気がつくと、私は映画館にいた。スクリーンでは有名な俳優が機関銃を乱射している。画面の下にはこんな台詞が書かれている。
「ジャクリーヌ、早く逃げろ」
 いつから、ここにいたのだろうか。私は、眠っていたのだろうか。
 ふいに、耳障りな音が聞こえてきた。すぐ隣からだ。
 髪を金色に染めた、山姥を連想させるどぎつい化粧をした少女が、ポップコーンをほうばっている。彼女の向こうには、やはり髪の毛の色を金に変えた少年がすわっている。
 なにこのおっさん、と言わんばかりの目で少女がにらんだので、私は慌てて視線をスクリーンに戻した。
 菓子を噛み砕く音が辺りに響いている。画面に映った美女がわめきちらしている。こんな台詞が現れる。
「オーガが来るわよ」
 男が答える。
「ジャクリーヌ、屋上に逃げろ」
 突然、少女が大きな声で笑った。
「この後、ジャクリーヌは屋上でオーガに食われちゃうんだよ。バカだねえ」
 袋に手をつっこむ音、再びスナックをほうばる音。
 私は映画のストーリーがさっぱり分からなかった。なぜなら、今までの筋書きをまったく覚えていなかったからである。今どの辺なのだろうか。始まったばかりか、中くらいなのか、それともエンディングに近づいているのだろうか。ポップコーンが粉砕されていく音が聞こえる。
 私の不安とは関係なく、スクリーンの中の女は茶色い髪を振り乱しながら階段を駆け登っていく。荒い息を吐き出している。
 女は白い扉を開けた。明るい日差しの中へおどり出た。
 急な場面の変化。鋭い牙、真っ赤な口内が画面いっぱいに映し出される。女の悲鳴。スクリーンは黒一色に変わる。
 少女が再び笑った。
 重そうな銃を抱えて、男が金属質の廊下を走る。
「ジャクリーヌ! ジャクリーヌ!」
 通路の両側にある扉を、次々に開けていく。
「実はねえ、ディックの正体はオ……」
 少女の言葉が途切れた。おや、どうしたのだろう、と思い、私は横を見た。
 ぎょっと、した。彼女の口が黒い手袋で覆われている。
 その手は四本の指先をこちらに向けている。後ろの人間の手ではなかった。彼女の後頭部から出ているはずの腕が見当たらない。少女は目を飛び出さんばかりに開いている。
 まばたきをした一瞬の間に、手袋も少女の姿も消えてしまった。私は突然できた空の空間を凝視した。金髪の少年は何事もなかったかのようにスクリーンを見つめている。
 視線が気になったらしく、彼は私の方を向いた。それでも、すぐ横で起こった異変にまったく気づいていないようだった。
 なんだよこのおっさん、と言いたそうな目が私をにらんだ。

       *       *       *

 映画は十分ほどして終わった。結末を見て、少女が言おうとしていた言葉が分かった。銃を持った男は実は化け物であった。
 あの二人はカップルではなかったのだろうか。というよりもむしろ、まるで彼女が最初からいなかったことになってしまったかのようだった。エンディングテーマが流れ出すと、周りの人々は何事もなかったように立ち上がった。少年もそうだった。
 あの手袋はいったい何だったのだろう。私は映画館に来るまで、何をしていたのだろう。名前は? 住所は? 職業は? 何一つ思い出せない。
「あの、そこの方」
 いきなり声をかけられてどきりとした。見ると、ブロック塀の前に老人がすわっていた。
「お顔に悪い相が出ています。占ってあげましょうか?」
 普段の私なら通り過ぎてしまうところだが、奇妙な出来事の後に不吉なことを言われたので気になった。
「はあ、そうですか」
 私は粗末なパイプ椅子に腰掛けた。紫色の布がかかったテーブルの上に、しわくちゃの両手と三つのサイコロがのっている。
 彼はサイコロを握った。
「あの、ちょっと待って下さい」
「なんですか?」
「それで占うんですか」
「ああ、珍しいですか? 筮竹(ぜいちく)を使って時間をかけて行う方法を簡略化したものです」老人は私の顔をのぞきこんだ。「いいですか?」
「すみません。続けて下さい」
 彼はサイコロをふった。一と二と四が出た。
「ふむ」
 続けてふる。三と五と六が出た。
「ほほう」
 同じことを何度もやるのを、私は辛抱強く待った。いい加減ばからしくなってきた頃、彼は突然私を驚いた顔で見つめた。
「あなた、こりゃあ」
「どうしました?」
「私は、あなたの事を占うつもりだった。ところが、街全体にかかわる大変なことが分かってしまったのです」
「はあ、それはどうも」
「いやいや、あなた、のんびり構えている場合ではありませんよ。こりゃあ、大変だ」
「何と出たんですか。それを教えてくれないと」
「ええ、実はですね……」
 今度は私が驚いた。いつの間に現れたのか、あの手袋が老人の口をおさえていたのだ。
「むっ、むぐ」
 そんなバカな! これはいったい、どうなっているんだ。後ろは塀で、人の入りこむ余地はない。というより、その手には手首から先がなかった!
「あ、あの、ちょっと」
 私は思わず手をのばした。そして、手袋をつかもうとした。しかし、あと少しで触れるというまさにその瞬間、手も老人も消えうせてしまった。テーブルも椅子もなくなったので、私は尻餅をついた。
「こんな、こんな事……」
 立ち上がり、周りを見る。二、三の人が私に怪訝な顔を向けていた。
「今の、見ましたか?」
 赤いセーターを着た女性に近づくと、彼女は気味悪そうにして逃げた。
「誰か、誰か今のを見た人はいませんか!」

