「おい、本当にこっちの道でいいのか」と私はささやくように言った。 「そのはずだ」私の隣で、地図を広げた小山田が答えた。 フロントガラスに何千何万とも思える水滴がたたきつけられている。漆黒の闇を、二つのヘッドライトが心細く照らしている。視界は悪い。 「今日中に帰れるのか」後ろの座席の折間がつぶやく。 「大丈夫だ。心配するな」私は二人と、自分自身を元気づけるために言った。 だが、道を間違えていることはまず間違いなかった。会社の慰安旅行で、温泉に行ってきた帰り道だ。近くの温泉だし、三人は同じ方向だったから、私の車で一緒にいくことにしたのだ。 行きは昼間だったし、晴れていたからよかった。しかし帰りは夜で、しかもこんな土砂ぶりになろうとは。 天気予報は夜雨が降ることを報じていたものの、旅館を出た時にはまだ降り出す気配はなかった。山に入る頃から小雨がぱらつき始め、道が細くなるに従ってその勢いを増していった。 前の枝道で曲がるべきだったのかな。引き返そうか。私がそう思ったその時、車体ががくんと揺れた。間をあけずに、もう一度揺れた。 アクセルを踏み込むが、前進しない。私の横では車輪が跳ね飛ばした泥水が舞っている。 「どうした」折間が不安そうな声を出す。 「ぬかるみにはまったらしい」 なおも踏み込み続けるが、抜けることができない。 「押そうか」 「そうしてくれ」 折間が出ると、小山田もドアを開けて雨の中に出ていった。 二人が車を押し、私はアクセルを踏むが一向に動く気配がない。小山田が戻ってきて言う。 「後輪が倒木にひっかかってる」 後ろのドアが開いて、折間が上半身だけ中に入った。 「助けがいるな。二人じゃ無理だ」彼は自分のスポーツバッグのジッパーを開け、折りたたみ傘を取り出した。「その辺に人家がないか見てくる」 「小山田、一緒に行ってくれないか」と私は言った。 この闇の中、彼一人で行って迷子にでもなったらまずい。 「ああ」彼も自分のバッグから折りたたみ傘を取り出した。 二人が行ってしまうと、私は深いため息をついた。なんということだろう。今夜はここで野宿か? 小山田に行かせずに、自分が行くべきだっただろうか。彼は少し頼りないところがある。それに、あの二人は表面的には何でもないようにふるまっているが、いまだに過去のある出来事を引きずっているようだし……。 しばらくして、うわあっという声が聞こえた。私は身を硬くした。なんだ? 折間の声のようだったが。 一分、二分。私はじっとしていたが、ついにドアを開け、傘も持たずに飛び出した。彼らが歩いていった方向に走る。雨は容赦なく私の体を濡らす。 闇の中から、おーいという声が聞こえた。 「おーい、どうした」激しく水が顔をたたきつけ、目を開けていることさえ難しい。「何があった」 木々の間を走っていくと、やがて木がなくなって広い空間に出た。真っ暗で、風景は見えない。 再び、おーいという声。すぐ近くだ。 突然、足がすべった。 「ああっ」 私の体は、ひどく急な斜面を滑り落ちていった。 * * * 「やっと気がついたか」 目を開けると、朝だった。折間と小山田が心配そうに私の顔をのぞきこんでいる。雨は上がっていた。鳥の声が聞こえる。 「いったい、どうなったんだ」と言いながら身を起こす。 二人の向こうに異様な風景が広がっていた。正面には私が落ちてきた急傾斜が、そして左右には垂直に近い土の壁が、私達を取り囲んでいるのだ。 「俺達、穴に落ちたんだよ」小山田の眉が八の字になっている。 「まったく。助けてもらおうと思ったらよ、お前まで落ちてきやがって」 折間の言葉に少し腹が立った。 「仕方ないじゃないか。あの闇の中で、声にひかれて来たら、突然落ちたんだ」 私は、ふらつきながら立ち上がった。