私は、売れないSF作家である。収入も得られず、日々の食事は二食、それもカップラーメンというほどの極貧である。
 貧すれば鈍する。小説のアイデアも浮かばず、悶々とする日々。そんな時、あれを見たのだ。
 あの日、散歩でもしていればいいアイデアが浮かぶかもしれないと思い、私は町をほっつき歩いていた。ふと気がつくと、いつも世話になっているTという出版社の前まで来ていた。道路をはさんだ向こう側に、社の玄関が見える。ガラス張りの扉が開いて、一人の男が出てきた。
 私は仰天した。その男は私とそっくりだったのだ。パリッとしたグレーのスーツに、黒の革製のビジネスバック。みすぼらしい服装の私とは大違いだが、顔は私と生き写しなのだ。
 向こうに渡ろうと思わずふらふらと道路に踏み出した私の前を、「ピ、ピー!」というけたたましいクラクションを鳴らして車が通りすぎた。慌てて後ろに飛びすさり、再び玄関を見ると、もう男の姿はなかった。


 二重身……ドッペルゲンガー。死が近づくと現れるという、もう一人の自分。私はあの後恐怖におののいて、飛ぶようにして帰ってきたのであった。
 自分自身を見た、という話は、かなり昔からある。中国の六朝時代の「捜神後記」にも、寝室で寝ている自分自身を見た男が、間もなく死んでしまう話が出てくる。
 かの芥川龍之介も、死の直前にドッペルゲンガーを見たらしい。私は六畳一間の狭っくるしい部屋に乱雑に積み上げられた本の中から、一冊の本を引き抜いた。芥川龍之介の「二つの手紙」。自分と、自分の妻のドッペルゲンガーを見た男の体験を、警察署長に宛てた手紙という形式で、綿々とつづった小説である。何か小説的なおもしろい結末があるわけでもなく、たいして気にも止めていなかったのだが、今こうして自分がそういう体験をしてしまってから読み返すと、その不気味さが腹の底までしみ込んでくる。
 とは言っても、私は神秘主義者ではない。これには何か科学的な理由がつけられるはずである。単なる他人の空似ではないか。いや、先に「生き写し」と言ったが、本当にそれほど似ていたのである。
 実は私には双子の兄弟がいて、赤ん坊の時に生き別れたのではないか。
 しかし、だとすると何故親達はそれを秘密にしなければならなかったのか。
 ひょっとするとクローン人間ということもあり得る。赤ん坊の時に何らかの理由で私の細胞が採られ、密かに培養されていたのではないか?しかしつい最近クローン羊が誕生したばかりで、人間のクローンはまだまだ先の話のように思える。逆に言えば、羊ではあるもののクローンが現実のものとなって、公にされているくらいだから、密かに人間のクローンが作られていたとしてもおかしくはないということになる。
 もう一つ、今の私の現状からして、一番あり得そうなのが、私の頭がどうかしてしまったという事である。精神医学では、これを「自己像幻視」と呼ぶ。要するに幻覚の一種だというわけだ。しかしこれは「二重人格」同様、きわめてまれな現象であるらしい。
 あれから三日、何か変わった事が起こるわけでもなく、相変わらずまるで埋まらない原稿用紙を睨み続けるうちに、私の二重身への恐怖は薄らいでいった。馬鹿馬鹿しい、やはり何かの見間違いだったのだと思うようにさえなっていた。
 二度目にやつを見たのは、夜中にどうにも寝つかれず、ちょっと外の空気を吸いに出かけた時のことであった。常夜灯が等間隔で照らす中、ふいに横道からやつが現れたのだ。ラフな格好ではあるが、いかにも高そうな緑色のスポーツシャツを着ている。私は心臓が縮み上がったものの、意を決して、やつに気づかれないように、背後から近づいていった。しかしあともう少しで肩に手が届くという所にまで来ていながら、やつは曲がり角を曲がってしまった。私が角を曲がると、もうやつの姿はなかった。


