った。
 夏になると怪談の需要が高まる。S誌もK誌もこぞって緒方先生に執筆依頼をする。
「私はもう飽き飽きしている。みんなどうして夏になると恐怖小説を読みたがるのだ。涼しくなりたいから? これだけクーラーが普及した時代に何の意味があるんだ」
「はあ」
「私はむしろ暑い夏だからこそ効果があるような話を書きたいね。"痒(かゆ)い話"とか、"からい話"とか"怒る話"とかね。読む方も、エアコンなんかつけないで窓を開けて網戸にして、蝉の声がうるさい中で読んでほしいものだ」
「あっ、それいいですねえ。ぜひ"痒い話"を書いて下さいよ。背筋がぞっとするような痒いやつを」
「どうして痒いと背筋がぞっとするんだ」
 真顔で問われ、私は答に困窮した。こういう先生だから、非常に付き合いにくい。


  痒い話

 最近、少し飲んだだけでも頭が痛くなって熱が出るようになった。飲み過ぎで肝臓かどこかがおかしくなったのかな、と思う。
 その日の私もそんな調子だった。酔うとたちが悪くなる課長からやっと逃れて、家に帰り着いた時にはかなり気分が悪くなっていた。服をぬぎ捨て、風呂場の鏡の前に立った時、異変に気づいた。
「あっ」
 体中が赤くなっているのだ。胸から肩にかけて、そして太もものあたりと、足の甲も。後ろを向いて首だけねじると、背中もおかしくなっていた。明らかに酒のせいではない、もっと真紅に近い色だ。しかし能天気な性格である私は、「まあいいか」と気にもとめていなかった。
 次の日、案の上熱が出た。それだけなら最近ではよくあることだったのだが、その日は別の症状が出た。
「むっ、痒いな」
 パジャマの下に手をつっこんで、胸やら背中やらをやたらにかく。そういえば最近爪を切ってないな、などと思う。
 朝ではあったが症状を確かめるため、パンツいっちょになり風呂場の鏡の前に立つ。赤みはひくどころか余計に広がっていた。へその周りだけ残して腰から首の下まで全体に、そして太ももの変色は膝の方までのびていた。やはり肝臓か腎臓が悪いのだろうか。
「うー、会社休みてえなあ」
 しかし大事な会議があるので休むわけにもいかず、仕方なく背広を着て解熱剤を飲んで出かけた。
 朝のうちはよかったのだが、昼が近づくにつれて痒みが増していった。時々、太ももや背中を激しくかく私を、OLの若い娘が不信げな目つきで見る。
 蚊に刺されたのなら、一、二箇所の局所的な症状がある。刺激はそれよりゆるやかなのだが、その代わり全体に広がっている。我慢してパソコンの画面に向かうのだが、剣山を軽く押し当てられたような感覚が腹のあたりに起こり、Yシャツの上から爪でこすると、今度は太もものあたりがむずむずしてきて、太ももをかくと今度は背中がむず痒くなってくる。まるでゴキブリみたいな痒みの虫が体の中にいて、そいつがあっちこっち歩き回っているかのようだ。
 会議の間も私は我慢しなければならなかった。耐えられず指でこすり続ける私を、皆が白い目で見た。それでもなんとかプレゼンテーションをやり遂げた。
 五時になるやいなや、私は会社を飛びだした。電車の中で、まるでオシッコがもれそうな小僧のようにもじもじし、駅から走りだすと、薬局に駆け込んだ。痒み止めの塗り薬を買い、家に飛んで帰り、真っ裸になって体中にすりこむ。
 私は大きなため息をついた。
「やっと少し楽になってきた」
 次の日になっても赤みはひかず、会社に電話して休む旨を伝えると課長が怒りだした。
 重要な製品の出荷が近づいて開発部隊は徹夜で頑張っているのに、痒いぐらいで休むとはどうの、こうの。
 全く頭にくる親父だ。
 私は病院で診てもらうことにした。待合室で、再び豆が炒られるような感覚が膨れ上がってきた。
「原因は分からないけど、何かのアレルギーだね」と医師は言い、「おーい、点滴の準備して」と看護師に指示した。
「とりあえずお薬出しときますから。あ、それからたんぱく質はできるだけとらないで。肉とか、卵とか」
 点滴の効果は、二時間ほどで薄れた。たまらず、病院でもらった薬を鞄から取り出す。包装のシートに「ポララミン」と書かれた赤茶色の錠剤を一錠取り出し、口に放り込む。
