人が見る世界と、自分が見る世界は、同じものだろうか。俺が緑色に見える色は、他のやつには白に見えるかもしれない。しかしみんな子供の頃から、それを「緑色」と呼ぶのだと覚えこまされている。だいたい、目も脳の構造も、人によって微妙に違うのだ。他人が見ている色と、自分が見ている色が、全く同じだなんてどうして言えるだろう。
 そんなことはどうだっていい。俺様よ、早く背広を着て出かけようぜ。
 俺は洋服箪笥の前に進み、観音開きの扉を開け、スーツの上下、およびワイシャツがワンセットになってハンガーにかかっている塊を引っ張り出した。
 上着、シャツ、ズボンの順に無造作に絨毯の上に放り出し、ハンガーを戻し、一つ一つ身に着けていく。徐々に、ぼんやり野郎からビジネスマンへと変身していく。
 ネクタイ掛けに居候しているベルトをつかみ、腰に巻く。箪笥の裏の鏡を見ながらネクタイを締め、上着を着れば、ほうら、企業戦士の出来上がりだ。
 俺は頭のてっぺんに手を当てた。よしよし、まだ大丈夫だ。この若さでつむじが取れたりしたらたまらないもんな。顔色がいくら悪くても、こいつだけは今日もつやつやとした緑色だ。まだ若いのに頭頂部にぽこっと穴が開いている人がいるが、ああはなりたくないね。しかし、最近つむじが時々ぐらついて、少し心配なのだ。
「OKでしょ」
 つぶやきつつ、扉を閉める。エアコンを消し、玄関のドアを開け外に出ると、途端に蒸し暑い空気が体を覆い嫌気がさした。エレベーターで一階に降りアパートから出るとさらに日差しは容赦なく降り注ぎ、早く秋が来ることを熱望させる。
 これから乗る車のことを考えると嫌になる。行こうぜ、ご主人、とでも言いたそうな二つのヘッドライトが俺を見つめる。まるで散歩を待つ犬のようだ。実際、車にもし生命があったなら、飼い犬に近い存在だろう。けっして馬ではない。馬はレーシングカーだ。ドアを開けると、想像した通り流れることなくこもり、日射を浴び続けた空気があふれだした。臭い付きのサウナに入りこみ、急いでエンジンをかけ、クーラーを最強にする。
 車を発進させ、高層住宅が林立する路地を抜け、大通りに出る。すでに色とりどりの車が、線からはみ出すこともなく行儀良く走っている。見慣れた、毎日繰り返す同じような風景が、自分が乗っているのが時として凶器と化す恐ろしい文明の利器であることを忘れさせそうになる。大人になるにつれて慣れなければならないものは、たくさんある。しかし慣れてはいけないものもたくさんある。まぶたがもう少し寝ようよと言ってくる。いけませんねえ。良い子だから上がっていて下さい。
 明日からコーヒーを三杯に増やそうかな。と、突然前の車が急ブレーキをかけた。その両目が赤く光り、俺をにらんだ。慌ててブレーキを踏む。危ないなあ。何を考えているのだ。俺は視線を上に向けた。なんだ、信号が赤に変わったのか。いけませんねえ。人のせいにしては。
 まあ、いい。おかげで眠りの支配者は翼を広げ飛び去っていった。
 俺は胸ポケットをまさぐった。しかし、信号が青に変わるまでに煙草を一本抜き、ライターを取り出し、火をつけるのはどうも無理そうなのでやめた。右手君、なぜハンドルをこつこつ叩いているのだ。会社で一服すればいいじゃないか。我慢してくれ。
 交通の番人は青く微笑み、下界を流れ行く人間達に通行を許可した。しかし、前の車は発進しない。何をやっている。今度は右手君だけでなく左手君までハンドルにやつあたりを始めた。車内で、橙色の丸い頭がとまどったように左右に回転しているのが見える。
 俺はクラクションを鳴らした。ようやく前の車は動き出した。まったくしょうがないな。
 後頭部だけでは男か女か分からないが、たぶんおばちゃんだろう。車というやつはスピードが速いんだよ。分かるかい? 当然人間にも素早さが要求されるんだよ。乗ってから降りるまで緊張感を維持してなきゃだめだ。洗濯物をようやく干し終えて、陽光に照らされる衣達をながめながら腰を叩き、隣りの主婦を見つけては、あら、いいお天気ですねえ、と微笑みつつ話しかける。お子さんの風邪はもう治りました? そう、良かったですねえ。そんな世界とは違うのだ。立ち止まっちゃいけない。左折! 直進! 右折、右折、直進! てきぱきと、常に反射神経をフルに働かせ、動体視力を活かしまくれ。
