山田太郎は椅子にこしかけると、深いため息をついた。
「ここに来ると落ちつく」彼は胸ポケットからたばこを出すと、一本つまみ出して口にくわえた。
 眉間にしわを寄せ、銀のライターで火をつける。煙の矢を吹き出しながら、ワックスで光る丸太の壁を見つめる。
 たまに休暇がとれると、静かな山中のロッジで時を過ごすのが、彼の習慣だった。
 ヤリコ・ダ・メダ社における彼の地位は特殊なものだ。スパイ、という言葉が一番近いだろうか。
 社長のヤリソ・ダンナは彼のボスというよりも、クライアントといった方がいい。ヤリソでさえ、彼が何者なのかは知らない。
 自分はいったい何なのか。それは彼が何度も自問してきた問いだった。そして最近になって自分なりに得た答はこうだった。
 俺は、サイコロボーイだ。
 実に単純にして明快な答。他の何者でもない。
 彼は壁にかかった鏡を見つめた。そこに映るのは山田太郎なのか、サイコロボーイなのか。鏡の中の彼が、自嘲するように笑った。
 木のテーブルの上に鎮座しているガラス製の灰皿に、灰を落とす。彼は視線を鏡に戻した。
「!」
 彼は振り向きざま、サイコロを放った。
「たあーっ!」
「あうっ!」
 戸口にいた男は、目をおさえてうずくまった。頭に包帯が巻かれている。そして、コートから出た両腕にも。
「またあんたか。ノックくらいしろよ」彼はあきれたという口調で言った。
 男は膝に手をついて立ち上がった。まだ片目をつむったまま、サイコロを投げ返す。
 右手でキャッチしたそれを、彼は用心深く調べた。
「お前のサイコロだよ」
 男はようやく目を開いた。赤くなっている。
「すわってもいいかね」彼の返事を待たず、歩いてきて正面にすわった。
「銃はどうしたんだい?」と青年は言った。
「どうもそういうもんじゃ、人をくったような手でかわされてしまうようだ」
「人をくったような手にまんまと引っかかるのは、どこの誰だっけ」
 男のまゆがつり上がった。
「俺は、サイコロボーイに勝つためにはどうしたらいいか、考えたんだ。そしてサイコロで勝負しようと思った」
「男らしいね」彼はゆっくりと煙を吸い、吹き出した。「どうするんだい? クラップス? それともちんちろりん?」
「いや、そういうことじゃない。まあ聞けよ」
「ああ、いいよ」青年は灰皿にたばこを押しつけてねじった。
「サイコロで勝つといっても、どうやって勝てばいいのか? お前が言ったようなゲームだと、運頼りになってしまって、絶対に勝てるというわけではない。なにしろサイコロボーイと呼ばれるお前のことだ。イカサマは通用しないだろう」
「するさ。あんたが十分に頭が良ければね」
 男は咳払いした。
「とりあえず俺は、サイコロをふってみることにしたんだ。何度もやっているうちに、おもしろいことに気がついた」
 男は言葉を切った。彼はたばこを勧めたが、男は手をふった。
「一の目が多く出るような気がしたんだ。ふればふるほど、それは確かになっていった。俺は、自分が超能力を持っていることに気づいたんだ」
 青年は思わずふき出した。
「本気で言ってるの?」
「そのことを確実にするために、ちゃんと記録をとって、一万回試してみることにしたんだ。二日かかったぜ。結果は上々だったよ。三千六十三回も一が出たんだ」
「でもそれだけで超能力だって言うのは、ちょっと……」
 確率六分の一なら、千六百回くらい一が出るはずだ。それより千四百回多いのは、大きな値というべきか、そうでもないのか。
「それって、六面体のサイコロ?」
「なんだ、当たり前じゃないか。それ以外のやつなんてあるのか」
「テーブルトーク・RPGでよく使われるのは、正八面体のサイコロだよ」
 男の顔が、むすっとなった。
「いやいや、けちをつけようってわけじゃないんだ。もし八面体だったら、確率から言って一が出る回数は千二百五十回でしょ? それなら、二倍半近く出てるんだからすごいと言えるかもしれないけどね」
 彼は、自分がけちをつけていることに気がついた。
「とにかく!」
 男がいきなりテーブルをたたいたので、彼はびっくりした。自分の血流が徐々に速くなっていくのを感じる。
「これなら勝てると思った。さあ勝負しろ、サイコロボーイ」
「へ?」何のこっちゃ、と彼は思う。「どうやるの?」
「一万回サイコロをふって、どちらが多く一を出せるか、競うんだ。紙と鉛筆を用意しろ、サイコロボーイ」
「ええ? これから一万回もやるの? 冗談でしょ」
「一回十秒で済ませれば、二十八時間で終わる。俺はそのくらいのペースでやったからな。食事や睡眠を入れても、二日で終わる」
 青年はちょっと天井の方を見て、視線を男に戻した。
「それは公正じゃないよ。交互にふるべきだ。一人がふる間、もう一人が見張ってないと。間違った値をメモるかもしれない」
「“時限爆弾”の設計図が賭かってるんだ。一ヵ月かけてもいいくらいだ」
 なんだ、あれを賭けるのか、と青年は思った。あんな物のために、俺が、そしてこの男も、命をはらなければならない。そう思うと、彼は少し憂鬱になった。
「それじゃあ、僕が負けたら設計図を渡す。勝ったらあんたがきっぱりとあきらめる。それでいいね? そのかわり回数は百回にしてよ。僕だって暇じゃないんだ」
 男はテーブルをにらみつけた。十秒近くそうしていた。
「いいだろう。俺は超能力者だ。百回でも勝つ自信がある」
 彼はまた笑いたくなったが、我慢した。部屋の隅に行って本棚から便箋を、その上の小物入れからペンを二本取り出した。それをテーブルに並べながら言う。
「サイコロは僕のでいいね」ポケットから二つのダイスを引っ張り出し、手にのせて男に突き出す。「いんちきはないよ。なんなら噛み割ってみるかい?」
「いや、信用する」
 青年は椅子にすわり、サイコロの一つを男に放った。
「どこにでもある普通のものだ。色は白。形はきっかりとした正六面体。ゆがみはない。密度は均一……かどうかは分からないけど。デパートで買った安物だからね。まあ、神経質になるほど粗末なものでもないだろう」
 男は何も言わず、うなずいた。

