「良ちゃん!」 玄関のドアが開く音がして、駆け寄ると、そこに大きなバックを持った良夫の姿があった。 「あら、まあ、よく帰ってきたわねえ」 「ん? ああ」 「ほら、上がって」 私はうれしくてたまらなかった。息子に会うのは何ヶ月ぶりだろう。でも、良夫はぶすっとした顔をしている。最近はそんな顔しか見せてくれない。どうしてなのか、さっぱり分からない。 「あんた、本当は帰ってきたくないけど、お母さんが言うから、仕方なく帰ってきたんでしょう?」 だって、なぜだか知らないけど嫌そうなんだもの。 息子の眉間にしわが寄る。 「いや、そんな事はないよ」 「ほら、そのスリッパをはきなさい。まあまあ、よく来たわねえ」 息子は、私が指差したのとは違うスリッパをはいた。 「あんた、そっちの方がいいの? こっちの方がいいわよ」 良夫の足の動きが一瞬止まる。そしてのそのそと履き替える。昔からそうだった。息子は私が言ってあげなければ、どっちのスリッパの方が暖かいかさえも分からないような子だった。でもそんな良夫が、かわいくてたまらない。 私は廊下を歩いて台所へ行った。息子が後からついてくる。 「すわって。今ご飯の支度をするからね。今日はお鍋よ」 息子はテーブルの後ろの椅子にすわった。 「あらあら、あんたそっちがいいの? こっちにすわりなさい」 私は良夫を前に座らせた。だってその方が、テレビが見やすいもの。 棚から鍋を出し、水を張りながら声をかける。 「冷蔵庫の中のものは自由に飲んでいいからね」 良夫が私の方へやって来る。冷蔵庫を開け、のぞきこむ。 「何が飲みたいの?」 「ん? ビール」 「ビールがいいの? コーラもあるわよ。ウーロン茶もあるわよ」 彼の動きが止まった。ムスッとした顔をしている。 「ビールは、お鍋を食べながら飲みましょうね。ウーロン茶にしておきなさい」 「別に今飲んだって……」 「コップはこれを使って」 私は食器棚からコップを出し、布巾で拭いてあげた。 すきっ腹でお酒を飲んだら、お腹を壊しちゃう。ほんと、この子はすぐに間違った選択をしてしまうから、私が決めてあげないと。私は息子の事がとっても心配。 ぐつぐつと煮立ってきたので、私はガスレンジの火を止めた。鍋を持っていき、テーブルの上のカセットコンロに移すと、良夫が火をつけようとした。 「ああ、いいの。お母さんがやるから」 着火すると、青い炎がゆらめいた。 ふたを取る。湯気が顔にあたる。とてもおいしそう。 私は息子の横にすわり、ビールの栓を抜いた。 「ほら、良ちゃん、食べて」 「うん」 テレビではバラエティーをやっている。良夫が笑った。かわいい顔。 息子の箸の進みが遅い。お笑い番組に夢中なのだ。私はもどかしくなって、鶏肉と春菊としらたきを小皿に入れてあげる。コップが空になる。私はビールをつぐ。 彼の皿の中が減る。息子が鍋に箸をのばす。私は豆腐と鶏を取ってあげる。 小皿が空になる。良夫が箸をのばす。んもう、私が入れてあげているのに、どうしてこの子は自分で取ろうとするのかしら。 「ねえ、良ちゃん、いい人は見つかった?」 途端に息子の表情が険しくなる。 「いや」 「どうしてかしらねえ。良ちゃん、いい顔してるのに」 三十七歳にもなって、まだ独り身でいる良夫が心配でたまらない。 「あんた、体に病気があって、それで結婚したくないんじゃないの?」 「そんなんじゃないよ」 そうかしら。何度聞いても、結婚する気はないというのは、他に理由が考えられない。きっと男性として機能しないのだわ。ああ、かわいそうな良ちゃん。 「あんた、ずっと一人でいるの?」 「いや」 「ほんと? いつかは結婚するの?」 「……たぶん」 「いつ、する気になるの?」 「そんなの分からないよ」 「なんで結婚したくないの?」 「したくないのに、理由なんかないよ」 「かわいそうねえ。良ちゃんは本当に、かわいそうだねえ」 食事が終わって、息子を風呂に入らせ、布団を敷いてあげた。 次の日、朝食にご飯と味噌汁ときゅうりの漬物を出した。 「テストは受けたの?」 サラリーマンは、いろいろな資格を取らなければならないらしい。 「ああ、この間受けたよ」 「で、どうだったの?」 「だめだった」 「まただめだったの? どうしてだろうかねえ」 良夫の表情がまたしても険しくなる。 「テストの話はやめてくれな……」 「学生の時は勉強ができたのにねえ。お母さん、神社にお参りに行ったのよ。良ちゃんの結婚とテストがうまくいきますようにって」 食事が終わった途端、良夫は帰ると言い出した。 「ええ? もう帰るの?」 「うん、資格の勉強をしなければいけないから」 「かわいそうにねえ。