 うう、寒い。俺はクーラーの威力を弱めた。
 なんだか静かだな。そうだ、ラジオをつけていない。スイッチを入れると、荘厳なクラシックが流れ出した。あいにく、俺の趣味ではない。局を変更する。男が早口でしゃべっている。
「一週間が始まってしまいました。調子はどうですか。あなたの月曜日はブルーマンデイ? それともハッピーマンデイ? ま、休みが終わってうれしいって人はいませんやね。あなたも、私も、だーれだって働かなくちゃ生きていけません。まあまあ、あなたが大人じゃなかったら別ですけど。でもたぶん、こんな時間にラジオを聞いているあなたは大人でしょう。今週も、頑張りましょ。憂鬱なの憂鬱なの、飛んで行けー。はい、気分はよくなりましたか? ライオンは獲物とって、満腹になったらあとはずっとだらーっとしてればいいけど、人間はそうはいきません。虎だったかな。まあまあ、人間は自分が食うために必要最小限の仕事をすればいいっていうわけにはまいりません。しゃあないやな。頑張れ頑張れ」
 う、こいつ嫌い。俺と同じような人生観だ。局を変更する。なにやら民族音楽らしきメロディーがあふれてきた。これは確か、ガムランとかいうやつだったな。うん、いいぞ。こういうのが俺の好きな世界だ。
 あ、また信号だ。前の車のランプが光る。俺はブレーキを踏んだ。おばちゃんがまたのろのろしなきゃいいが、と思いながら待つ。曲が終わり、やはりガムランだが今度はもっと早いテンポの楽曲を奏で始めた。脳裏にインドネシアの少女が、顔を正面に向けたまま首を左右に動かすイメージが浮かぶ。口元に笑みを浮かべ、目玉を器用に右に、左に行き来させる。信号が青に変わった。前の車は、今度は迷うことなくスタートした。
 俺は、ミラーに映る後ろの車が、車間を狭めてきているのに気づいた。少し広げ、また接近してくる。そいつは対向車線に出てきた。黒い、かっこいいスポーツカーだ。見ると、若い兄ちゃんがガムを噛んでいた。
 突然何の予告もなく、そいつは俺の前に割り込んできた。慌ててブレーキを踏む。タイヤが甲高い悲鳴をあげた。
「危ねえなバカ野郎」
 後方から怒声が飛んできた。ちくしょう、こっちの台詞だ。
 納得いかないままアクセルを踏む。鈍いおばさんの後ろにせっかちな若者。俺は嫌な予感がした。
 太鼓のテンポは徐々に上がり、鉄琴、笛の音、ガラガラ蛇のような音が渾然一体となって俺の心をバリ島の舞踏へいざなう。しかし目に見えるのは都市の風景で、その不協和音が心地よい。
 橋が見えた。と、その時、前の車が止まった。道端に若い女が立っていて、向こうに渡りたそうにしている。止まってあげたのはおばちゃんの車のようだ。ところが、黒い車が追い越しをかけた。女の子が飛び出した。危ない!
 鈍い音がした。彼女は宙に舞い上がった。それは、日常から逸脱した光景だった。
 俺は車を脇に寄せた。ドアを開け飛び出すが、気が動転してどうしていいか分からない。とにかくそのままにしておくのはまずい。ラジオはもう聞こえていなかったが、太鼓は正確なリズムで、俺の鼓動のように頭の中で鳴り続けた。
 俺は流れ続ける車達を避けながら彼女の元へ走った。黒いスポーツカーは何事もなかったかのように行ってしまった。くそ、なんて奴だ。
 彼女はガードレールにもたれかかるようにして倒れていた。薄紫の縞のブラウスと白いスカートを身に着けている。
「大丈夫ですか」
 声をかけても返事をしない。目を閉じたまま動かない。首の角度が変だ。どうしよう。
「誰か、救急車を呼んでくれ」
 俺の叫びは無情な都会の空気の中に吸い込まれた。皆目的地をめざし、こちらには見向きもしない。
「おおい、頼むから誰か止まってくれ」
 車の列は流れ続け、反応が見られない。くそう、何てこった。
 俺は転がっているハンドバッグを拾い上げ、彼女を助け起こそうとした。その時、奇妙な戦慄が背中に走った。俺は彼女の顔を見つめた。何だ、この感覚は!