       *       *       *

「ああ、やっと終わった」青年は伸びをした。
 実際には二人で一回十秒もかからなかったから、十五分程度で終わった。
「俺の勝ちだな」
 男は二十二回、青年は十五回、一を出した。
「サイコロボーイも、超能力にはかなわなかったようだな」
 そう言われた彼は、うなだれてみせた。
「さあ、設計図をよこしな」
 男が勝ち誇った顔をして立ち上がると、青年は低い笑い声をもらし、次にはのけぞって大笑いした。
「な、何がおかしい」
「バカだなあ、あんた。本当に自分が超能力者だなんて思ってるの?」
「何を言う。現に……」
 青年は、サイコロをつまむと、指先でもてあそび始めた。
「知ってるかい? ラスベガスのカジノで使われるサイコロは、表面の数字を表す点はへこませては作られていないんだ。つまり彫り込まれていない。わずかな重量配分の不均一性すら許されないんだ」
 男は彼が何を言いたいのか分からないらしく、狐につままれたような顔をした。
「一般のサイコロは、厳密には確率が均等ではないんだ。ほら、一の目は他に比べてへこみが大きいだろう? 一の面だけ他より軽いから、出る確率が大きいんだよ。一万回も繰り返せば、その影響が出てくる。一が多く出たからって、別に不思議でもなんでもないよ」
「……」
 男は何も言えず、石像のように立っていた。
「先に言ってあげればよかったんだけど、あんたの遊びにつきあってやろうと思ってさ」
 男は、しばらく硬直していた。真ん丸に開いた目と口はムンクの「叫び」のようだ。
「俺の……負けだ」
「分かってくれた?」
 青年はたばこの箱から一本抜き出そうとした。
「吸うな。煙が目にしみる」
 男の目はまだ赤かった。
「よかったな、サイコロボーイ。これでもう俺に追われることもない」
「そうだね。せいせいしたよ」
 今度は男がうなだれて、ふらつきながら戸口に向かった。青年も立ち上がり、ついていった。出る時に、彼は男の肩をたたいた。
「元気だしなよ。そのうち良いことあるって」
 彼は、男の姿が見えなくなってしまうまで、そこに立っていた。ドアを閉め、独り言をつぶやく。
「危ないところだったな。どうなることかと思ったぜ」
 急いで逃げなければならない。彼にまんまとだまされたことに気づいたら、頭から湯気をふき出しながら戻ってくるに違いない。
 明らかに青年の負けだった。相手より多く一を出すことが、勝利の条件だった。男が超能力者かどうかは関係ない。
 俺もいい加減なことを言うもんだ、と彼は思う。ラスベガスのサイコロの話は本当だが、だからといって一の目が他より軽くて出やすいというのが本当かどうかは知らない。口から出まかせだ。
 鞄はどこだったかな、と思いながら、彼は部屋を見回した。ベッドの脇にそれを見つけ、彼は歩いていった。
「やれやれ、本当に暇じゃなくなっちゃったな」
 彼は重い鞄を持ち上げた。

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