医者には精神のタフネスが必要だ、と、羽田は考えていた。目の前にいる、痩せ細った老人を見つめながら。
 この職業を続けていれば、嫌でも人の死を正面から見据えなければならない事が、何度もある。
 椎名氏はよく眠っている。ダブルベッドを、その何分の一かしかない体が占拠している。彼を高価な羽毛布団が覆っている。金儲けに全力を投じた男が、病魔に襲われ、その人生の幕を閉じようとしている。
 椎名氏がふと、目を開けた。
「ああ、先生、わざわざお呼びしてすみません」しわくちゃの口から、弱々しい声が発せられる。
 羽田がこの豪邸に到着して、五時間もたっていた。電話で呼ばれ、来た頃には、すでに年老いた男は意識不明の状態に陥っていた。彼はじっと椎名氏の顔をみつめ、その一生について様々な想像をめぐらせていた。
 

 ようやく意識を取り戻した老人は、か細い声で言った。
「例の機械が、やっと届いたのです。先生に、立ち会ってほしいのです」
「これがそうですね」羽田医師はベットの脇の、やたらと仰々しいマシンを見つめた。
「ええ、ええ。これが、『至福の時再現機』です」
 最初にミステリやSF小説を読んだ時の感動も、大金を投じて作った映画を見た時の興奮も、何度も似たようなものを味わううちに、薄れていってしまう。そこで、そういった記憶を一旦リセットした上で、初めに味わったそれらの刺激を、一気に脳に流し込むのだ。これは強烈な体験だが、法的に禁じられている。麻薬と同じだ。一度やったものは、何度もすがろうとする。脳は耐えきれず、だんだんと廃人になっていくのだ。
「あなたの場合、これを試せば、脳が耐えきれません」
「ええ、知っていますとも。でも先生は分かっているのでしょう? いずれにせよ、私は今日明日には死ぬ運命です。そこにマニュアルがあります。先生に、やってほしいのです」
 羽田医師は説明書を取り上げ、じっくりと読んだ。そんなに読みにくいものではなかった。だが彼は、決断するのをできるだけ延ばしたかったのだ。二十分の後、ようやく彼は言った。
「分かりました。やりましょう」
 すでに老人の頭はつるつるに剃られていた。医師は何本もの線の先についている吸盤に糊を塗り、丁寧に頭に貼り付けていった。
「あとはスイッチを入れるだけです。本当にいいのですか? 延命措置を施したほうが……」
「やってください」
 医師はスイッチに手を伸ばした。かすかに指先がふるえている。
 −−医者には、精神の、タフネスが、必要だ。
 彼は何か言おうとしたが、何と言っていいのか分からなかった。老人は微笑んで、ゆっくりとうなずいた。
 ついに羽田医師は、スイッチを入れた。老人の体が痙攣した。
 満たされていく。老人が、満たされていく。今、どの辺だろうか。妻と結婚した時か。それとも初めて孫を抱いた時か。
 医師は、至福の時に到った人の顔を初めて見た。天使のような笑みと、狂暴な笑いが交錯する。
 老人は突然のけぞった。「はああ」という声が、その口から漏れる。
 そして、老人の全身の筋肉が弛緩した。ぴくりとも動かなくなった。
 医師は、人間存在について熟考したい衝動にかられたが、やめた。深い鬱状態に陥りそうな気がしたからだ。
 彼は、他の重症患者達が待つ病院へ帰るために、立ち上がった。

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