       *       *       *

 あの手袋は何だ。どうして大事なことを言おうとすると、その人物が消えてしまうのだ。それとも、私が見たのは幻覚なのか? そして、なぜ私には記憶がないのだ。
 幻覚、記憶喪失。それから連想されるのは……麻薬だ! 私はそんなものを飲んだのか? 覚えていないので確かめようがない。
 待てよ? 山姥メークの少女、易者、どこかで見たことがあるシーンだ。映画か、テレビか、小説か。
 思い出さなければならない。記憶の一端をつかんだのだ。なんとしても思い出さなければならない。
 そうだ。見たんじゃない。読んだのだ。何かの小説にそんな場面が出てきた。
 私は駆け出した。本屋を探さなければならない。自宅に帰ればその本があるに違いないが、家がどこにあるのか分からない。だから、本屋に行くのだ。
 繰り返しふられたサイコロ。出た目は覚えていない。易者は何を言いたかったのか。この街がどうかなると言っていた。あの手袋に関係あるのだろうか。本を読めば分かるかもしれない。
 この先に駅があったような気がする。私は大通りを走った。往来する人々の間をすり抜け、駅ビルに駆け込んだ。
 五階に本屋があったはずだ。私の記憶は戻りかけているのか? エスカレーターがゆっくりと上るのがもどかしく、人々をおしのけていった。
 ようやく本屋にたどりつくと、私はまっすぐに文庫本のコーナーに行った。K文庫だ。間違いない。
 本のタイトルをながめ回す。そのうちの一つに、目がとまった。
「サイコロのなすがままに」
 そうだ、この本だ。そしてその下に……私の名があった!
 頭の中の霧が、少しずつ晴れてきた。私は、作家だったのだ。
 これは短編集だ。去年出したやつだ。私は本を引き抜くと、急いでページをめくった。
「ああ!」
 ――気がつくと、私は映画館にいた。スクリーンでは有名な俳優が機関銃を乱射している。画面の下にはこんな台詞が書かれている。
「ジャクリーヌ、早く逃げろ」
 いつから、ここにいたのだろうか。私は、眠っていたのだろうか―― 
 まさか、そんなことが。私はさらにページをめくった。
 ――あの手袋はいったい何だったのだろう。私は映画館に来るまで、何をしていたのだろう。名前は? 住所は? 職業は? 何一つ思い出せない。
「あの、そこの方」
 いきなり声をかけられてどきりとした。見ると、ブロック塀の前に老人がすわっていた――
 現実の出来事が、そのまま文章になっている。いや、逆だ。私が書いたことが、その通りに起こっているのだ。だとしたら、記憶がないのも不思議な手袋が現れたのも当たり前の事だ。私がそう書いたのだ。
 私は本を閉じた。もうそれ以上読む必要はなかった。私は、すべてを思い出したのだ。映画館に来る前のことではない。物語の内容を、である。
 みんなに知らせなければならない。この街には、恐ろしい災難が降りかかってくる!
 私は上った時と同様、人々をかきわけて駆け下りた。外に飛び出し、走りながらわめいた。
「みんな逃げろ! この街は恐ろしいことになるんだ!」
 皆、眉をひそめて私を見た。
「早く逃げろ! 大変な災厄に巻き込まれるぞ!」
 声がかれるまで叫び続けた。足がつるほど走り続けた。頼む、誰か私の言う事を聞いてくれ。
 すっかり疲れ、立ち止まった。右手を見ると、あの本を握っていた。金も払わず持ってきてしまったようだ。ため息をつき、額の汗をぬぐう。
 私は交番の前にいた。そうだ、警官なら私の話を聞いてくれるかもしれない。
「ああ、すみません」
「どうしました?」机の前にすわった警官は顔を上げた。
「いや、実は……うっ」
 突然、誰かが私の口を後ろからおさえた。体中に電気が走ったような衝撃が襲い、徐々に意識が薄れていった。
 警官はちょっと首を傾げて、机の上に目を落としてしまった。
 交番の中の風景がゆっくりとかすんでいく。
 頼む、誰か、誰か気づいてくれ。みんな逃げてくれ。恐ろしいことになるんだ。この小説の結末は……

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