<1>

「ふうっ」
 <序>を読み終えたところで、私は本にしおりをはさみ、閉じた。
 人をあやつる方法には、どんなものがあるだろうか。最も有名なのが催眠術だろう。他にはサブリミナル効果がある。映画で、何コマかに一コマの割合で宣伝の絵を入れるとか、音楽といっしょに人の聴覚で聴きとれないようなメッセージを流すといったあれである。いずれにせよ、そこには術者がいたり、映像や音楽があったりする。この本のように文字だけで人をあやつるというのは珍しい。
 インドの奇術師マカジャ・ハーン氏の著書、「マカジャ・ハーンの呪い」は珍品中の珍品である。
 趣味で奇術の研究をやっている私は、今までに世界中の貴重品を集めてきたが、この本だけはどこをどう探しても見つからなかった。イギリスにあるグリーンリッジ大学の、心理学研究室で眠っていたものを、やっとの思いで見つけ出した時には、大喜びしたものである。
 著者のマカジャ・ハーン氏は全く無名だったのに、著書だけがマニアの間で有名になった。
 全部で二十の物語から成り、私はそのうちの最初の話、表題作でもある「マカジャ・ハーンの呪い」を読み始めたところだ。
「あなた、ご飯よ」
 妻の呼ぶ声が聞こえたので、私は扉を開け、ダイニングに出ていった。私が篭っていたのは、家族で「マジック部屋」と呼んでいる、自分以外には立ち入らせない密やかな場所だ。
 私が席につくと、息子がはしゃいだ。
「ねえパパ、手品、手品」
「ほら、ボブ。食事が終わった後よ」
 私は軽く笑って「まあいいさ。ほら、ボブ、見てごらん」と言って、両腕を振った。左腕にはめていた時計が右腕に移った。息子は拍手をして喜んだ。
 私はコップを手に取り、飲んだ。テーブルの上のペットボトルを見て、ミネラルウォーターをいつものより高いやつに変えたな、などと思う。水で何かやるのかと思ったらしく、ボブはがっかりした様子だ。
 私はチキンをほうばった。
「ねえ、あなた。またおかしな物を見つけてきたの?」
「ああ、本だよ。めったに手に入らない貴重品さ」
 ボブは好奇心に満ちた目を私に向けた。
「パパ、僕にも読ませて」
「だめだよ。とても大事な品でね」
 私は指を鳴らした。息子のコップがミネラルウォーターから大好きなソーダに変わった。
「パパの趣味にも困ったものね」妻は微笑んだ。「いつまでも子供なんだから」
 私はシチューをスプーンですくった。その時、ふと風景がぼやけたような気がした。おや、何だろう、今のは。私の手が一、二秒止まった。
「どうしたの? あなた」
 妻が不安そうに私の顔をのぞきこんだ。
「いや、なんでもないんだ」
 私はまろやかな液体とじゃがいもと人参を一気に口の中へ流し込んだ。
 部屋の雰囲気が変わったような気がした。わずかに青みがかって見える。ほんの少し、嫌な気分になった。まさか、マカジャ・ハーンの呪いにかかったのだろうか。悪い想像が浮かぶ。危険な性質を持っていて、発行が禁止になって、それで入手困難になったなどということは。
 何も起こっていないふりをして、食事を進めた。半分ほど終えた時、頭がぼうっとなっているのに気がついた。妻の姿がおかしい。二つの映像が五センチほどずれて重なっているような。
 私はあせった。急いでナイフとフォークを動かす。二人には知られたくない。ピザの最後の一片を口に放り込み、コップを空にすると、荒々しく立ち上がった。
「そんなに慌てなくても、本は逃げないわよ」
「ん、ああ」
 私はあいまいに答えた。
「食べ終わったら、手品、手品」
 私はボブの鼻先で人差し指を、八の字を描くように動かした。息子は頭の上に手をやり、突然現れた野球帽に驚いたようだ。
「すげえや」