 女の顔に違和感を覚えた。まるで、幼児が初めて蛙を見たかのような、地面が平らだと信じていた昔の人が、地球は丸いと知らされたような、不思議な感じだった。
 しかし、そんな事は後回しだ。何の変哲もない日常を生きていた俺に突如振りかかってきた目の前の問題を、なんとかしなければならない。彼女の肌はオレンジからわずかに黄色に変わりかかっていた。
 歩道では狭過ぎる。どこか安全な場所に運ばなければ。俺は女を抱え上げた。後頭部が少しへこんでいる。
 橋のそばに階段が見えた。そうだ、橋の下に移そう。
 一段一段気をつけて降りているうちに、奇妙な感覚は次第に大きくなっていった。彼女の顔が変だ。いや彼女だけではない。俺も、上司も、同僚も、みんな変だ。しかし何がおかしいのかまったく分からない。
 薄汚い川が流れていて、俺は河原に彼女を寝かせた。
「大丈夫ですか。分かりますか」
 手の平を鼻の前にかざす。彼女は息をしていなかった。手首を握ってみるが、脈打っている部分を見つけられなかった。
「冗談だろう」
 思いきって胸に耳をあててみた。あちこちにあて直すが、鼓動を聞くことができなかった。「血の気がひく」という言葉は、文章で読んだり、聞いたりしたことはあったが、実感したのは初めてだ。
 俺はひざまずいた格好のまま、女の顔を見つめた。先ほどから感じている正体不明の感覚が、もう少しで姿をあらわにしそうな気がした。
 生きて動いている人を見ている時には感じられないのに、死んでいる時にはひどく違和感を覚える。俺は彼女のまぶたに指をあて、開いた。そのうつろな眼差しがこっちを見た時、背中に電流が走った。頭をぶん殴られた。夢の中に蛇が出てきて飛び起きたかのように、驚いて女のまぶたを閉じた。
 これは、人間ではない。蜜柑だ!
 待て、待て。落ちつけよ、俺。何を言っているのだ。蜜柑って何だよ。
 だが頭の中にいるもう一人の俺が言うのだ。いいや、お前は知っているはずだ。思い出せ。小さい子供の頃を。お前はこんな顔だったか?
 俺の頭にぼんやりとした情景が映り、徐々に鮮明になっていった。食卓で、父が新聞を読んでいる。母がパンにバターをぬっている。そのどちらも今の顔とは違う。肌色で、縦長で、あごが尖っている。頭に毛が生えていて、緑色のつむじはない。
「和ちゃん、ほら、食べなさい。お父さん、いつまでも新聞読んでないで」
「ん? ああ」
 その場面は消え、今度はソフトボールをする子供達が浮かんだ。そうだ、あの時俺は走るのが遅くて、試合に負けたのを俺のせいにされたのだ。
「松原のせいで負けたんだぞ。お前なんかいらねえよ」
 ガキ大将が俺をにらんでいる。その顔は茶色で、表面に点々はなく、体操帽をかぶっている。
 今まで記憶の中の彼らは、みんな蜜柑の顔をしていたはずだ。どうして急に変わってしまったのだろう。
 さらに高校の先生を思い出した。俺が手を上げ、正解を答えると、彼は言うのだ。
「偉いねえ、松原は」
 頭に、薄いが髪の毛があって、厚い眼鏡をかけていて、ちょびひげを生やしている。小太りで、顔は丸いものの横方向に広がってなどいない。
 それから先は……だめだ。大学の頃の友人も、同期で入社した連中も、みんな蜜柑の顔だ。
 どういう事だ。俺の頭の中に突然現れた異世界の顔は、いったい何なのだ。
 いいや、お前は気づいているはずさ。あれこそ本当の顔で、今の顔は嘘なんだよ。
 そうだ。あれが元々人間の顔で、今の顔が間違いなのだ。思い出したぞ。しかしどうして誰も気づかないのだろう。いつからこうなったのだろう。
 生きている人間を見ている間は、こんな事は絶対分からなかったはずだ。生命を失い、「物」となった彼女だからこそ、客観的に見つめることができた。だからこそ見ぬけたのだ。そうであるに違いない。全世界で異変に気づいたのは、俺だけだろうか。だとすると教えてあげなければならない。みんな、今の顔は本当の顔ではないのですよ。作り物ですよ。
 小さい頃、こたつでテレビを見ていたのを思い出す。
「和ちゃん、蜜柑食べる?」
 母は皮をむいて、房の周りの白いやつまで取ってくれるのだ。そうだ。あれが蜜柑だ。果物なのだ。食い物なのだ。おい、いつから人間様の首の上に居候したんだい?
