「先生、お願いです。どうかわたくしを殺して下さい!」
 病院のベッドの上で、彼女は叫ぶ。ごくごく平凡な、どこにでもいるような主婦、ありふれた一般市民。だが、あわれにも彼女はある一つの妄想に取りつかれたのだ。
「早くしないと、取り返しのつかないことになります。あれは、わたくしの妄想が生み出したのです。わたくしの妄想が、実体化したのです」


 わたくしは三つ下の妹と大変仲が良かったのでした。私が二十歳の時、つまりは妹が十七歳の時、妹はこんな男のどこがいいの? と言いたくなるようなぶ男と結婚したのでした。

友人A:
「挟田さんの妹ってどんな人?」
わたくし:
「うーん、猫そっくりね」
友人B:
「ええっ? お姉さんも結構猫みたいよ」
わたくし:
「そお?」

 その時わたくしは、猫のようなきょとんとした顔をしました。

友人A:
「うふふ、猫の姉妹ね。いいなあ」

 その、わたくしの、猫のようにかわいい妹が、突然結婚した時、わたくしの中に嫉妬のようなものが生まれました。その時です。わたくしの頭の中に真っ暗な夜空が広がり、星々がきらめきました。星々が前から後ろへと、流れては遠ざかり、流れては遠ざかり、気がつくと、わたくしは大宇宙の真っ只中に放り出されているのでした。
 そしてわたくしは見たのです。まがまがしい赤い光が誕生するのを。
「あんなにかわいがっていたのに、残念ねえ」
 飼い猫のミミが死んだ時、今は亡きわたくしの祖母が言った言葉が、ふいに甦りました。


「挟田さん、そんなものはないんですよ。あなたの妄想が実体化するわけがないんです」
「いいえ、先生。ミサイルは確かにあるのです。地球を一瞬にして吹き飛ばすために、一直線に向かって来ているのです。わたくしの妄想が、それを生み出してしまいました」
 四十を越えた、中年の主婦は、ぽろりと涙を流した。
「あれを消すためには、その源であるわたくしが死ぬしかないのです」 
 医師は病室を出ながら、仲間の医師に話しかける。
「どう思う? 精神分裂だと思うかね?」


 ああ、かわいそうな妹よ。結婚して、幸せな生活を送るかと思っていた矢先、不治の病に侵されてしまった妹よ。あなたの旦那は、ろくに見舞いにも来ないではないの。
 あなたの荒い息は、まるで火のように熱いのです。
「お姉さん……、あの雪が食べたい。あの雪を取ってきてくれませんか……」
 病室の外は、真っ白な雪に覆われています。
 雨雪とてちてけんじや……
 ああ、あなたは宮沢賢治が大好きなのでしたね。いいでしょう。わたくしが雪をとってきてあげましょう。
 小さな病院の庭の、真新しい雪の中にわたくしは足を踏み入れました。わたくしが歩くたびに、ゴッ、ゴッ、と雪の鳴る音がします。
 わたくしは、木の枝に積もった雪をそっとビニール袋の中に入れました。
 しかしわたくしが病室に戻った時、わたくしの手からビニール袋が落ちました。
 わたくしの目からはらはらと涙がこぼれました。
 その時です。わたくしの頭の中に、再びあの宇宙の暗闇が広がりました。そしてあの赤い光が、今度ははっきりと、わたくしの目の前に姿を現しているのでした。それは赤い炎の尾をひく、巨大なミサイルでした。


「先生、もう時間がありません。これ以上あのミサイルが接近すると、世界中の天体望遠鏡にその姿がはっきりと映ってしまいます。もしそうなったら、それが地球を滅ぼすのに十分な威力を持っているのが分かり、大パニックになります。その前に、どうかわたくしの腕に、安楽死のための注射をうって下さい」
「挟田さん、落ち着いて下さい。安楽死の薬なんていう物騒なもののかわりに今、鎮静剤の注射をうちますからね」


 二十五歳でわたくしは、結婚しました。五つ年上の夫は、とてもやさしい人でした。しかしマザコンでした。姑は意地の悪い人で、何かにつけてわたくしに冷たいことを言ったり、したりしました。
 本当に何もできない人ね。まったく近頃の若い人は。ほらほら、お皿にまだ汚れが残っているわよ。床にほこりが残っているわよ。どうして隅々まできれいにしないの。あなたには家を愛する気持ちがないの?
 わたくしは姑と離れて二人だけで住もうと言うのですが、夫はなかなか首を縦にふりません。
 ある日わたくしが廊下をぞうきんでふいていますと、障子の向こうから、夫と姑の話し声が聞こえました。
「かわいそうにねえ。あんな嫁をもらってしまってねえ。お母さんがもっといい嫁を見つけてきてあげればよかったのに。本当に良ちゃんはかわいそう」
 わたくしの中で、あのミサイルがだんだんと明確な形をとってくるのでした。


「精神分裂の場合、幻覚の内容は支離滅裂なものが多いです。外見もどこか尋常ではない様子をしているものです。挟田さんの場合、話に筋道が通っています」
「とにかく、内科的治療の方を優先しよう。このままでは肺の方が危ない」


 なんとか姑と別居することができて五年の歳月がたっていました。わたくしは対人恐怖症になってしまい、めったに家から出ませんでした。 
 その不幸は、ある日突然やってきました。主人は小さな会社を経営していたのですが、その共同経営者である主人の友人が、会社の資金を持って消えてしまったのです。私達に残されたは、多額の借金でした。
 わたくしがそれを聞いた時、わたくしの中のミサイルが、ブボウッ!というすごい音をたてて加速しました。いまこそわたくしにはそのミサイルの意味が分かりました。
 そうだわ。こんな世界など、なくなってしまえばいい!


「はあっ、はあっ、はあっ、先生、これでやっと、ミサイルから解放されるのですね。これで地球は救われます」
 挟田美佐子はげっそりとやせ細り、目の周りには大きな隈ができていた。恐ろしいほどの高熱で、顔は汗に濡れていた。
「何を言ってるんですか。挟田さん、しっかりして下さい」
「美佐子、美佐子っ!」
 挟田美佐子の夫は妻の手を握った。
「これで……やっと……」
 挟田美佐子はゆっくりと目を閉じた。
 医師は腕時計を見て、「十月二日、午後十一時十五分」と厳かに告げると、彼女の顔に白い布をかけた。
「美佐子おーっ!」


 一九九八年十月二日午後十一時十五分。イギリスのK天文台が発見し、その動きを追跡していた、地球に向かって接近しつつある謎の赤い光は、地球まであと一光年あまりという所まで来ていながら、その姿を忽然と消してしまったということである。

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