 その日一日は長かった。本など読むがあまり頭に入らず、ともすると発作的な刺激に襲われ、服をぬぎ捨て皮が破れんばかりに爪を立てる。
 真夜中、夢の中で私は何百匹という蜂に襲われた。
「やめてくれ。ここから出してくれ」
 体中に釈迦の頭部の、肉けいのような膨らみができて、痒くてたまらずそのぶどう状の塊をかきまくると、あるものは裂け、あるものはつぶれて血が噴き出す。
 はっと目が覚めると、私は背中で沸騰する感覚に対抗していた。かけばかくほど良くない、と医者に言われたので我慢しようとするのだが、容赦なく襲う噴火に耐えきれず、背を、胸を、太ももを、腹を、引っかく。もはや痒みというより、あちこち針でつつかれるような感じだ。
「一回一錠、一日二錠まで」という注意書きを無視して、一気に三錠ポララミンを飲み込む。副作用の眠気で、泥のように眠りこんだ。
 次の日の朝鏡を見た私は絶句した。胸に、腹に、腕に幾筋ものミミズばれができ、皮膚は裂け、赤みは斑点状の集まりとなり、太ももの皮膚はただれていた。
 その日、私は無断欠勤した。あんな課長なんか知るもんか。
 私は昨日より大きな病院に行った。やたらあちこちに注射をうたれ、薬を入れられたり血を抜かれたりした。
「特定はできませんけど何かの細菌かウイルスですねえ」
 肝臓か腎臓のせいではないか、アトピー性皮膚炎ではないのか、等聞いたが、医者の答は全て「NO」だった。
 だいたい、「何かの細菌」って何だよ、と思ったが、もはやしゃべる気力もなく、数種類の薬をもらって帰った。
 副腎皮質ホルモン剤を何度もぬりまくるが、効きめは十分ともたなかった。しかも使えば使うほど効かなくなってくる。皮膚のただれはどんどん広がっていき、かいてできた切り傷をその上からさらにかくのでやがてそれが裂け目となり、そのふちが盛り上がって白くなり、爪をぐいぐいと押しつけるとかえって痒みが増し、引っかくとついには血が流れた。
 暑いのがいけないのかと思いクーラーを思いっきりきかせ、水風呂に入るが、効果はなかった。
 夜はなかなか寝つかれなかった。
「酒を飲むと悪くなりますよ」
 と医者に言われたが構わず大量に飲み、ようやく眠るが、何度も目を覚ます。
 真夜中、蠅が羽ばたくような、低くうなるような音で起こされた。何だこれは。幻聴か?
 ふいに、銅鑼(どら)が頭の中で鳴り響いた。
「チャチャチャチャ、チャチャチャチャ」
 一体何だ。これは確かケチャとかいう民族音楽だ。
「うわああー」
 いきなり背中が爆発したように刺激され、思わず大声をあげた。
「オウ、オウ、オウ、オウ」
「チャチャチャチャ、チャチャチャチャ」
 幾千もの痒みの点がまるで放送終了後の、テレビの砂嵐のように、あちこちに現れたり消えたりを繰り返した。何百羽ものキツツキに体中をつつき回されるような苦痛のため、私はベッドの上でもがき、のたうち回った。
 指先に湿った感触があり、慌てて灯りをつけると、血と膿とで濡れていた。
 私は部屋の隅に置いてあるゴルフバッグからクラブを一本ぬきとった。
「ちくしょう! 馬鹿野郎!」
 叫びながら、室内の物を片っ端から叩き壊した。
 人付き合いがあまり良くないせいだろうか。隣人の通報でようやく警察と救急車が来た頃には、すでに明け方になっていた。私は
「出てこい。出てこい」
 と言いながら、腕に針を何度も突き刺していたそうだ。しかも体中カッターで切ったらしく、血まみれになっていたという。


<了>


 あれから二週間後、相変わらず浴衣姿で正座をし、腕組みしている緒方先生の前で、私は原稿に見入っていた。
「へえー、いいじゃないですか。何かこう、読んでいるうちにむず痒くなってきますね」
「ふん、気楽なものだな。この苦しみは実際に経験した者でなければ分からんよ」
 先生は袖をまくりあげた。巻かれた包帯の端から、ケロイド状のただれがはみだしていた。針で突いたようなあとと、カッターで切ったような傷も。
「何かの細菌かウイルスだそうだからね。言っとくけど、君、これ、うつるよ」
 ふと、私は自分の二の腕をかいているのに気づいた。

inserted by FC2 system