 俺は橋を見上げた。こちらからは車が見えない。とすると、向こうからも俺は見えないだろう。いけない。何か悪い事を考えてしまいそうだ。
 待てよ? 俺はどうやって蜜柑という言葉を知ったのだ? 今まで読んだ本の中に、そんな言葉は載っていなかったはずだ。今まで見た図鑑の中に、そんな植物は出てこなかった。いいや違う。蜜柑を題材にした素晴らしい文学作品があった。蜜柑を描いた美しい絵画があった。いや、そんなものはなかった。どっちが本当なのだ。
 オレンジだったら知っている。人間の肌の色を表す言葉だ。それも違う。そりゃ、肌色だ。オレンジ色というのは、蜜柑の色のことだったのだ。
 蜜柑をテーマにした小説を読んだり、絵を見たりしたのはいつだったのか。高校以前ではなかったか。だとすると合点がいく。高校から大学へ進学する時期に、何かが起こったのだ。全世界を変えてしまう、とてつもない事態が。
 それがどんな性質のものか分からない。しかしたった一人真実に気づいた俺は、立ち向かわなければならない。俺だけではないかもしれない。だったら、昔を思い出した連中を探し出して団結すればいい。こりゃ、一生かかる大仕事かもしれないぞ。
 ロボットが歩き回るイメージが脳に浮かんできた。精巧にできていて、人間と区別するのが難しい。自分以外はみんな機械なのだ。そんな世界で、事実を叫び続けてどうなるというのだ。
 そうだ。まずやらなければならないことがあった。これが本当に人間なのか?
 違う、違う、違う! 断じて人間であるわけがない。だめだ。何を考えているのだ俺は。相手は神聖なる死人なのだぞ。そんな事はやってはいけない。
 しかしこのチャンスを逃せば、二度と機会は訪れないだろう。幸いここは死角になっていて、誰からも見られない。ロボット社会なら、分解してみなければ確認できない。確かめるのだ。確かめろ。
 俺は女の前にすわったまま、身動きできなかった。金縛りにあったかのようだ。このまま時間が過ぎていいわけがない。会社に行くんだろう? いや、そんなことはどうだっていい。真理の探求者か、犯罪者か、サイコロよ、俺の運命を決めてくれ。
 叫びたい。泣き喚きたい。ガムランがよみがえり、激しい太鼓のリズムが俺の心臓を打ち始めた。
 両手が勝手に下方にのびていく。右手君、左手君、引き返すなら今のうちだぞ。
 俺は女の額に両の親指を押し当てた。どうする気だ。天使が背後から俺を羽交い締めにする。しかし彼女の力はあまりにも弱過ぎた。悪魔が俺の前に来て、やりで心臓を突いた。「魔が差す」というのはこういう事だろうか。字が違うか。彼は俺のハートに知的好奇心という名の毒物を注ぎ込んだ。
 少し力を加えると、意外なほどあっさりと皮の中に埋まった。こめかみを汗がつたうのを感じる。唾を飲みこむ音が、驚くほど大きく聞こえた。まるでマラソンした後みたいに、心臓の収縮運動が激しくなっていく。
「チャ! チャ! チャ!」
 いきなり、バリ島の民族音楽、聞く者に恍惚感を与えずにはおかないケチャが、頭の中に鳴り響き始めた。
 指が、彼女の額を裂いていく。
「チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャ」
 間からみずみずしい房がのぞき始めた。女は苦痛に目を覚ます様子もなく、身動きもせず、されるがままになっている。やはりもう死んでいるのだ。
 目に見えるのは蜜柑の顔。しかし頭の中は、暗闇の中燭台を囲み、上半身裸の男達が、腕を前方にのばして呪術的な大合唱を行っている幻影に支配されていた。
 一人もタイミングが狂うことがなく、静かに同じ言葉を繰り返していたかと思うと、窓ガラスを打つ大雨が突然勢いを増すかのように高まり、波がうねるように強弱のリズムが連続する。
 鼻にさしかかると、さすがにためらわれた。手が震えている。なぜだか知らないが、唇に笑みが浮かんでしょうがない。おそらく俺の顔は狂気に満ちているだろう。今からピアノを弾くとでもいうように開いた両手を左に移動し、女の耳の上をつかんだ。常識を常識として受け入れ続けてさえいれば、こんな事はしなくてすんだのだ。日常が実は異常であることに気づかせてくれた神様よ。ひどいぜ。
 なぜ血が流れない。ええ? 人の顔を切り裂いているんだぞ。いいや、これは人間などではない。こんな生物は存在しないのだ。
 知りたい、この中身がどうなっているのか知りたい。狂える好奇心は、脳から信号となって腕へ、そして指へと伝わり、何の罪もない女の顔を裂いていく。人間はいくらがんばっても神様にはなれない。すべての真理を知りたくても、そんなことは不可能だ。だが、たった一人不条理に気づいてしまった俺には、知る権利があるはずだ。贅沢は言わない。一つだけ教えてくれ。これは人なのか。それとも蜜柑なのか!
「チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、チャチャチャ、ウイヤッ!」
 橙色の薄皮の下に白いふさふさした皮が見えてきた。割れ目の間から濃い色の実がのぞく。表面の筋は血管を思わせる。裂け目が耳の横を過ぎ、あごへと広がっていくにつれて、その下端からオレンジの汁が滴り始めた。記憶の底に沈みかけていた果物の匂いが鼻腔に侵入してくる。
 実一つの全体が視野に入るようになった頃には、左右と上方に分かれた皮は醜くよじれ、特に右の方に寄ったしわは目の位置に影響を与え、閉じた、まつげがたくさんついた線は奇妙に傾いていた。
 悪魔的なコーラスに混じって、女の悲鳴が聞こえたような気がした。目の前の女から出たものではない。彼女は口を閉じている。だが俺には、それが音楽の一部なのか、現実のものなのか分からなかった。目の前の情景に完全にトランス状態となった俺には、どうでもいいことだった。
 俺は、小さな蜜柑なら見たことがあるはずだ。それをむくことには何の抵抗もなかった。しかし今は、恐怖に歯向かいながら作業を続行している。恐怖は狂気を生み、狂気は芸術を生み出す。そう、彼女のくずれかけた顔は、悪魔が作り出した芸術作品のようではないか。人が人を切り裂く心理は、憎悪や、利益や、嫉妬に関連しているはずだ。しかし、それが真実の探求が目的であるとは、なんと高尚なことだろう! 俺は口から突然飛び出した笑い声に、自分で驚いた。
 いつまでも奇怪な裂け目を見つめているわけにはいかない。彼女の頭のてっぺん、へたの付近に着手する。そうだ。昔蜜柑をむく時は、こうして上の方からむいていたのだ。思い出したぞ。
 手の平を差し込み、一気に引き上げた。そこに現れたのは頭蓋骨などではなく、放射状に並んだ実であった。めくれた皮の裏側には、中心におさまっていた白いひも状のものがついていた。俺は自分の口からあふれ出す笑いを止めることができなかった。
 そうだ。わざわざこんな事をしなくても、簡単に顔の中を知る方法があったではないか。医学事典を見れば良かったのだ。いや、たぶん無駄だ。きっとこんな嘘っぱちが書いてあるに違いない。
 中に並んでいる三日月型のものが脳です。上から見て、両耳を結んだ線上にある二つは視覚を司っています。両目の間にあるものは、理性と睡眠に関連した働きをします。
 医学書だって、信じるものか。人間の頭の中には灰白色の脳があり、それは大脳、間脳、小脳に分かれているのだ。大脳はさらに論理派の左脳と芸術家の右脳に分かれているのだ。それが本当の姿だ。俺が今見ているものは、偽物なのだ。あり得ないのだ。夢だ。幻覚だ。
 俺は後頭部まで一気に皮を引き剥がした。彼女の顔がだんだん原形をとどめなくなっていく。表情を能面のようにしようとするのだが、どうしても唇の端がつり上がってしまう。
 人間とは一体何だ。頭が突如オレンジにすりかわっても、何不自由なく暮らしていける。ならば、腕がきゅうりになっても、足が大根になっても、別にどうでもいいのではないか。神様のいたずらか、高度の知能を持った宇宙人が地球人をおもちゃにして遊んでいるのか、それは分からない。人類全員が元々そういうもんだと思いこまされてしまえば、人間は蟻になっても、ミジンコになっても構わないのだ。人間って、その程度のものか?
