鏡に私の顔が映っている。だいぶ髪がうっとうしくなってきたので、思い切って少し短めに切ってもらったら、だいぶすっきりした。
 散髪が済んだ私は理髪店員に金を払い、店の扉を開ける。
「有り難うございました」
 扉を閉める時、店員が「ちっ」と舌打ちするのが聞こえた。
 自分がノイローゼになったのではないかと思うことが、よくある。私は自分ではまじめで、おとなしい人間だと思っている。人に嫌われるようなことは何一つしていないつもりだ。
「ちっ」
 ほうら、また。
 道ですれちがった高校生らしき男の子が、すれ違いざまに舌打ちしていった。
 今日はもう晩飯のおかずだけ買って、さっさと帰って、ずっと家にひきこもっていることにしよう。幸い私は三十八にもなってまだ独身なので、家に帰っても妻や子供から舌打ちされるのではないかと戦々きょうきょうとして過ごさなくてすむ。
 このように、最近の私は休日にもかかわらずずっと家にいることが多かった。外にいる時間は買い物に費やす三、四十分程度だろうか。


「嶺沢君、これ、三時までに頼むよ」
 課長は私の机にばさりと書類の束を置き、「ちっ」と舌打ちして去っていく。私の向かい側の席にすわっている後輩はかなり神経質な男で、指でこつこつと机を叩きながら、「ちっ」と舌打ちする。
 私は舌打ちから逃がれたいばかりに席をたち、煙草を吸うために設けられている喫煙ルームに行く。しかしそこでも、私が腰掛けた途端に誰かが舌打ちする。
 五時になり、新入社員の女の子が帰り支度を始める。
「お先に失礼します。ちっ」
「お先に失礼します」はみんなに向けて、「ちっ」は私に向けて言っているような気がする。みんなから嫌われているような気がする、というのは精神を病んでいる証拠かもしれないが、私は何もしてないのにどうしてここまで嫌われなければならないのだろうか、と思う。もちろん、別に私に向かって舌打ちしているのではないのかもしれない。しかしやはり、毎日それも一日中舌打ちばかりされたのでは、私がどんなに鈍感だとしても自分が嫌われているのだと気づく。
 ようやく仕事が片づき、私は帰りの電車に乗る。だがしかし、私の周りを囲んでいるみんなが、ちらっ、ちらっと私の顔を見ては「ちっ」と舌打ちするのだった。
 やっと六畳一間の我が家にたどり着き扉を閉め、テレビをつけて野球を見ながら缶ビールを飲んでいるうちにぐらぐらと腹わたが煮えくりかえってきて、絶叫しそうになるのを必死でこらえ、畳に這いつくばって頭をかきむしるのであった。


 男はあるビルの一階の、全く何もない部屋に閉じ込められ、うずくまっていた。同じ建物の二階のある一室では、二人の男が話し合っていた。
「もうそろそろ白状するでしょう」
「そうだな。もう忍耐の限界だろうからな。しかしお前が考えた方法は、恐ろしく残酷だな。ある意味ムチでうったり生爪をはがしたりするよりよっぽどたちが悪い」
「えっへっへっ。人間を何の物音もしない静かな部屋に閉じ込めて、ぽちょん、ぽちょんという水滴の音だけを聞かせ続けると、ついにはその人間は気が狂うって話を聞いたことがありましてね。それをちょっと応用してみたんですが……」
「まさかこれほど効果的だとは思わなかったな」
 白い壁と、天井と、床に囲まれた殺風景な部屋で、男はぶつぶつとつぶやき続けていた。
「畜生、みんな俺のことを毛虫のように忌み嫌いやがって。馬鹿にしやがって」
 その部屋は本当に何もない部屋だった。ただ一つの物を除いては。
 チッ、チッ、チッ……
 壁の、男の手が届かない高さに掛けられた時計が、いつまでも時を刻み続けるのだった。

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