 彼の声を無視して、私は急ぎ足で歩いていった。マジック部屋に飛び込み、ソファに腰掛ける。私は深呼吸すると再びページを開き、続きを読み始めた。


「お父さん、起きなさいよ」
 妻の声で郷田(ごうだ)は目を覚ました。いつものように体中が濡れている。不快だった。最近はうだるような猛暑が続いている。寝る前にエアコンを止め、網戸にして扇風機をつけて寝る。が、二時間後には止まってしまう。彼は遠い昔に思いをはせた。独り身の頃には、一晩中クーラーを効かせていたものだ。電気代など気にしなかった。
 彼は枕元の置時計をつかんだ。
「おい、どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだよ」
 目覚ましが鳴らなかったらしい。
「知らないわよ。こっちだって忙しいんだから」
 妻もパートで働いている。スーパーでレジ打ちをやっている。お客様には愛想よく、旦那には無愛想に。どこの家庭でもそんなもんだろう、と思って郷田は我慢していた。
 冷たいシャワーを浴びたいところだが、そんな時間はない。急いでパジャマを脱ぎ捨て、スーツのズボンとYシャツを着た。鏡も見ずにネクタイをしめながら台所へ入っていくと、妻も娘もほとんど朝食を終えていた。
 椅子に座ると、テーブルには食パンと目玉焼きが並んでいる。それはいいのだが、彼はカップを見て驚いた。
「なんで俺だけホットコーヒーなんだよ」
「氷が足りなかったのよ」
 まったく、結婚した頃はあんなにかわいかったのに。彼はその黒い液体を飲み干した。乾いた喉が熱せられ、嫌気がさす。
 他の食べ物は放っておいて、彼は洗面所に向かった。
「あーあ、もったいない」という娘の声が聞こえてきた。
 どうしようか、と迷ったが、顔だけ洗って歯ブラシと練り歯磨きと電気シェーバーを鞄の中に突っ込んだ。
「行ってきます」
 彼は玄関から飛び出した。
 いつもより一本遅い電車に乗って、ぎりぎりで出社時刻に着く。それでも、普段十分歩く距離を五分で行かなければならない。左腕に上着を掛け、鞄を持った右手を振りながら郷田は走った。そんな彼に容赦なく太陽光線が降り注ぐ。
 やっと駅に来た。プラットホームで、彼は荒い呼吸をしながらハンカチで額を、頬をぬぐう。とめどなくあごから雫がしたたり落ちる。
 向こうに自動販売機があって、彼より年上の親父が缶を口に押しつけているのが見えた。郷田の足が勝手にその方に向かった。近づくにつれて、それがアイスコーヒーであることが分かった。親父はいかにもうまそうに飲んでいるのである。彼の喉が鳴った。
 だが、無常にも列車が到着した。大量に人が吐き出され、掃除機で吸うように人間がなだれこんでいく。彼はその波に巻き込まれた。駅員が無理矢理押してなんとかドアが閉まる。
 電車は動き出した。徐々に心臓の鼓動がおさまっていく。周りの人間の汗が、Yシャツに染みてくるようで気持ちが悪い。暑い、と彼は心の中でつぶやく。喉が渇いた。なんとかしてくれ。
 カーブのたびに大きく揺れ、郷田に圧力がかかる。つり革から手が離れそうだ。若者のヘッドフォンからうるさいノイズが漏れている。すぐ横のサラリーマンが持っている新聞が、時折彼の顔に当たる。もう十何年、俺はこんな事を繰り返しているのだろう、と彼は思う。そしてあと何十年続くのか。心まで干上がってしまいそうだ。
 体が傾き、人間達が郷田を押しつぶす。腕がちぎれそうだ。耐え切れず、ついに離してしまった。途端に別の手が輪を奪う。もはや足で踏ん張るしかない。
 駅に着く頃には郷田は疲れきっていた。改札口から出た彼の目に、あるものが飛び込んできた。ジュースの自販機が二つ並んでいるのだ。ほんの一、二分無駄にしても、遅刻せずに済むのではないか。彼はポケットから財布を出した。だが、ああ、なんということだ。中にあったのは数枚の一万円札と数個の十円玉、あとは五円玉と一円玉だ。今日に限って千円札も、百円玉もない。