 もうここまでやれば十分ではないのか? と、俺の中にわずかに残る正気の部分がささやく。しかし、脳の大部分を占めてしまった狂気が、悪魔の行為をやれと命じるのだ。俺はその命令に逆らうことができなかった。手がふるえて手首からとれてしまいそうだ。俺はついに、顔面に手をかけた。目が、鼻が、ゆっくりとはがれていく。巨大な氷が背中にタックルし、中に入りこんできた。しかしそれさえ、今の俺には快感だった。もし蛇の首をつかみ、絞め殺せと言われたらできてしまいそうな精神状態だ。
 ついに頭はなくなり、そこには子供の頃こたつに入ってよく食べた、蜜柑の房がきれいに並んでいた。いくらかみ殺しても、腹の方から笑いが這い登ってくる。俺はついに哄笑した。
「これが人間なものか。しかし、だったら俺は何なのだ」
 誰かがわめいている、と思ったら俺だった。
「おい、お前何をやってる」
 突然聞こえた声に驚いて振り返ると、警官が走ってくるところだった。その後ろからおばちゃんが走ってきた。俺は、途中で聞こえた悲鳴が、このおばちゃんのものだと気づいた。
 警官は俺を見下ろすと目を丸くした。
「立て。現行犯で逮捕だ!」


 頭の中が混乱したまま、あれよあれよという間に事は進んでいった。ようやくパニックが治まり、平静を取り戻した時、俺は警察署の廊下を歩いていた。両手首には手錠がかけられ、腰には縄が巻かれている。その縄の端を怖そうなおじさんが握っている。意気消沈してはいるものの、時々笑いの衝動に襲われる。唇君に我慢させるのは結構骨が折れる。みんな、顔が蜜柑なのだ。これが笑わずにいられようか。俺を連れて歩いているこわもての警察官にしてもそうだ。かぶり物を被っているお笑い芸人と同じだ。これではまるで、コントのワンシーンではないか。
 階段を上がり、しばらく歩くと、おじさんは一つのドアの前で立ち止まった。不安の門はゆっくりと開かれた。
「入れ」
 そこは広い部屋で、デスクが並んでいて、刑事さん達が仕事をしている。彼らの脇を通って奥に行くと、そこにもドアがあって、おじさんは先ほどと同じように開けて「入れ」と命じた。
 中に入ると、傷だらけの古びた机の前に、二つのオレンジが並んですわっていた。
「挨拶ぐらいしてから入れ!」
 左側の男が突然怒鳴ったので、俺はびっくりした。
「し、失礼します」
 警察という所がひどく怖い場所だということは話に聞いていたものの、まるで軍隊ではないか。しかし一方で、その怖さを真剣に受け止めることが難しいのも事実だ。芝居で、舞台に立つ時には観客をかぼちゃだと思えなどということが言われるが、俺の場合心構えの問題ではなく本当に蜜柑に見えるのだから困ったものだ。
 閉鎖された空間という印象を強く受ける狭い部屋で、窓はあるがブラインドが下りていて外はよく見えない。
「あの、すわってもよろしいでしょうか」
 二人とも黙っていて、俺は当惑したが遠慮がちに腰掛けた。
「お前、何がおかしいんだ」と右側の、色も形も蜜柑よりグレープフルーツに近い男が言った。
「警察をなめてんのか!」左側の男が再び怒鳴った。
「いえいえ、とんでもありません。なめるなんて、そんな事」
 ひょっとして、今までずっと唇に笑みが浮かんでいたのだろうか。
「俺は、この事件を担当する警部補の青木 正一だ」と、左の男が言った。「彼は一緒にやる伊藤浩雄警部補だ」
「はあ、私は松原和秀です」
「そんな事は知っている!」
 腹が立った。蜜柑のくせに、と俺は思う。こいつ、蜜柑のくせに!
 いつ名乗ったのか。そういえばパトカーの中で、名前を聞かれて答えたような気がする。
 俺の前に一枚の紙が差し出された。
「身上調書だ。書け」
 住居、氏名、生年月日といった項目が並んでいる。一つ一つ埋めていく間ずっと、二人の熱い視線を感じた。
「お前、昔からハゲか」と青木警部補が言った。
「え、何ですって?」
 彼は答えなかった。俺は頭に手をやり、愕然とした。てっぺんの窪みを指先で感じる。なんという事だ。つむじがとれてしまった! いつの間に? ここに来る途中か、それとも蜜柑の皮をむいている時か。突如として襲った精神の変調が影響を与えたのだろうか。
 いや、待てよ。そうじゃない。俺様よ、冷静になってよく考えろ。
 なんだ、ばかげている。
「えへえ、はげてなんかいませんよ。ヘタがとれただけの事じゃないですか」
「へらへらするな!」
 くそう、こいつ怒鳴り散らせばいいと思っているのか。
「ヘタとは何のことだ」と伊藤警部補が厳かに言った。
「皆さんがつむじと呼んでいるものですよ。蜜柑のヘタのことですよ」
「ミカン? 何だそりゃ」伊藤警部補の眉間にしわが寄った。皮がよじれたと言うべきか。
「わけの分からん事を言うな!」
 青木警部補の手が机に叩きつけられ、俺の肩が、びん! と上がった。
「お前、なぜ殺した。なぜ顔を引き裂いたんだ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。殺してなんかいませんよ。私が助けようとした時にはすでに死んでいたんです」
 俺は動揺した。俺が殺したと思われているのか?
