<序>

 かつて私はマジシャンであった。魔術は人を魅了する。空中を浮遊する美女、人体切断術、一瞬にして消え去るトラック、静止するしゃぼん玉。
 マジック考案者から種を購入する場合もあるだろうが、多くの手品師がトリックを自作する。私も長年に渡り、研究を続けてきた。もちろん、継続する意志を支えてきたものは観客の仰天する様である。
 だが、そうした作業に飽きてくると、別のアプローチを試してみたくなった。初めに思いついたのは、映像で人に魔法をかけることであった。といっても、私は確率に頼ったものには興味がない。ある超能力者が「これからテレビをご覧の方々の時計を狂わせます」と言った。多くの視聴者から、故障したという電話がかかってきたのである。
 世界中には膨大な数の時計があり、今こうしている瞬間にも大量に調子がおかしくなっている、というだけの話だ。
 また、複数のカードを画面に映し、「この中から好きな一枚を選んでください」というのもよくある。「あなたが選んだのはこれですね?」と言って、心理的に多くの人が選択するものをクローズアップする。
 私は見た全員に術をかけたい。五年の歳月をかけて作ったビデオ、「ヒエラヒカリ」は、需要は少なかったが、一部の物好きな方には好評だったようだ。私の試みはひとまず成功したと言えるだろう。
 次に私が面白いと感じたのは、音によるマジックである。一番馴染み深いものは、催眠術であろう。これは時として危険な特性を持っている。例えば術者が被験者を高い場所に連れていき、「あなたは鳥ですよ。自由に羽ばたくことができますよ」と言えば、その人は飛び降りてしまう。もっとも催眠術は、声以外の要素も含んでいるのだが。
 音楽は癒しを与える。興味深い点は、人によって好きなタイプの曲が全然違うということだ。ある人物に快楽をもたらすジャンルが、別の人物には不快でたまらない。
 人間の脳の構造はだいたい似通っているが、 これほどはっきりと個人差が出る音はないと思える。
 逆に、多くの人が共通の反応を示す音もある。犬の声におびえ、猫の声になごむ。夜中の暴走族には誰もが怒りを覚えるだろう。
 私が三年かけて作ったCD、「ルム・ハナ」は、たいして売れなかったものの、術にかかったというお手紙を何十通も頂いた。
 さらには匂いを使ったトリック、感触によるマジックも研究した。私はこれらをビデオとCDで得た収入を元に、玩具としてネットで販売した。収支はとんとんであったが、一部の好事家から良い評価を頂いた。私は大いに満足している。
 こうしてたどり着いた究極の形、それは文字で人をあやつることである。文章には人間を動かす力がある。インターネットを見て笑い、本を読んで泣く。小説家になりたい人は、入門書を読んで「頑張って書くぞ」と張り切り、あるいはプロ作家デビューする難しさを知って筆を折ってしまう。
「合格」という文字が受験生を狂喜乱舞させ、書類が社員を遅くまで会社にしばりつける。
 私はこれからあなたに術をかけたいと思う。
 まずこの小説の<1>を読み、少し時間を空けて<2>を読んでほしい。私の術が成功すれば、<1>を読んでいるうちに暗示にかかったあなたは、私がさせようと思っている通りのことをしてしまうであろう。それが何かは<2>で明かすつもりだ。私の方法は確実ではないので、うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいるだろう。あなたが術にかかれば私の勝ち、かからなければ私の負けということにさせていただこう。

<1>へ

inserted by FC2 system