 あきらめて彼は駆け出した。温度の上がった歩道を、彼は走った。そんな郷田に熱射が降り注ぐ。喉が焼けそうだ。人々の間を彼はすり抜けていく。邪魔だ。どいてくれ。女性達が横一列に並んで談笑しながら歩いている。郷田はそのわずかなすき間に駆け込んだ。肩がぶつかった。
「ちょっと、何よ」
「すみません」
 足が痛い。だが止まるわけにはいかなかった。彼は交差点にたどり着いた。ここを曲がれば、あと少しだ。赤信号で、少しばかりの休憩をとることができた。熱い息を吐き出しながら「ああ、もう」と甲高い声で言った。
 青に変わった。郷田は走った。いつもなら高いビル群をながめる余裕があるが、そんなものは目に入らなかった。
 ようやく会社まで来た。彼は自動ドアに滑り込んだ。腕時計を見る。ぎりぎりセーフだった。
 ゆっくりと歩いてエレベーターに乗り、五階に上がった。彼の部署はそこにある。
「おはようございます」
 プリンターから紙が出てくるのを待っている久保山(くぼやま)に声をかけられ、「おはよう」と返した。声がかすれている。
「どうしたんですか、汗びっしょりですよ」
「ああ、遅刻しそうになってね」
「それは大変でしたね」
 久保山はいつでもすました顔をしている。それが今の郷田にはいらだたしい。
 自分の席に座ろうとすると、向かい側の机の柏原(かしわばら)が「おはようございます」と挨拶した。
「おはよう」
「どうしました。そんなに汗をかいて」
 久保山と同じことを聞く。
「目覚ましが鳴らなくてね。走ってきたんだ。喉がからからだよ」
「このビルはジュースが売ってないですからね」
 売っていても買えないんだよ、柏原。
「トイレの水でも飲むしかないですね」
 柏原は下品に笑った。その手があったか。郷田は急ぎ足で便所に向かった。
「あ、お昼まで使えませんよ」
 背後で柏原の謎の言葉が聞こえた。
 行くと、水道が二つ並んでいる。郷田は入り口に近い一つをひねった。あれ、水が出ない。
「はいはい、ごめんなさいね」
 清掃婦が入ってきて「断水」の張り紙をした。
 その時になって、彼はまだ歯を磨いていないことに気づいた。髭剃りはできるが、もうどうでもよかった。
 すっかり気落ちした郷田は喫煙室に行った。タバコを吸うと、余計に喉が干からびたように感じた。
 部署に戻り、メールを読んでいると、久保山が声をかけてきた。
「郷田主任、企画書ができました」
「うん」
 郷田は久保山の書類をチェックし始めた。三十分経ち、一時間経っても一向に涼しくならなかった。自分の計画書も作らなければならないが、暑さのためにまったく集中できなかった。
「柏原君、エアコン、効いてるか」
「ええ。涼しいですけど」柏原は眉を八の字にした。「主任、汗の量が尋常じゃないですよ」
 どうやら他の者は平気のようだ。郷田は額にハンカチを当てながら答えた。
「喉が渇いてしょうがないんだよ」
 まるで何かの呪いにかけられているように、と言いたかった。今朝からの出来事を振り返ってみると、そう思えるのだ。もう頭が朦朧としていた。
「コーヒーでも飲んだらどうですか」
「熱いのは嫌なんだ」と言いながら、彼は立ち上がった。「でもまあ、仕方ないか」
 ポットが置いてある棚で、女性社員が熱湯を注いでいる。近づいていくと、出方が途切れ途切れになってきた。悪い予感がした。女の子が去ると、郷田は紙コップにインスタントコーヒーを二杯と砂糖を一杯入れ、ボタンを押した。湯は出なかった。彼はあせった。何度押しても同じことだった。
 柏原の前に戻ると、郷田はゆっくりと倒れた。隣の阿川(あがわ)課長が目を丸くしてかがみこんだ。
「どうした、郷田君」
「ねっし……」