「嘘を言うな。助けるつもりなのに、なぜ皮膚を引き剥がすんだ。この変態野郎」
「他の車が彼女をはねたんですよ。だから私は慌てて飛び出して、安全な橋の下に運んで、でも、すでに息をしていなかったんですよ」
「なぜ顔を裂いたんだと聞いている。同じ事を何度も言わせるな」
「それは」
 困った。とうてい彼らに理解してもらえるとは思えない。しかしどうごまかせと言うのだ。
「それは、彼女の顔が蜜柑だったからですよ。蜜柑をむいて、何が悪いっていうんです」
 そうじゃない、そうじゃない。落ちつけ、もっとましな言い訳を考えろ。
「ミカンとは何だ。それは英語か? フランス語か? おい、日本人なら日本語でしゃべれよ」
「果物ですよ。だいだい色の、丸い、ちっちゃい、いや大きいのもありますけど」
 どうすればいいのだ。蜜柑を知らない人に言葉で説明するのは、想像以上に難しい。
「そうだ。あなたの顔から目と鼻と口と、眉と耳をとったのが蜜柑なんですよ」
 なんて事を言うのだ、俺は。頭がおかしいと思われるだけじゃないか。
 二人は顔を見合わせた。青木警部補の口はねじ曲がり、反対に伊藤警部補の唇には笑みが浮かんだ。
 無価値だ。俺だけが知り得た真実は、ビー玉ほどの値打ちもないのだ。たった一人地動説を唱えたガリレオは偉かった。それに比べて俺はなんて間抜けなのだろう。たとえ頭が蜜柑でも、人間なのだ。どうして皮をむいてやれなどと考えたのだ。バカだ。アホだ。
「おい、お前気が狂っているふりをして、罪を逃れようとしているんじゃないのか」
「私は狂ってなんかいません。狂っているのはこの世界の方だ。あなたは気がついていないでしょうけど、人間の頭が果物になってしまったんですよ。みんな知らないうちに、こっそり入れ替えられたんですよ。むいてみたくなるじゃありませんか」
「ふざけるな。俺が聞いているのはそんな訳の分からない作り話ではなくて、ちゃんとした理由だ」
 俺だってあんたを納得させるような話をしたいさ。しかし、人間の顔を裂く理由なんて考えつかない。思いついたとしても、そっちが嘘で今しゃべっているのが本当なのだ。
「作り話じゃありません。みんな分かっていないだけで、あなたが人間の頭だと思っているものは、果物なんですよ。そうでなかったら、どうしてあんなに簡単に皮がむけるんですか」
「顔の皮膚が簡単に裂けるの、当たり前じゃないか」
「え? そんなバカな。いや、そりゃそうなんですけど」
 常識がすり替えられているのだ。俺だって、今朝までひげを剃る時には慎重にやるもんだと思っていた。しかし今は、人間の顔に指が簡単にめりこむなんて、おかしな事だと知っている。だが、蜜柑になる前のみんなはどうだっただろうか。足も、腕も、爪でひっかけば容易に傷がつくが、誰もそれを、こりゃあ大変だなどと騒がない。人間の姿形や状態に変化が起きても、それは日常の延長でしかない。それとも、間違っているのは俺の方か? 人類は元々こういうもので、俺が思い出す顔は実は幻覚で、蜜柑などという植物は存在しないのかもしれない。
 しかし、自分の記憶をすべて疑い出したら、自分の存在がなくなってしまうのではないだろうか。
「さあ、早く吐いて楽になりな」
「刑事さんだって、本当は覚えているんです。元の自分がどんな顔だったのか。でもそれは潜在意識の底の底に沈んでいるんです。でも、何かの拍子に思い出すんですよ」


 なぜ殺した。なぜ顔を裂いた。いいえ殺していません。顔を裂いたのではなく蜜柑をむいたのです。同じ問答が延々と繰り返された。一時間ほどたっただろうか。一人の男が入ってきて、青木警部補に耳打ちした。彼は渋い顔をしてうなずいた。
「良かったな。裏がとれたよ。傷の状態から見て、車にひかれたのが死亡の原因だそうだ。黒い車が女をひいた現場を目撃した人間も出てきた」
 俺は絶望感に打ちひしがれ始めていたので、ほっとした。
「ああ良かった。私は無実ですね」
 青木警部補は鬼のような形相で、大きな音をたてて机を叩いた。
「死体を裂いたのは変わらんぞ! お前のやったことは死体損壊罪にあたるんだぞ。お前は彼女の両親に対して、申し訳ないと思わないのか!」
 俺の心が再び暗雲に覆われ始めた。ずっと刑務所暮らしだろうか。
「あのう、それって懲役何年ですか?」
「さあ、三年じゃなかったかな。しかしそれも、お前が切り刻む前に死んでいたことが証明されればの話だぞ」
 まるでバラバラ殺人ではないか。