勉強、勉強の人生で、結婚もできないで、かわいそうな人生ねえ」 それからしばらくして、昔OL時代に同僚だった斉藤さんにばったり会った。良夫より二つ下の娘がいて、独身だという。私は、息子もやはり独り身で、困っていることを話した。 「まあまあ、斉藤さんのお嬢さんがうちのお嫁に来てくれたら、うれしいんですけどねえ」 「ええ、うちももらってくれたら、うれしいですよ」 これはさっそく良ちゃんに言ってみなくては、と思った私は、良夫に電話をかけ、次の日曜日にお昼をいっしょに食べるのでそっちに行く旨を伝えた。 日曜日、私はかわいい良夫にまた会える喜びで、うきうきしながら息子の家に行った。 「試験は受けたの?」 「あれからは受けてないよ」 「この間、受けたって言っていたじゃない」 「落ちたよ!」 息子の声が大きくなったので、私はびっくりした。どうしちゃったのかしら。 「あのね、お母さんの昔の同僚で、斉藤さんっていう人がいるのよ」 「うん」 「その娘さんがあんたより二つ年下でね、ぜひお見合いをしてくれって言っているんだけど、してみる気、ない?」 良夫はひどく困った顔をした。 「……ないよ」 「え?」 「したくないよ」 私は深くため息をついた。 「あんた、ずっと結婚しないつもりなの?」 「いや」 「いつするのよ」 「分からないよ」 なによもう。小さい頃の良ちゃんは、あんなに素直だったのに。あの時の良ちゃんだったら、私が結婚しなさいと言ったらその日のうちに縁談がまとまったのに。 「あんた、体に病気があって、それで結婚したくないんでしょ?」 息子は答えなかった。驚いたことに、彼の持つ湯飲みが、突然かたかたと音をたてて震えだした。 「かわいそうにねえ。良ちゃんは本当にかわいそう」 私はあの時の良夫の様子が気になって仕方なかった。あの子、アル中じゃないかしら。それから今までより頻繁に電話するようになった。結婚したくなった? 試験は受かったの? しかし良夫は、「うん」とか「いや」とか、要領を得ない返事をするばかりだった。小さい頃の息子は、こんな子じゃなかった。うんうんと言って、なんでも私の言う通りにしてくれるいい子だった。なんでも私の思い通りになる、親孝行な子だった。ああ、私が甘やかして育てたのがいけなかったんだわ。 しかし、私はあきらめない。その後も電話し続けた。ずっと言い続ければ必ず私の思った通りになる。良夫が、小さかった頃のように。 そのうち、電話が通じなくなった。いくらかけても、話し中なのだ。 そこで私は手紙を書いた。書き続けた。二十一通めでやっと、返事がきた。 「いい加減にしてください。あなたのやっている事はストーカーだ」 それだけだった。 なによ、これ。私には息子が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。 とにかく手紙を送り続けるしかなかった。結婚は、いつになったらする気になるの? 資格を取れなければ昇進できないんでしょう? いつになったら取れるの? なんで私がストーカーなの? 私はあんたの事が心配で言ってあげているのよ? ひょっとしてあんた、気が狂ってしまったんじゃないの? しかし、返事は来ない。 ああ良夫。早く私に孫の顔を見せて。私はそれだけが生きがいなの。今の時代、夫婦共働きでなければやっていけない。そしたら孫が一人ぼっちでかわいそうだから、私が引き取るの。息子はすぐにうなずくだろうけど、問題なのは嫁。まあいい。拒否されたら、相手が理解してくれるまで何度でも言えばいい。 そうすれば良夫が小さかった頃のあの幸福が、再び味わえるもの。私がいくらでもかわいがってあげる。 これでは埒が明かない。私は、息子の会社に電話をした。 良夫は席を外しているとのことで、電話に出た女の子と話した。息子が試験に落ち続けて、私ががっかりしていることや、いつまでも結婚しないで、インポテンツじゃないだろうかと心配していること。気がつくと十五分近く話していた。 次の日の夜、ふいに玄関のチャイムが鳴った。 「はあい」 ドアを開けると、そこには良夫が立っていた。 「あら良ちゃん!」 喜びで胸がいっぱいになった。きっと、会社に電話したのが良かったのね。それで心配して駆けつけてくれたのだわ。まあ、やっぱりいい子だったのだわ。 しかし、息子の手にはナイフが握られていた。 どうして? 私は何も悪いことをしていないのに。いつだって、家族の中で私が一番正しい判断をしてきたのに。私には原因がさっぱり分からなかった。 息子は理由を言わないまま、ナイフを突き出した。 |