自分の服を見ると、上着もジーパンも茶色く汚れていた。地面は水気を帯びた泥土で、あちこちににごった水溜りができている。 土の壁を見上げる。十メートル近くあるだろうか。 「登れないのか」 「無理だ」折間は首をふって、言った。声がかすれている。 私は急な斜面に手をかけ、よじ登り始めた。 「やめとけ。そんなことは何度もやってみた」 折間の言う通りだった。一メートルも登らないうちに、私の体はみじめにすべって余計に泥まみれになった。 ええいくそ。そう思いながら起き上がった私は、まだ背後を見ていないことに気がついた。振り返った時、その光景に目がくぎづけになった。 「なんだありゃ」 立てられた丸太が、すきまなく並んでいるように見えた。私はその奇妙な壁に歩み寄っていった。 「どうしてこんな所に木が」 「木じゃない」折間は相変わらずかすれた声で、言った。「さわってみろ。汚れてて分かりにくいが、そいつは石だ」 表面に手を当てる。それは冷たく、硬かった。 「夜のうちは分からなかった」小山田の声もまた、かすれていた。「お前が起きるまで、ずっと二人で話していた。なぜこんな人里離れた所に石柱が並んでいるんだろうって」 「人里離れた? なんでそんな事が分かる」 「俺達は助けを呼び続けていたんだ。でも誰も来なかった。雨の音にかき消されてしまうのかと思ったが、止んでからも同じだった」 それで声が枯れているのか。 「地図は? お前地図を見ていたんだろ? 一番近くの町まで、どのくらい離れてた」 「すまない。よく覚えていない」小山田は消え入りそうな声でわびた。 * * * その日、私達は一日中助けを呼び続けた。他にすることはなかった。二日めともなると、空腹と疲労から三人ともいらいらし始めた。時間とともに絶望感が広がっていき、口数も少なくなり、ただぼんやりとすわったまま動かなかった。それでも時々、どうしようもないあせりが私達を立ち上がらせ、叫ばせるのだ。おーい、誰か! そして土壁をよじのぼり、無残に滑り落ち、失望し、再びすわりこむ。 畜生、この石の壁さえなければ。向こうに抜けられれば、助かるかもしれないのに。 三日め、私達の間に険悪なムードが漂い始めた。空腹と疲労は限界に達していた。 「ここは一体、何だ」折間が、何度もした質問を繰り返した。 「だから、何か獣を狩るための罠だろう?」小山田がぶつくさとつぶやく。「俺達はそれにかかったんだよ」 「何かって何だよ。この広さからすると、随分と大きなものだぜ」 「熊じゃないのか」 「お前、温泉に行く途中で、そういう看板を見たか? 『熊に注意』とかさ」 小山田は答えられず、むくれた。 「え? 熊じゃないとすると何だ。象でもいるってのか」 「うるせえな。ただでさえぴりぴりしてんだ。挑発するのはやめてくれ」 「頼むから少し落ちついてくれ。あせったってどうしようもないんだ」 私はなんとか二人をなだめようとしたが、だめだった。 折間は立ち上がった。 「おかしいと思ってたんだ。こんな誰も住んでない所に、なぜ罠を作るんだ。これは動物のためのじゃなくて、俺達をひっかけるための罠じゃないのか?」 「何を言い出すんだ。お前、気は確かか」私は彼が言いたいことが分からなかった。 「小山田よう、お前が俺の腕引っ張ったから、俺まで落ちたんじゃなかったか?」 「そのことはもう言わない約束だろ。何度もあやまったじゃないか」 「お前は最初から、二人きりになるチャンスをうかがっていたんじゃないのか? それでこんな穴を……。松島まで落ちてきたのは、計算外のことじゃないのか?」 「何言ってんだ。俺がお前を殺すとでもいうのか」 「お前は自分の女を俺にとられたことを、いまだに根に持っているんじゃないのか?」 「馬鹿馬鹿しい。