「あ、あの、べ、べべ、弁護士を」
「ああ頼むさ。しかし取り調べの時、弁護士は立ち会えんのだぞ」
「お前は人の顔を引き裂いてなんかいないんだよなあ」と、伊藤警部補が言った。「ミカンとかいう果物をむいただけなんだよなあ」
「ええ、ええ、そうです」
 彼の顔が仏様に見えた。
「その考えは今後もずっと変わらないか?」
「はい、一生変わりません」
「じゃあ、一生精神病院暮らしだな」
 仏はあっという間に鬼に変わった。
 幻覚、妄想がリアルなものとなっている。俺は統合失調症か? しかし俺は自分が知った真実を、妄想だと思いたくない。それが事実であるならば、世界を敵に回しても曲げてはいけないのではないだろうか。
 拘束衣に包まれ、手も足も自由にならない自分の姿が浮かんできた。面会に来た父は沈痛な面持ちで立ち尽くし、母は泣き崩れるのだ。
「母さん、俺は狂ってなんかいないんだ」
「ああ、和ちゃん、どうして、どうしてこんなふうになってしまったの。きっとお母さんの育て方が間違っていたんだわ」
「先生、息子の病状はどうなんですか。かなり悪いんですか」と、父が白衣の男に向かって言う。
「残念ですが、息子さんはもう、治る見込みがありません」
 嫌だ。俺は世界を敵に回したくなんかない。
 俺の空想を見ぬいたかのように、青木警部補が叫ぶ。
「お前は両親を悲しませて何とも思わないのか!」
「答えろコラアッ」伊藤警部補まで怒鳴った。
「白状するまでここから出られないぞ」
「いつまでもでたらめが通用すると思っているのかあ」
「自白すれば罪が軽くなるぞ」
「お前は自分の罪を認めず生きていくのか」
 罵声がシャワーのように浴びせられ、俺はただうつむいていることしかできなかった。顔が熱くなるのを感じた。
「仏が浮かばれんぞ」
「黙秘権を使ってもいいが、そうやって黙っていても裁判の時に不利になるだけだぞ」
「お前は人の顔をめちゃめちゃにして、許されると思っているのか」
「貴様それでも人間か」
 肩が震え出した。目から涙があふれてきた。世界を敵に回して、勝ち目があるはずがないではないか。
「何とか言わんかコラアッ!」青木警部補が机を叩いた。
 もう我慢の限界だ。
「すみません!」
 俺は頭を下げた。額が机についた。
「私は……ストレスがたまっていたんです。あの時、彼女が死んでいた時、めったにないチャンスだと思ってしまったんです。どうせ死んでいるのだから、滅茶苦茶にしてやれと思ったんです」
 涙が次々に溢れ出すのを、止めることができない。
「私は罪から逃れたいばかりに、蜜柑がどうこうというつまらない嘘をついてしまいました。申し訳ありません」
「人間の顔が果物だというのは、嘘なんだな」と伊藤警部補が言った。
「はい。本当に申し訳ありません。私は、蜜柑なんていう果物は知りません」
 悲しかった。すべての物には名前も意味もあるが、俺の中でそれらが徐々に価値を失っていった。
「よく吐いたな」青木警部補が初めて笑った。「ムショから出たら、面倒見てやるからな。どうだ、たばこ吸うか」
 俺は彼が差し出したたばこを受け取り、口にくわえた。彼は火をつけてくれた。
「良かったよ。あんまりあんたの演技が迫力あるから、自分の顔がりんごかぶどうにでもなったかと思ったぜ」


 取調室に連行したおじさんと、もう一人別の刑事に連れられて、俺は長い廊下を歩いた。階段を降りる時、冥府に下るみたいだな、と感じた。重々しい鉄の扉の前に来た。小窓が開いて、おじさんは中の人間と目で合図した。幽霊屋敷に入るような音をたてて扉は開いた。
 俺は監獄に入れられた。三畳のたたみの上に俺は力なくすわりこんだ。部屋の残りは板の間で、便器がさびしく佇んでいる。留置担当官が鉄格子の前に立ち、しゃべる。
「お前はこの後、拘置所に送られる。そこでは素直に吐くんだぞ。今日みたいに下手な芝居をして困らせるなよ。これから留置所での注意を述べる。一、大きな声でしゃべらないこと、二、便所は小用でもすわってすること……」
 あとはもう聞こえていなかった。魂が去って、抜け殻になったみたいだった。
 俺のように何かのショックで、昔の人間の姿を、蜜柑という植物があったことを、思い出す奴がいるかもしれない。「真実」に気づいた人間がいたとして、それでも蜜柑という果物が存在したと、主張し続けられるやつなど、いるだろうか。

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