ガラガラガラという大きな音が、深夜の病院の廊下に響く。寝台の上に担架を載せた簡易なベッドが廊下を走る。
 患者は手術室に運ばれ、緊急手術を受ける。オートバイを走らせていた男は、いきなり横から飛びだしてきた車と衝突したのだ。
 男は一命をとりとめた。しかし頭部に深刻なダメージをおったのであった。
 私の名は羽賀泰典。外科医である。私はその男が入院している個室に入っていった。腕や足や頭に包帯を巻いた痛々しい姿で、男は横たわっている。男の横では点滴がポタリ、ポタリと滴をたらしている。
 私はベッドの上で眠っている患者の顔を見るなりギョッとした。
「こ……この患者の名前は?」
 看護婦が答える。
「山下泰典です」
 それは、三十年前の私の名前だった。そして今ベッドの上で横たわっているのも、やはり三十年前の私そのものだったのである。
 事故が起こった八時間後、つまり朝十時に、男の両親がやってきた。
「ああっ、泰典! しっかりして。一体どうしたの!」
 母親はベッドにすがりついた。
「先生、む、息子の容体は!?」
 私は父親に答える。
「お気の毒ですが、息子さんは頭部に重大な損傷をおっています。もう意識は……もどらないかもしれません」
 ワアッ! と母親が泣きだした。私は軽い目眩を覚え、急に風景がセピア色になったように感じた。
 その母親と父親は、まぎれもなく若い頃の私の両親だった。
 父も母も、患者と私が同一人物であることに気がつかなかったようであった。無理もない。今の私はとうに五十を越え、眼鏡をかけ、髪は白髪混じりになっているのだから。姓も羽賀に変わっている。
 二日たった。父は仕事があるため実家の鹿児島に帰り、母が付添いとして残っていた。
 私は眉間をもんだ。これはいったいどういうことなのだろう? 二日間、私はそのことばかりを考えていた。
 そしてもう一つ、私の気にかかっていることがあった。患者の……つまり若き日のW私Wの脳波が異常なパターンを示しているのである。
 私が病院の廊下を歩いていると、親友の精神科医である和久井が向こうから近づいてきた。
「よう、どうした、羽賀。そんな深刻な顔して」
 私と彼は今だに羽賀、和久井と呼びかわしているような仲である。ちょうど昼飯時だったので、私は彼と一緒に昼飯を食うことにした。
「実はな、和久井。俺の患者で昏睡状態の患者がいるんだが……どうも変なんだ」
「ほう? どう変だ」
「脳波がな……つまり、その、ずっとレム睡眠の状態が続いてるんだ。時々それより深い睡眠に入ることもあるんだが、ほとんどがその状態だ。おかしいだろ? なあ和久井、レム睡眠の状態がずっと続くとどうなる」
「ふーん、ずっと夢見てるわけか。人の睡眠はその深さによって第一度から第四度までに分けられる。第一度がずっと続いてるってことはずっと夢を見てるってことさ」
「身体的にはどうなる?」
「疲れやすくなるな。頭も鈍ってくる。具体的には感覚、反応速度、運動速度、記憶力、計算力とも鈍ってくる。深く眠れないってことは不眠と似てるからな。でもそれは起きた時の症状だ。ずっと眠ってる場合は分からないな。まあ、しばらく様子を見ることだ」


 夢……。W私Wが現れたことは、私に今までの人生を振り返らせるきっかけとなった。
 私が二十代の時、確かに私はオートバイが車にはねられて、大怪我をおったのである。そのあとどうなったのか……。私には思い出すことができないのである。とにかく私はその後結婚し、事情により妻の姓に変わり、医者となり、そして娘が生まれて……。しかし私はその記憶が本当にその通りなのか自信がないのだ。
 なんだかひどく記憶があいまいとしている。今までにはなかったことだ。
 W私Wはどんどん衰弱していった。ベッドの上のW私Wを見ながら、私は妙な考えにとりつかれる。ひょっとすると今の私は、W私Wが見ている夢の中の存在なのかもしれない。昏睡状態に陥ったW私Wは、夢の中でその後の人生を歩んでいる。そう考えると、今までの私の人生の記憶がところどころ欠落していることと、W私Wが時々ノンレム睡眠に陥ることとがつじつまが合う。
「何を馬鹿なことを考えているのだ、私は!」
「せ、先生、どうかしましたか?」
 心配そうに母が尋ねる。
「い、いえ、なんでも」


 一週間が過ぎた。私はあれから、ちゃんと夜寝ていることと朝起きていることを確認するようになった。もしこれが夢だとすると、夢の中でまた眠るというのは変な話だ。しかし眠っている間は、自分が本当に眠っているのだということを、確認することができない。そんなある日……
「先生、大変です! 山下さんが!」
 私はW私Wの元へと急いだ。
「血圧は?」
「四十、二十です」
 なんということだ。このままではW私Wが死んでしまう。そうすると私はどうなるのだ?
 ピッピッピッ。
 心臓の活動を示す緑色の線が、規則正しくはねあがっている。
 胡蝶の夢。私が蝶の夢を見ているのか、それとも蝶が私の夢を見ているのか。
 私はW私Wの夢の中の登場人物に過ぎないのか、それともこれは現実で、年をとって記憶があいまいとなった私が、この患者と父や母を、若い頃の自分とその両親だと勝手に決めつけているのか。
「先生」
 ぼそりとつぶやく声に、私は背中に冷水を浴びせられるような思いをした。振り向くと、そこには看護婦が口に手を当てて立ちすくんでいる姿と、上体をむっくりと起こしているW私Wの姿があった。
「先生」
 今度は、W私Wははっきりと聞こえる声で言った。
「こりゃあ、夢だよ」

 ピー。
 心臓の活動を示す緑色の線が、ついに平らになった。

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