「メリークリスマース! ハッピーニューイヤー! あっはっはっはっ、あっはっはっはっはあー」
 敏夫は顔を真っ赤にして立っていた。左手にはウィスキーのボトル、右手にはグラスが握られている。
 マンションの五階の一室である。一ヶ月前まで親子三人で暮らしていたが、今は一人暮らしである。
「うわっち!」
 よろよろとふらつく足がダイニングのフローリングの床ですべって転んだ。
 ガラガラガシャーン!
 大量に並んでいるビールやらウィスキーやらの空き瓶が、まるでボーリングのピンのようにはでに倒れる。グラスの中身が床にばらまかれた。
「ちくしょう!」
 もうろうとかすむ視界の中に、いつものように時計男が現れた。
「大丈夫ですか?」
「るせーっ!」
 時計男とは敏夫が勝手に名付けた名前である。なぜならそいつは、首から下は人間だが、顔は時計だったからである。
「なぜ荒れるんです?人生は前向きに生きなきゃ」
「俺に説教すんなあーっ!」
 敏夫は他にもいろんなものを見た。空飛ぶうさぎや、眼鏡をかけたふくろうや、ずらりと一列に並んだ生首等々。全てはアルコール中毒による幻覚である。
 時計男の姿がゆっくりと変形していき、敏夫が勤めていた会社の部長になった。
「中村君、ちょっと」
「はい?」
「悪いけど……」
 敏夫の前に一枚の紙が差し出された。鮮やかに四文字の漢字が目にとびこんできた。

 懲 戒 免 職

 しかし敏夫には何も悪いことをした記憶がない。ようするにリストラだった。
 不況の時代であった。再就職先を求めて毎日歩き回ったがだめだった。敏夫はだんだんとやる気をなくし、競馬にのめりこむようになり、徐々に酒量が増えていったのだった。
 妻との仲は急速に冷めていった。
「あなた、お願いだから立ち直ってよ」
 泣きながらすがりつく芳江を、敏夫は乱暴に突き飛ばした。
「うるせえ! 俺に指図するな!」


 気がつくと敏夫は床の上に仰向けになっていた。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。目が覚めると敏夫は自己嫌悪に陥り、おいおいと泣いた。そして耐えられず、酒をあおった。
 そんな日々が続いた。正月も一人で飲んだくれて過ごした。
「俺はダメだ」
 そうつぶやく敏夫の前に時計男が現れた。
「そうそう、あなたはだめなのよーん」
 時計男は身をくねくねとくねらせながら踊った。
「なんだと貴様あーっ!」
 敏夫は時計男の首をつかみ、ギリギリとしめた。
「うぎゃー!」
 確かな手応えがあった。もはや幻覚は、視覚、聴覚だけでなく、触覚にもおよんでいたのである。
 それから1ヶ月くらいの間、時計男は現れなかった。その代わりに、眼鏡ふくろうがちょくちょく現れて敏夫に説教するのだった。
「ホーホッホッ。人生を投げてはいけません。今から病院に行きましょう。そして一からやり直しましょう」
「だまれっ!」
 グラスを投げつけると、しかしそれは壁に当たって砕けるのだった。


 競馬場ではずれ馬券をびりびりと破き、寒風の吹きすさぶ中家路につく。家に帰り貯金通帳を見ると、残高が2300円になっていた。やけになってウィスキーの瓶に口をつけグビグビと飲むと、腹がキリキリと痛む。胃ではない。その両脇が痛むのである。いよいよ肝臓がだめになりかけているらしい。
「俺はもうだめだ……」
 つぶやく敏夫の前に、久しぶりに時計男が現れた。
「酒はもうお止めにならないと」
「分かったような口をきくんじゃねえ。お前に何が分かる!」
 時計男の姿がゆっくりと変わっていく。時計男は芳江に変わった。
「耕ちゃん、行きましょ」
 目を真っ赤に泣きはらした芳江は、息子の耕次の手を引いて玄関口に向かった。
「ああ、出てけ!」
 耕次が寂しそうな顔をして振り返った。
「出てけ、出てけ!」


「いやあ、よく立ち直りましたねえ」
 敏夫の前には医者がいる。ここはとある病院の診察室である。敏夫が倒れて病院にかつぎこまれてから、もう三週間にもなる。
「肝臓の方はこれからも治療が必要ですが、アルコール依存症の方はすっかり良くなったようです」
 医者は親切で、温和な人物である。
「はあ、そうですか」
 敏夫は力なく笑みを浮かべた。医者はしゃべりながらもカルテに何か書き込んでいる。
 医者は壁にかかった時計を見上げた。
「おや、もう昼飯の時間ですな。あなたも病室に戻らないと」
 医者は微笑みながら、敏夫の方を向いた。

 医者の両目にはめ込まれた時計が、ちょうど十二時をさした。

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