酒と涙と男と女とダンサー

 人生の苦労が皺に刻まれた男は、暖簾をくぐり、曇ったガラス戸を開けた。とたんに、暖かい空気が身を包み始める。
「あら、良さん」
 待ちわびたような女の声が、彼の名を呼んだ。
 良次は短い髪と、黒のコートについた雪をはらった。
「外は冷えるでしょう」
 女のはなやいだ声に、彼は目線で応える。ゆっくりとカウンターに歩み寄り、コートをぬぐ。古ぼけた木の椅子を引いて腰掛け、コートを隣の席の背にかける。
「一本つけてくれる?」
 和服がよく似合う若女将はかわいくうなずいた。
「あいよ」
 ラジオから三都かすみの「慕情の宿」が流れている。
 ――あなた恋しい未練坂。今日も小雪が降り続く。あなたの広い背中を想い、寒さこらえる北の宿……
 女の白い手が銚子を湯の中につけるのを、良次は見つめていた。
「おつまみは何にします」
「イカの梅和え」彼は答えながら、胸ポケットからたばこを出した。
 一本つまみ、口にくわえると、女がマッチを擦って火を向ける。
「はい」
 小さな炎がたばこに移る。良次は、内にたまったせちがらい世間の侘びさびといっしょに煙をはき出した。
 ふいに戸が開く音がして、石油ストーブが暖める二人だけの空間に、もう一人の客が加わってきた。
「イヤッホウ!」
 良次が振り向くと、ひらひらした短冊のようなものがたくさんついた服を着、盛り上がったパーマを頭の上にのせた男が、ブリッジの体勢で、右腕だけ上に向けて天井を指差していた。
「イッツァ、ショーウターイマッ」
 男はばねが弾けるように立ち上がった。激しく手足を動かす。
「ヘイッ! ヘイッ!」
 良次はたばこを灰皿にこすりつけ、女将を見て、微笑んだ。イカを口に含むと、梅の香りが鼻腔にまで広がった。
「おいしい?」
「ああ」
 背後から、床をこする音が聞こえる。
「ルカットミー、ルカットミー」
 ダンサーが徐々に良次の横に移動してくるのが、眼の端に映る。
「ルック! アット! ミー!」
 良次は口を動かしながら、彼を見た。
「グッドボーイ!」
 パーマ男は左の肘を突き出し、右腕を斜め下方に伸ばすと、痙攣したような動きを始めた。
「グ、ググッグ、グッド、グッド、グッドボーイ!」
 男はカウンターから次第に離れ始めた。良次がイカの梅和えに視線を戻そうとすると、「ヨウッ」という大声をあげて手を打ち鳴らした。
「デリシャス」
 ダンサーは壁の、染みがついたカレンダーを指差し、体を前後にゆらしながらその指を、半円を描くように動かしていった。
「デリーシャス! デ、リーシャス!」
 彼は床に転がって、くるくると回った。
「ワッ!」
 弾け飛び、目まぐるしくステップを踏む。良次は静かに立つと、彼の前に行った。
「お疲れでしょう」
 かがみこみ、右腕を上げ、左腕を下げた格好で、ダンサーの動きがぴたりと止まった。
「帰りませんか」
 ダンサーは飛び上がって手を打ち鳴らした。
「ヘイッ!」
 両腕を下方に突き出し、右肩と左肩を交互にゆらす。
「ヘイッ! ヘイッ!」
 手は手旗信号のようなパラパラで、足は前に歩く格好のまま後ろに進むブレークダンスで、男は下がっていった。
「グッド、センス!」
 良次は彼のために戸を開けてやった。
「ワンモア、ナイト!」
 男が戸の向こうに行くやいなや、良次はぴしゃりと閉めた。カウンターに戻り、腰掛ける。男と女の間に沈黙が訪れた。ラジオから流れる舛尾 豊の「漁場の冬」が静けさをいっそうきわだたせる。
 ――風が鳴る鳴る夜の海。男は祭りを待ちながら、酒をあおって女房を泣かす……
「女将、お勘定」
 女はそっと、袖で涙をぬぐった。
「かわいそうね、ダンサー」


