僕は土手に寝っころがって空をながめていた。空は大きいなと、僕は思う。下の方を見ると、小川がきらきらときらめいている。もう一度、空を見上げる。空は大きいなと、もう一度思う。
 ふいに横の方で靴音がして、僕はそっちを見た。コンクリートの階段を、お父さんが降りてくるところだった。
「健二、こんなところにいたのか」
 僕はほっぺをふくらませて、目を空の方に向けた。
 お父さんは僕の横にすわって、はあー、やれやれと言った。
「学校は、いやか」
「学校はきらいだ。人間ってなんで学校なんか行くんだろ」
「仕方ないさ。人間にはね、人間自身が作り出したルールってもんがある」
「僕もエミールになりたいな」
「エミール?」
 大昔に、ルソーという偉い人が、エミールっていう本の中で、学校教育なんかやめて子供は自然の中で遊ばせろっていうようなことを書いていたそうだ。自然に学べって。お父さんが教えてくれたことだ。
「ああ、ルソーのことか。そりゃだめだよ。人間はもう自然の中になんか帰れないよ」
 お父さんは僕の真似をしてやわらかな草の上に寝そべった。
「空はいいか、健二」
 僕は答えたくなかった。空はいいか、健二、という短い言葉の中に、いろんな意味が含まれているような気がした。
 お父さんは言っていた。この空はにせものだって。
 ――人類はすごいよ。宇宙に浮かぶこのちっぽけな筒の中に、自然を作り出してしまった。でもね、健二。この空はにせものなんだよ。このコロニーはぐるぐるとすごい勢いで回っているんだ。そのおかげでみんな地上に立ったり、すわったりできる。しかし、筒状だから、空を見上げると向こう側の地面が見えてしまう。そうするとね、人間の精神にはあまりよくないんだ。だから政府の偉い人は、空に壁を作った。向こう側の地面を隠したんだよ――
 理科の先生が「遠心力」とか、「重力」とかいう言葉を言っていたけど、僕にはよく分からなかった。それがこのコロニーの重要な要素だって、そう言ってた。
 お父さんによると、この空の青い色は、半分は人工太陽が照らし出す光の中の一つの成分の色なんだけど、半分は、その空の壁に塗られた絵なんだって。地球の空を真似して作られて、本物そっくりだけど、こんなのは所詮にせものだって、そう言って怒るんだ。
「健二、見てごらん。入道雲だよ」
 僕はお父さんが指差す方を見た。もくもくと綿菓子みたいな雲がわき上がっている。
「あれの下に入ると、雨になるんだ。雷だって、鳴るかもしれない。たぶんもうすぐ、こっちに流れてくるな」
「雨か。いやだな」
「恵みの雨だよ。こうやって順々に、各地域に雨を降らせて回るんだ」 
 お父さんの話を聞いていると、夢がなくなる。お父さんの話だと、その辺に生えている木や草も、川も、空も、全部政府に管理されてるんだって。効率よくコントロールされてるんだって。
 お父さんはコロニーを嫌っている。地球に帰りたがっている。地球出身の大人達はみんなそうらしい。でも地球に帰ることなんかできない。もう、絶対にできない。
「空って、このコロニーの中だけの、ちっちゃなものなの?」
「そうじゃないさ。健二は見たことないだろうけど、この外側にもっと大きな、空があるんだよ」
 ――「宇宙」って書いて「そら」と読むんだ――お父さんがずっと前に言ったことが、頭に浮かび上がった。

       *       *       *

 家に帰ると、お母さんがすごいヒステリーを起こした。
「また学校さぼったの!? 中学に入って、少しはましになると思ったのに! お母さん先生に何ておわびしたらいいの!? お母さん健ちゃんのことが……」
 なんたら、かんたら。
 学校行って、なんになるんだろ。高校行って、大学行って、会社に行って、結婚して、子供ができて、そんで僕の奥さんになった人が、また子供にヒステリー起こして、そんなの、なんの意味があるんだろ。
 ……人間にはね、人間自身が作り出したルールってもんがある……

 僕はこういう時はただ黙ってうなだれている。お父さんが教えてくれたことだ。下手に何か言うと、余計にお母さんのヒステリーに油を注ぐだけだ。
 ようやくお母さんのヒステリーがおさまって、やっと夕食を食べることができた。お父さんもただ黙っている。
 テレビが、こんなニュースを映した。
「政府見解によると、このコロニーの人口も、ほとんど限界に達しているとのことです。政府は二年の間に人口の三割を移住させる計画を立てています。しかし移住先については、今のところ見通しがたっておりません」
 地球で、人口爆発というのが起こったそうだ。それでまだ若いお父さんとお母さんは、ここへ移ってきたそうだ。そして僕が生まれた。僕は地球というのを、テレビでしか見たことがない。
 お父さんがつぶやくように言う。
「ここも手狭になってきたな。たぶん、もう一つ二つ、少ない予算削って、コロニー作るんだろうな」
 ここは火星の近所だけど、今度作る時はもっと遠くに作らなくちゃいけないって、今のコロニーの十倍も二十倍も困難な計画になるって、社会の先生が言ってた。自然も……川も、木も、空も、今ほど立派なものは作れないって、そう言ってた。
 僕らがニュースの人が言っていた三割の中に入ったことを知ったのは、一ヵ月くらい後のことだ。

       *       *       *

 僕は、出発のその日、また土手に寝っころがって空をながめていた。それは作り物かもしれないけど、僕はこの空しか見たことがない。僕にとってはこの空こそ心のふるさとなんだ。
「地平線って知ってるか」お父さんは言っていた。「本物の地平線だよ」
 遠くを見やると、ビルや、鉄塔が立ち並ぶ大地がゆっくり、ゆっくりと立ちあがって、少しずつだけど、遠くにいくほどこっちに向かって傾いている。そしてさらに向こうは、かすみがかかって見えなくなっている。あれが僕や、僕の友達が教わった「地平線」だ。
 でも本当は、本当の地平線は、全く逆なんだって。地球は丸いから、遠くにはその縁が見えるんだって。海がまあるく見えるんだって。
 きれいなんだろうな、とは思う。でも、僕が見慣れているのはこっちの「地平線」だ。僕や僕の友達にとってはこっちが本物の地平線なんだよって、いくらお父さんに言っても、分かってもらえない。
 この内側に湾曲した大地も、お父さんやお母さんはとうとう慣れることはなかったけど、僕にとってはここが生まれ故郷なんだ。
 ふいに騒々しい音がして、体を起こして振り返ると、土手の上に自動車が止まった。ドアが開いて、お父さんが出てきた。お父さんはしばらく僕の方を見て、それから振り返って車の中に向かって何か言った。中にいるのはたぶんお母さんだ。
 お父さんは草をかきわけて土手を降りてきた。
「健二、行くぞ」
 ああ、この空とももうお別れだ。僕は悲しくて泣きたくなった。お父さんが仰ぎ見る方を見ると、そこにはビール瓶のような宇宙船が、発射の時を行儀良く待ち続けているのだった。
「地球人はね、新しい土地を求めて旅立つんだよ」
 お父さんは元気よく言ったけど、本当は悲しいんだということが、痛いほど伝わってきた。

「行こう、健二。宇宙(そら)に向けて、旅立つんだ」

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