美代子との出会いは、高校二年の春の頃だった。部活の帰り道、仲間と別れて一人で歩いていると、ふいに彼女が後ろから声をかけてきた。
「長谷君、一緒に帰ろ」
 三つ編みの似合う、真ん丸い眼鏡がかわいい、陽気な娘だった。しかしあまりしゃべった事はなかった。男子達に人気の高い彼女が、私に声をかけてきたのは、驚きだった。
 それから彼女と付き合い始めた。高校生の少ない小遣いでは、映画を見に行ったり、食事に行ったりということはそう多くはできなかったが、それでも道端にたんぽぽの咲く近所の小道を、手をつないで散歩しているだけでも、十分幸せだった。
 大学に入る時に、彼女は東京の大学を選んだ。私は香川に残った。電話はしていたが、それもだんだんと回数が減っていき、やがて彼女との交際はなくなっていった。
 代わりに出会ったのが、知美である。
「私の夢はね、ルポライターになる事なの」
 知美はよく、自分の夢について話した。彼女は自分の将来について、しっかりとした考えを持っていた。理知的で、決して美人ではないが、笑うとチャーミングなえくぼができる。
 彼女は私などとは違って、確固たる“自分”というものを持っていた。一本芯が通っていた。
「長谷君の夢は何?」
「僕かい?僕の夢は映画監督さ。世界をあっと驚かせるような、すごい映画を作るんだよ」
 私達のつきあいはずっと続き、大学を出るとすぐに彼女の父親に結婚の承諾を申し込んだ。
「お父さん、娘さんはきっと幸せにします。どうか僕に娘さんを下さい」
 私は土下座をした。父親は渋面を作った。
 その時、突然に、私の耳に水の流れる音が聞こえた。ざーっというような、あるいはさらさらというような音、それに混じって、かすかにリーン、リーンという鈴のような音が、私の耳の底に響いてくるのだ。
 ……何だ、これは? しかしそれは、ほんの数秒で止んだ。
「うむ。こちらこそ、至らない娘ですが、よろしくお願いしますよ」

 その頃には私は、映画監督などという夢はとっくに捨てていて、しがないサラリーマンになった。妻は専業主婦となった。私がそれを望んだからだ。
 二年後、私達の間に子供ができた。拓也と名付けた。
 忙しい毎日が過ぎた。それでも、日曜日には家族で、時には一人で、大好きな映画を見に行ったりした。

 さらに幾年もの歳月が過ぎ、私は係長になっていた。毎朝満員電車に揺られ、ただひたすらに、毎日同じような仕事をこなしていくだけの日々。倦怠期を迎え、妻への愛も冷めていた。そんなある日……

「長谷君? 長谷君じゃないの!?」
「美代子……」
 彼女は東京での生活がうまく行かず、香川に帰ってきていたのだった。転々とアルバイト先を変えながら、なんとか暮らしているのだという。
「そうか、大変だなあ」
 私達は付き合い始めた頃によく歩いた小道を歩きながら、互いの身の上話を話した。ちょうど桜が満開の季節だった。
「結婚は?」と私が聞くと、美代子は首を横に振った。
「私はあれからもずっと、長谷君のことが好きだったのよ」
「……そうか」
 私はなんだか、彼女に悪いことをしたように感じた。
 その時、私の耳にざーっという音が突然聞こえ、ぎょっとした。どこかで聞いたことがある……そうだ、知美の父に、結婚の承諾を得に行った時に聞いた音だ。
 ざーっとも、さらさらとも聞こえる、水の流れる音、リーン、リーンという、鈴の音。今度はさらに、男の、何を言っているのか分からない、くぐもった低い声も聞こえた。
「しんむけいげ……むけいげこ……」

       *       *       *

 くたびれた人間となった私の心には、隙間が生じていた。その隙間を埋めるために、私は美代子にのめりこんでいった。美代子の家に入り浸りになり、無断欠勤を繰り返した。家にも帰らなかった。私は美代子に勤めをやめさせ、水商売をさせた。私は美代子の、ヒモになったのだ。 
 彼女は私に、べったりと甘えた。私は何年も味わっていなかった幸せを感じた。だがそれも、数日たち、数ヶ月たつに従って、徐々に色あせていくのだった。
 私は、しっかりとした妻、しっかりとした母親である知美の生き方の方が、美しいと思った。ただ猫のように甘ったれる美代子の愛は、本物の愛ではないとさえ思った。

 ある日突然帰って来た私を見ても、妻は驚かなかった。
「済まない。許してくれ」私は玄関先で土下座をした。
 妻は何も言わなかった。怒りもしなかった。代わりに、奥の方を向いて、「拓也、おいで。お父様が帰ってきたわよ」と言った。

 二日後、私は美代子を、高校時代によく二人で散歩した、河の側の堤防に呼び出した。
 待ち合わせの時間より少し前に着いた私は、寒さに手をこすりながら、何と切り出したものかと考えていた。
 突然、私の耳に聞いたことのある音が聞こえてきた。
 ……リーン、リーン……
「もうすぐ……終わりだ……」
「えっ?」いきなり聞こえた声に驚き、私は周りを見回した。だが、誰の姿もなかった。
「エンディングが近づいている……。全部、終わりになるんだ……」
 私はびっくりした。それは、私の声だった。苦しそうな、うめくような声……。だが……何故……
 一体何が終わりになるというのだ。冗談じゃない。私は決心したのだ。これから美代子との関係を清算し、人生をやり直すのだ。
 ふと見ると、白い息を吐きながら、美代子が土手の斜面に設けられた階段を、上ってくるところだった。

 美代子と向かい合った私は、何と言ってよいのか分からず、黙っていた。私が話したい事が分かったらしく、彼女の方から、言った。
「奥さんと私のどっちを選ぶの!? 決めて!!」
 私はうつむいて、眉根を寄せた。
「僕は、君とこれ以上付き合う事はできない。……済まない」
「そう……」とだけつぶやいた美代子の顔は、やさしい微笑みに満たされていた。だがしかし、次の瞬間、その表情は鬼女のそれに変わった。
「あんなに、愛したのに!!」
 あっと声をあげる事もできないような、短い時間だった。彼女の胸元からナイフが抜き出され、私の胸へ埋め込まれていくのが、まるでスローモーションのように鮮明に見えた。
 私の足はくずれ、土手の端を踏み外し、まるで土砂崩れで転がっていく岩のように、私の体は滑り落ちていった。

       *       *       *

「!」
 私は眼を開けた。こうこうとした月の光が眼に入ってきた。体中が冷たかった。
 ザーッという水の流れる音が、半分水につかった耳に聞こえてきた。 
 自分が水に浮いているのだという感覚だけは、まだ感じることができた。私はやっと、今まで聞こえてきた水の流れの音が、何であるかを知った。
 人は、死の際に、今までの人生の記憶が、走馬灯のように頭の中をよぎって行くのだという。
 これが、そうなのか……。
 一体どのくらい、こうしていたのだろう。美代子はもう、行ってしまったのだろうか……
 私の体はゆるやかな河の流れの中を、たゆたっているのだった。
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦……」
 リーン、リーンという鈴の音を響かせながら、河原の横の、堤防の上を偶然通りかかった遍路の一行が唱える念仏を聞きながら、私はゆっくりと眼を閉じた。

inserted by FC2 system