 熱射病かも、と言いたかったが、言葉が出なかった。
「おい誰か救急車」
 そんなものはどうでもいい。水をくれないか。
「大丈夫か、郷田君」
 思いっきり……冷えたやつを……


 私は額に汗をかいていることに気がついた。それをぬぐい、喉に手を当てる。嫌な感じだ。
 マカジャ・ハーン氏は日本通のようだ。それともインターネットで検索して調べたのか。私も一度は日本に行ってみたいものだ。「超魔術」と称して、素晴らしい手品を披露するマジシャンが数多くいると聞く。
 私は立ち上がり、ドアを開けた。ダイニングの隅に、冷蔵庫が見える。私はそれをしばらくながめた。いや、だめだ。術にかかってしまうのが、悔しいような気がした。
 喉が鳴ったが、構わず扉を閉めた。
 私は腰掛け、テーブルの上からステッキを取り上げた。一振りすると、それは風船に変わった。さらに振ると、野球のボールに変化し、ものすごい勢いで飛んでいった。向かい側の壁に当たり、跳ね返って床に転がった。私はこれで、一度窓ガラスを割ってしまった。この手品に問題点があるとすれば、妻を怒らせることだ。
 次に、トランプを手に取った。シャッフルして中から一枚抜いた。ハートのエースだ。それを束の真ん中あたりにさし込み、上に片手をかざす。
「上に来ますよ」私はつぶやく。「今移動しています」
 いかにも念を送っているように凝視する。人差し指と中指で親指をひっかき、再び手を開く。
「来ました」
 カードを裏返す。スペードのキングだ。
「おや、おかしいですね」
 五秒ほど眉をひそめる。突然私の頭上、一メートルくらいの高さにシャボン玉が現れた。中に一枚、入っている。ゆっくりと目の前に降りてくる。私は親指と人差し指を近づける。透明な球体ははじけ、カードがその間にはさまった。私は見えない観客にそれを見せた。
「ハートのエースです」
 だめだ。こんなことで気を紛らわせようとしても、渇きはごまかせない。私は立ち上がり、腕組みをして部屋の中を歩き回った。
 一瞬、視界がぼやけた。またか。この、頭の中が真っ白になるような感覚は何なのだろう。足がふらついた。慌ててソファに戻った。
 私は本を手に取り、適当にページをめくった。
 −−郷田の元に、久保山が歩み寄ってきた。
「主任、『ヒエラヒカリ』の企画書ができました」
 おや? どこかで聞いたような名前だな。郷田は首を傾げた……
 なんだこれは。さっきは、こんな文章はなかった。
 暑い。食道の内壁が乾ききっているような感覚が私を襲った。今は冬だというのに。エアコンの温度が高すぎるのだろうか。私は椅子から立ち上がり、三度下げた。
 −−柏原が近づいてきた。
「郷田主任、『ルム・ハナ』のチェックをお願いします」
 やはり聞き覚えのある名だ。当たり前だ。自分で考えた企画なのだから……
 私は本を落としてしまった。またあの奇妙な現象が。部屋の風景が変わった。今度は、ほんの少しだけ、赤くなったように思えた。膝に手をついて荒い呼吸をする。まるで、スポーツをした後のようだ。こめかみに汗がつたうのを感じた。
 私は再び扉を開けた。妻が冷蔵庫の中を見ている。ミネラルウォーターとオレンジジュース、ソーダが並んでいる。私はそれを、飲むことができない。彼女は私の視線に気づいたらしい。
「あら、ちょうど今、デザートを持っていこうとしていたところよ」
 妻は皿を取り出した。パイナップルが並んでいて、ラップがかけてある。
「だめだ。果汁が含まれている」
 荒々しくドアを閉めた。
 腰をおろし、「マカジャ・ハーンの呪い」を見つめた。それを持ち上げ、少し躊躇した。私は<2>を読み始めた。

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