いまさらそんなこと……」小山田は蝿をはらうように手をふった。「あの石柱は、俺が持ってきたっていうのか? どこにあるんだ、あんなの。どうやって運んできた」 「獣を狩る罠だって言ったのは、お前だぞ。誰かに作れるもんなら、お前にだって作れるだろ。すさまじい執念で、何日もかけて」 小山田も立ち上がった。 「そういうお前こそ、あんな尻軽女を押しつけられたことを、恨んでるんじゃないのか?」 「な、なんだと!?」折間が小山田につかみかかった。 「お前の方こそ、俺を穴に落として、そのまま立ち去るつもりじゃなかったのか? 俺が腕をつかんだのは、それこそ計算外じゃないのか?」 「俺の妻を悪く言うことは許さん!」 「あの温泉に行くことを提案したのは、お前じゃなかったっけ? ここが通り道になってることを知ってたはずだ」 「俺は妻を大事にしている。過去のことなんかどうでもいいんだ!」 「新人の、なんつったっけ……見沢だっけ、あいつがお前の奥さんと歓楽街を歩いているところを俺は見……」 「うわあああっ!」 二人は取っ組み合ったまま地面に転がった。折間は、驚くべきことに、小山田の首をしめ始めた。 「殺される前に殺してやる!」 「やめろ!」私は彼の背中に飛びついた。 しかし学生時代柔道二段だったという彼に軽々と投げ飛ばされた。 「やめろおおっ!」再び飛びつく。 「た……たすけ……」 次の瞬間、もっと信じられないことが起こった。小山田の腕が振り上げられた。その手には、大きな石が握られていた。そしてそれは、物凄い勢いで振り下ろされた。 * * * 私達は、惚けたようにすわっていた。小山田は「正当防衛だ。正当防衛だ」とつぶやき続けていた。 どのくらいたっただろう。ぼんやりと見上げる私の目に、一人の男が映った。何か叫んでいるようだった。それから三十分か、一時間か……分からないが、しばらくの時間がたって、ロープが垂らされた。しかりつけて小山田を立たせ、私達は穴の上に出た。 そこにはさっきの男と、警官がいた。 「とりあえず交番まで来てもらえますかね」警官は私の前に立って、言った。 「違う! やったのは俺だ!」小山田の目から涙があふれていた。「でも、正当防衛なんだ!」 さあさあ、落ちついて、とあやすようにして、男が彼を向こうへ連れて行った。 私達はてっきり、石柱は板状の壁になっているのだと思っていた。だがそうではなかった。壁の向こう側は……無かった。そこにはただ草がぼうぼうと生い茂っていた。 「あの石柱は、何です」私は警官に聞いた。 「ああ、あれですかね。あれは材木石だよ。ほら、ちょうど材木が並んでいるように見えるでしょう。たぶん地面が陥没して、露出したんでしょうな。マグマが急に冷えてできたものだと言われとります。この辺りでは珍しくもない地形ですよ」 言われて、私は周りを見渡した。そこかしこの岩肌に、柱状の模様が浮き出ていた。温泉に行く時には、林に囲まれて気づかなかった。だが林を抜けると、こんな地形が広がっていたのだ。 「宮城県の七ヶ宿町や、丹後半島の経ヶ岬のが有名ですな。まあここほど見事ではないですがな。こっちの方がよほどきれいな柱状をしているのに、やはりこんな小さな山の、それも奥の方だと……」 あとはもう、聞こえていなかった。頭の中がぐるぐると回転を始めた。 人の感情の刃は、「物」に向かうのだろうか。そうではあるまい。物の背後にいる、「人」に向かうのだ。 細い道を車で走っている時、もしも大きな岩が進路をふさいでいたとしたらどうか。その岩がいかにも自然に存在するような形だったらいい。しかしもし、それがきれいな立方体だったとしたら……。 私は人間の精神にある暗黒を、のぞきこんだような気がした。 全身に悪寒が走り、私はその場にくずれ、嘔吐した。 |