俺は時計の中にいる。巨大で、なおかつ高級なやつだ。縁の部分で、走っている。文字盤とガラスの間にはさまれている。幅は一メートルほどだ。笑わないでほしい。だってみんな同じようなもんだろ? 口から出た途端に、胴の中に戻ってしまうクラインの壷とか、たたくたびにビスケットが二倍に増えていくポケットの内側とか、どうせそんな所にいるんだろ?
 ほうら! も一つたたくとビスケットが千二十四。
 も一つたたくとビスケットが二千四十八。
 足元の床はリング状で、俺が向いているのとは反対方向に、ずっと動いている。ベルトコンベアーみたいによ。だから、俺は走り続けなければならない。少しでも休めば、上に押し上げられ、転がり落ちてしまう。
 まるでかごの中のハムスターだ。丸いやつの中、走ってるだろ? あれ、名前なんて言うんだっけ。あの丸いやつ。まあ、どうだっていい。
 ガラス板の外で、監督が怖い顔をしてにらみつけている。俺が休まないように、見張っているんだ。
 俺は気を紛らわせるためにいろんなことを想像する。あっ、思い浮かんだぞ。ドミノ倒しをするんだよ。こう、北極点から始めてな、渦を巻くように並べていくんだ。で、延々続けてだな、やがて南極に到達するんだ。すげえぜ、こりゃ。地球はドミノで真っ黒に埋め尽くされるんだよ。飛行機で北極に戻って最初に置いたやつを指でちょん、と突く。長いながーい時間をかけて、そいつらが倒れていくんだ。最後まで行ったら感動もんだぜ。その直後に地球が爆発してなくなったっていいくらいだ。
 問題なのは、表面にいる人間とか、その他の動物とか、林とか建物だな。意外にでこぼこしてやがる。どうやって並べるんだよ! とりあえず、動いているものをなんとかしなきゃなんねえな。時間を止めるか。
 時間を止める、か。くそ! この時計、止まってくんねえかな。
 あ、海もあるぞ。ドミノって、浮いていられるのかな。人間が大丈夫なんだから平気だろ。でも立てられねえな。だめだこりゃ。
 はーあ。俺っていつからここにいるんだろうな。生まれた時からこうしてるんなら、クラインの壷とか、北極とか、知るわけねえな。昔、豆腐の角に頭をぶつけたら、どうなるんだろうなんて、くっだらねえこと考えてさ。本当に豆腐の角に頭をぶつけてみて、その途端にここに来たんだっけかな。覚えてねえや。
 監督が鞭をふりやがった。でもガラスでさえぎられているから平気だ。
 朝七時を過ぎても、飯が食えねえ。十二時になっても、昼食はねえ。三時になっても、おやつはねえ。――食うことばっかりだな。
 パソコンがなくても、テレビがなくても、生きてはいける。でも、おまんまは必要だな。
 夜の十一時、十二時を過ぎても眠ることはできねえ。
 じゃあ、俺っていったいどうやって生きているんだ?
 あの長針につかまりてえ。そしたら、足を休めることができる。
 分針は動きが速そうだな。時針の方が楽だ。秒針は無い。
 ――部屋の中が洋服ダンスだらけだったら、どうしようか。正確に、縦横に整列しているんだ。扉が観音開きになっていて、棒があって、それにハンガーで服を掛けるタイプのものだ。俺はそのうちの一つを開ける。中にはズボンばかり吊るされているんだ。これじゃないな、と思い、次のを見る。パジャマがたくさんある。これでもない。次のやつには背広だけが、次のやつにはTシャツだけが吊られているんだ。これかな? 違う。これかな? 違う。そしてついに、探していたものを見つけるんだ。タンスの中に、一回り小さいタンスが入っている。それを開けるとまたタンスが、それを開けるとまたタンスが……。
 で、最後のやつはもう、靴を売る時に入れる箱くらいの大きさしかないんだ。そして、それを開けると……わああっ。
 あらゆる悪夢が飛び出してくるんだよ。罪と罰で世界が覆い尽くされるんだ。
 ってことは何か? 俺は潜在意識下で、パンドラの箱を求めているのか? まあ、そうかもしれねえなあ。
 俺の右側はガラス板だからいいが、これがもし時計だったらどうしよう。しかも左側の二倍の速さで動いているんだ。時間の流れがふたつあるんだ。そしたらもう、どっちが正しいのか分からねえ。
 どう目に映るんだろうな。嫌だな。
 こんなクイズがあったな。内側が全て鏡になっている球の中に入ったら、どんなふうに見えるか? 答が思い出せねえ。いや、それだってきっと不快な風景に違いないと思ってさ。
 監督が腕時計を見てやがる。こんなでかいのが目の前にあるのに、なんでそんなことするんだろ。
「金魚ーえ、きんぎょー」っていう声が聞こえるから、行ってみたら豆腐売りだったらどうだろう。しかたねえから買って、家に帰って醤油かけて食ったらいきなり口の中でぴちぴちはねるんだ。あ、中に入ってやがったのか。そしたらどうするよ。飲んじまうか。で、腹を軽く二、三度たたいて吐き出すか。そしたら新聞紙を束ねてひもで縛ったやつに変わってやがんの。どんな口だよ。
 おかしいなーと思ってたら、次の日同じおやじが「さおやー、さおだけー」って歌ってんだ。新聞持って文句言いにいったら、「うーん、その分量だとこれだけだね」ってトイレットペーパー一つ渡されるんだ。ちり紙交換かよ! って言うかお前、何屋だよ!
 あ、さっきのクイズの答、思い出したぞ。真っ暗で何も見えない、だ。右が時計の場合も同じだな。ここ、ガラス板ふさがれたら光入ってこないからな。
 あーあ、足が疲れる。
 マッチ買いの少女っていうのがいなくて良かったな。貧乏な彼女に謎の人物Xから与えられた任務は、三時間以内にその辺を歩いている人からマッチを買うことだ。Xは非情だ。遂行できなければワニの餌にされてしまう。