 酒と涙と男と女と宇宙人

 良次は、今日も居酒屋で飲んでいた。人生の酸いも甘いもかみしめて、それが背中に現れ始めた歳の男にとって、女将の待つ店は心の故郷のようだ。
 豆腐を口に運びかけた時、背後で戸が開く音が聞こえた。
「やあ、こんばーんは」
 振り向くと、青い瞳の、体格のがっしりした角刈りの男が立っていた。この寒いのにタンクトップ姿で、肌を銀色に光らせている。
「さっむーいですね」
 彼は、ゆっくりと歩み寄ってきた。男は女将の正面に立つと、いきなり両手を上げた。
「ばあーっ!」
 女はうつむいた。
「私は、宇宙人だあーっ!」男は叫んだ。
 今夜もまた、三都かすみの「慕情の宿」が流れている。
 ――雪の降る夜は凍てつく宿。女心は試練坂。行ってしまったあなたを想い、寒さこらえる北の宿……
「どうぞ、お掛けになって」
 突っ立っていた男は、良次の隣にすわった。
「ビールをくれ。中ジョッキ」彼は急に普通の客らしい口調になって、言った。
 良次はぐいと酒を飲んだ。心地よい苦みがのどを通っていく。しばらくだまっていたが、横にすわられて何も話さないのもなんだと思った。
「宇宙人の仕事は、大変ですか」
「シンタックス、エラーッ!」銀色の男は胸をそらせ、ガッツポーズをとった。「やっと地球のコンピュータと、コミュニケーションできたんだあーっ!」
 女将は彼の前にビールを置いた。彼は珍しそうに見つめていたが、やがて口に運んだ。ものの一秒とたたないうちに、ジョッキは空になった。
「親父! おかわり!」
「女将だよ」良次はぼそりと言った。
「おーやーじーっ!」
「はいはい」女将はビールの栓を抜いた。
 注がれたビールはあっという間に飲み干された。
「あーっ」銀の男は口の周りについた泡をなめた。「ファイルが開けません!」
 ジョッキを持ったまま胸をそらせ、ガッツポーズをとる。
「地球の酒、とてもうまいでーす! コンパイルできませーん!」
 ――男を待つのは悲しい女の性。あなたはいつ戻ってくるのでしょう。 私のぼるわ、恋慕坂。春を待ちます北の宿……
 その時、フイーン、フイーンという奇妙な音が外から聞こえてきた。
「あんたを迎えに来たんじゃないの?」良次は窓ガラスの方に親指を向けた。
「もう来たのか!」銀の男は外の方を向いた。「既にか!」
 大男はうつむいて、首をふった。
「あーあ、営業マンはつらいねえ」疲れたように立ち上がる。
 と、急に怒ったように目をむいて、顔を良次の方に突き出してきた。
「そう思わないのかっ!」
 良次は握ったコップを見つめた。電灯の明かりをうけて、光っている。
「思うよ」
 銀色男は軍人のような足取りで、戸口に向かった。出ていく時、片手を上げて振り返り、さわやかな笑みを浮かべた。
「じゃ」
 彼が行ってしまうと、男と女のゆったりとした時間が戻ってきた。ラジオから聞こえる退屈なおしゃべりと、鍋のぐつぐついう音が辺りを支配していた。
 良次は残りの酒を飲み干した。
「女将、お勘定」
 女は袖を目の下にあてて、つぶやいた。
「かわいそうね、宇宙人」


 酒と涙と男と女とエアロビ

 今日もまた良次は、居酒屋に来てしまった。女将にほれたのか? まさか。彼は自嘲するように笑った。暖簾をくぐり、戸を開けると、先客がいた。
「オーケイ、グッド!」
 青いレオタードに身を包んだ女が踊っている後姿が、良次の目に飛び込んだ。彼女は振り返り、彼に気づくと、嬉しそうに手を振った。
「さあ、加わって。はずかしがらずに」
 良次は迂回して、カウンターに歩いていった。女はそれにあわせて、ひまわりが太陽を追うように体の向きを変える。
「いらっしゃい」女将はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
「熱燗と、大根」
 エアロビ・ダンサーは、良次が目を離すと寄ってくる。視線を向けると、下がる。三十を超えているであろう女は、両側に思いっきり引っ張ったような笑顔で、ポニーテールを揺らしながら踊っている。
「ワン、ツー、スリー、ハイッ! ワン、ツー、スリー、オウケイ!」 
 今日は演歌をやっていないらしく、ラジオからはくだらないおしゃべりが聞こえてくる。
「どうぞ」女将は湯気のたつコップをテーブルに置いた。
「ああ」
 女は目と口を大きく開けて、頭の上で手を何度も打ち鳴らした。
「ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ。オーケ、エビバディ」
 ことんという音が聞こえ、良次が目を向けると、大根に昆布とからしが添えられた皿が彼の前に置かれていた。振り向くと、ダンサーが良次の目の前に迫っていた。
「ジャンプ! ジャンプ! ワン、ツー、ジャンプ!」
 女が跳ねながら下がっていく。
「私、この店畳もうと思うの」
「えっ?」ダンサーから目を離せないまま、良次は驚いた。酒をぐいと飲む。
「吸ってえ、はいてえ、吸って吸って、はいてえ」
 彼は胸ポケットからたばこを出した。一本も残っていないことに気づき、手の中でつぶす。女が近寄るのに構わず、大根をじっと見つめる。
「手足を大の字に開きますよお。大の字、大の字、大の字大の字大の字」
「ねえ、良さん。なんとかしてよ」
 男は黙ったまま、煮付けた大根を見つめていたが、やがて言った。
「分かった」彼は箸を置いた。「俺が勝負する」
「ワン、ツー、ワン、ツー」
 良次は立ち上がった。女が後退する。彼女は、ハッ、ハッ、と規則正しく呼吸をしている。
「ヘイッ!」良次は飛び上がり、手を打ち鳴らした。
「オーケイ、グッド!」
「ワンモア、ナイト!」
 両腕を下方に伸ばし、右肩と左肩を交互にゆらす。
「はい、テンポアップしますよお」
「ヘイッ! ヘイッ!」
 良次は両腕を手旗信号のように動かし、パラパラを踊った。
 女将は後れ毛を直しながら、ぽつりとつぶやいた。
「今夜はもう看板ね」
 彼女は暖簾をしまうために、戸口に向かった。

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