 私はあれがドッペルゲンガーであると確信せざるを得なくなった。なぜならやつの首の後ろには、私と同じ傷痕があったからだ! あれは間違いなく、私自身なのだ。私は急に恐ろしくなってきた。今まで意識していなかった、「死」というものが、急に身近なものとなったのだ。私はいつ死ぬのか? 今日か、それとも明日か。私はまだ死にたくない。私には小説家として成功するという夢があるのだ。
 私に死の予告をしてあざ笑う男。私のやつに対する憎しみは、次第に膨れ上がっていった。
 どうしてあんな考えになってしまったのか。やはりこの時の私はどうかしていたのである。私はこう考えたのだ。私が死なないためには、その前にやつを殺すしかない。そうだ、私がやつのドッペルゲンガーになってやる!
 チャンスは意外に早くやってきた。一週間後、例の出版社の前で、私は再びやつと出会ったのだ。胸元に包丁をしのばせた私は、やつの後ろをつけていく。幸いにもやつの方は私に気づいていない。やつは、ビルとビルの間の細い路地に入っていった。私もすかさず路地に飛び込んだ。チャンスだ、ここなら誰も見ていない。この期を逃すと、もう永遠にチャンスは訪れないかもしれない。私はやつの肩をとんとんと叩き、振り向いたところを口を押さえて、包丁を一気にやつの胸に突き刺した。
 大きく開いた目を私の方に向けたまま、「ウウッ」とうなって、やつはひざまづき、前のめりに倒れた。私は尻餅をつき、ぶるぶると震えた。これで良かったのか? 本当にこれで良かったのか? やつの体の下から、どす黒い血だまりがゆっくりと広がってきた。
「……が……ねじれた……」
 やつの口から、小さい声がもれた。えっ? 何だって? と聞き返す余裕などない。私はずるずると後ずさりし、あたふたと立ち上がると、一目散に逃げだした。
 しばらくの間は、私は恐怖におびえていた。あれは全くの赤の他人だったのではないか。今にもドアがドン! と開いて警察が踏み込んでくるのではないか。あるいはやはりあれはドッペルゲンガーで、私は今日にでも死んでしまうのではないか。
 しかし一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎても、何も起こらなかった。あれは一体何だったのか。もやもやとした疑問が、その後も私の中に残り続けたのであった。


 あれから二年の歳月が過ぎた。私はあの時の経験を生かし、二重身を題材にした小説を書いた。刑事である主人公の前に、幼い頃に生き別れた双子の弟と、クローン人間と、さらには主人公に化けた変装名人の怪盗が現れて、主人公を恐怖のどん底に陥れるという小説である。これは大売れに売れた。私は一気に裕福になったのであった。
 編集者のY君と固い握手を交わした後、私は意気揚々とT出版社の玄関を出た。そして、ビルとビルの間にある細い路地に入っていった。駐車場への近道である。私が高級車を乗り回せる身分になるなんて、夢のようだ。
 その時である。私の肩をとんとんと叩く者がある。振り返った私は、目を皿のように大きくした。そこには、不精髭を生やし、みすぼらしい格好をした私が、右手に包丁を握りしめて立っていたのだ。何も言う暇がなかった。私は口を押さえられ、心臓にぶすりと包丁を突きたてられた。
 崩れ落ちる私の脳裏に、今までもやもやとしていたものが、明確な形を現してくるのだった。
 時間の流れは、過去から未来へ向かう真っ直ぐにのびた一本の棒のような形をしているとは限らない。
 空間をぐんにゃりとひん曲げて、離れた二点間を結ぶという、ワープのように、もしも時間の流れが、何らかの原因でねじ曲がって、未来の一点と過去の一点がくっついたとしたら……。そしてそれが私だけに起こったとしたら……。
「時間が……ねじれた……」
 暗くなっていく視野の中に、後ずさり、慌てて立ち上がって駆け去っていく、もう一人の私の姿が見えた。

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