 マッチを売って下さい。ああ、ああ、おじさん、マッチを売って下さい。寒いわ。こごえそう。なぜお店で買ってはいけないのかしら。そしたらすぐ済むのに。あ、あのおばさんはやさしそう。すみません、マッチを売って下さい。ああ、そんな目で見ないで。もう時間がないんです。なんてこと! あと三十分しかないわ。私、ワニの餌にされてしまうんです。ああ、行ってしまった。
 あ、あの子マッチをすっているわ。私と同じで、不幸せそう。ねえ、お願い。私にそのマッチを売って。何かつぶやいているわ。
「おいしそうな鵞鳥」って、私の話、聞いてる? 「きれいなクリスマスツリー」って、そんなものないわよ。
 かわいそうに。この子も私と同じで貧乏なんだわ。きっとこのマッチを売ろうとして一本も買ってもらえず、寒さと空腹のために幻を見ているのだわ。あ、そんなに無駄にすらないで。もったいないわ。なんということ。今ここに、のどから手が出るほど欲しがっている人間がいるのに。早く気づいて。
 え? 「おばあちゃん、私も連れていって」って、ちょ、ちょっと、行っちゃだめ! だめだってば!
 ああ、神様、この子と私にお慈悲を。
 そうだわ。これ、もらうわね。お金、ここに置いておくわね。私急ぐから。有難う、有難う。

 ちぇっ、泣けてくらあ。マッチ買いの少女がいなくて本当に良かった。
 あと、モアイとピラミッドがバミューダトライアングルの上に浮いていたらすごいぞ。ついでに、その海底にはアトランティス大陸があるんだ。それぞれの摩訶不思議なパワーが渾然一体となり、とんでもないことになるぞ。そんな所を航空機でも通ろうもんなら、そりゃあもう、間違い無く消えるね。で、気がついたら火星だな。なんか変だなーと思ってよく見たら、表面に人面石がたくさんあって、こっちを見てにやにや笑ってるんだ。と思ったら次の瞬間には宇宙の果てだね。羽根が生えた巨大な人がふたりいて、ウェルカム! って顔してんだ。
 油断していたら今度は未来だ。おおお、これは西暦何年に消えたボーイング何号だ、とか言ってみんな驚くぞ。そいつらは頭がやたらでかくて、手足は退化して細いんだ。ってことは当然次は過去だな。原始人達が手を振り回してわめいている。オウ、オウ、オオオウ、オウ、オウ、オオオウ、ってな。「あれは黒いふくろうの蛇がつかわした、深い闇の鳥だ」とか、たぶんそんなような事だ。ふくろうの蛇ってこたあねえな。
 その風景がゆがんだかと思うと、いつの間にかやかんの中にいるね。小さくなっているんだ。航空機が。ものすごく熱いんだよ。煮えたぎる湯とふたの間に浮いている。もうだめだ、墜落する! その瞬間、ピーピー鳴って、家の主が笛の部分を開けるんだ。勢いよく飛び出すね。
 で、何事もなかったかのように出発した空港に戻っている。ところが乗客、乗務員はみんな三年だけ歳をとってるんだよ。三年っていうのが微妙だね。白髪の老人になったとかじゃなくてさ。
 ああバカバカしい。ようし、あの長針につかまってやる! しかし、そんな事をして大丈夫だろうか。監督が俺を見ている。
 グッドタイミングだ。ちょうど長針が下を向いた。つまり俺の真上だ。やるんだ、やるんだ俺!
 はっはあ! ついに俺は足を休めることに成功した。そのかわり手が疲れるがな。でも、ハムスターみたいに走りつづけるよりはよほどいい。
 ああ、極楽、極楽。うーんしかし体勢はつらいな。でも、四十五分に近づくに従って楽になっていく。
 六十分――てことは〇分だな――に達すると、またつらくなった。こうして水平、垂直、水平、垂直、楽、苦、楽、苦を繰り返すんだろうな。
 だが、三十分の所に来る頃にはすっかり手がしびれ、落ちてしまった。
 なんてこった。一時間しか休めなかった。待てよ? 短針につかまれば十二時間も休憩できるじゃないか。なんでそんな事に今まで気づかなかったんだ、俺!
 ああ、神様のおめぐみだろうか。もうすぐ六時ではないか。
 よっしゃあ! 俺はジャンプした。だが、なんという運命の皮肉。

 ちくしょう! 時針は短過ぎてとどきゃしねえ!

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