空から何百本もの糸のような雨が降り注ぎ、フロントガラスに点々と水滴をまいている。
 二つの光が、濡れた路面を細々と照らし続ける。明日の会議で使う企画書の修正に手間取ってしまい、もう十一時を過ぎている。単調に往復を繰り返すワイパーが眠気を誘う。
 涼子も淳一も、もう寝ただろうか。
 商店が並ぶこの道を十分ほど行くと、我が家に着く。見慣れた和菓子屋も、散髪屋も、とっくに店じまいしていて、人っ子一人いない。雨の中、にぎやかさが夜の闇に吸収された商店街を走っていると、何だか気が滅入ってくる。
 おや?
 薬屋を通り過ぎた時、私は街灯の下に若い女の姿を見つけた。傘もささず、何かを待ち続けるように佇んでいる。うつむいて、長い髪に隠れて表情は分からない。
 彼女はすぐに後方へと過ぎ去っていった。いったいあんな所で何をしているのだろう。
 コインランドリーを通り過ぎた頃には、女のことは頭から消えていた。家まであと少しだ。日曜日には淳一をどこかに連れていく約束をしている。どこに行こうか、などと考えていた。
 時々現れる街灯が、濡れた商店をさびしく浮かび上がらせる。左手に和菓子屋が見えた。いつも見る風情あるその店も、今は生気のない一つの建物に過ぎない。散髪屋を過ぎたところで、やっと何かがおかしいことに気がついた。
 ここはさっき通ったはずではないか?
 もうとっくに車が四台しか入らない月極駐車場に着いている頃なのに、なぜ駅の近くに戻っているのだろう。いかん、いかんな。私は頭をふった。最近残業続きで、疲れがたまっているのかもしれない。
 薬屋が見えてきた。背が低いおばあさんがいる、こぢんまりとした店だ。嫌な予感がした。
 少し行くと、予想通り女がいた。髪も赤いセーターもすっかり濡れてしまっているのに、じっと立っている。
 狐か狸に化かされているのか? まさか、こんな時代にあるはずもないことだ。ライトがあたっても、彼女は微動だにしない。
 デジャビューという言葉が頭に浮かんだ。そうだ。それであるに違いない。おそらく、傘を持たずに出かけてしまい、困っているのだ。タクシーでも拾おうとしているのだろう。
 横を通過する際、彼女がこちらを向いたような気がした。しかし気のせいだった。ミラーに映る姿は相変わらずうつむいたままだ。だがその気配が、私の腕のあたりを少し寒くした。
 誰かに似ている。ふと、そう思った。なぜだろう。顔も見ていないのに。
 小学校の時の先生が頭に浮かんだ。髪の長い、美しい人だった。私は痩せていて、病気がちだったから、特に目をかけてもらった記憶がある。体育の授業で、私はみんなより何周も遅れて運動場を走っていた。みなすでに走り終えて、私だけが取り残された。先生は口に手をあてて声をかけるのだ。
「高木君、あと二周よ。がんばって」
 その時の笑顔が今でも心に残っている。人間というやつはささいな事をいつまでも覚えているものだ。
 コインランドリーが見えてきた。ここだけは夜中でも明かりをともしている。
 私は嫌なことを思い出し、眉根を寄せた。中学に上がった時、先生が亡くなったという知らせを聞いた。ショックだった。たしか、車の事故かなにかだった。私は彼女に恋愛の情を抱いていたのかもしれない。
 どうしてこんな事が頭に浮かぶのだろう。自然と口から自嘲するような笑い声がこぼれた。あの女にはちゃんと足があったではないか。
 街灯の光を受けて浮かび上がる看板が目に入った。古風な書体で「万葉堂」と書いてある。いつもは見るだけで甘いあんこの香りがただよってきそうなその文字も、今は脅すように私に迫ってくる。まさか、そんな。
 回ることを止めた、赤と青と白の帯がらせんを描く筒がライトの中に現れた時、疑念は確信へと変わった。
 堂々巡りしている。
 薬屋が近づいてきた。私は自分ののどが鳴る音を聞いた。内側に胃薬や頭痛薬をおさめた真っ黒なガラス窓の列が前方から後方へと過ぎていく。
 雨に濡れる女の髪が見えてきた。小学生の頃の記憶は時の彼方に去りかけているにもかかわらず、私には女が先生であるように思えてならなかった。
 ついに私は路肩に車を停め、ドアを開けた。潤ったアスファルトが靴の底にあたる。細い水の糸が容赦なく頭を濡らし始める。
 何と声をかけようか。もしお困りでしたら送りましょうか、とでも言うのか。怪しいやつだと思われるだろうか。そういう次元の問題ではないのか。とまどいながらも、足は勝手に進んでいく。
 私は腕を彼女の方に伸ばし、口を開いた。
「あの……」
 女は顔を上げた。似ている、と思った。しかし、記憶の中にいる先生より、少し年上に見えた。その表情は青ざめ、怪我でもしたのか額に傷跡があった。
「あの……」
 それしか言うことができなかった。女は私を見つめ、私もまた女を見つめた。自分の心臓が早鐘をうち始めるのが分かった。時は止まり、ただ雨の音だけが聞こえた。
 彼女がわずかに微笑んだような気がした。
「三周目よ」
 それだけ言うと、女の姿は忽然と消えうせた。

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