着陸の際の飛行機のエンジン音の高鳴りで、私は目を覚ました。
「やっと着いたか……」と、私は胸の内でつぶやく。軽いゴウンという音に続く振動が、飛行機の車輪が滑走路に接地したことを告げる。機内のディスプレイに映し出されている滑走路の風景の流れが、徐々にそのスピードを落としていく。機内の乗客達がわらわらと立ち上がり、格納ボックスから荷物を取り出し始める。機内の客は西洋人が多い。大半は観光旅行なのだろう。
 タラップを降りる時に少々くらくらした。機内の冷房から南国の酷暑への気温の変化が、さすがにこたえたようだ。私は久しぶりの長旅でヘトヘトになっていた。
 私はバンコクで四日滞在した後、セイロン航空で、ここ、スリランカのコロンボへと再びやって来た。実に八年ぶりのことだ。
 以前はこれほどまでにバテていなかったはずだ。やれやれ、歳はとりたくないものだ。八年前といえば、世界の人類の文化の研究に従事する私は、文字通り世界中を飛び回っていた頃だ。しかしその後日本国内にとどまり、執筆活動にいそしんでいるうちに、すっかり体がなまってしまったようだ。
 これまでの人生で地球内の様々な地域の文化に接してきたわけだが、ここ数年の私の興味は月に向いていた。今回実際に月に行ってみようという気になったのは、ひとつは、人類が月に移住し始めてから二十年もの歳月が過ぎ、ようやく月に「文化」というものが根づき、調査に値するものとなってきたからであり、もう一つは、私の地道な執筆活動が、ようやく月行きの費用を捻出できたからである。−−とはいうものの、「ヨーロッパ人のなんとかの文化史」だの、「マダカスカルのなんとか、かんとか」といった類の、大学生が教科書としてしか買わないような本をいくら書いても、それによって得られる印税はたいしたものではない。言っておくが文化人類学だの民族学だのといった研究自体は、一銭ももうからない!


 空港を出た私の目に、なつかしい風景が飛び込んできた。市内を走る赤い二階建てのバス、沿道のところどころに繁るヤシの木。
 私がバス停の方に向かって歩きだすと、さっそくみすぼらしい格好をした一人の少年が私に寄ってきた。
「ルピー! ルピー!」
 私はがりがりに痩せ細ったその少年を無視した。八年前は、何も知らない私はこういった少年をかわいそうに思い、素直に小銭をあげたものだが、すると後から後から同じような少年達が寄ってきて、辟易したのを覚えている。
 インドに比べればまだましだが、ここ、スリランカも貧しい国である。ここに来る前までは、私はこの国に対して、「南洋に浮かぶ、美しい、素朴な国」というイメージを持っていたので、実際に来てみてがっかりした。
 二十世紀に「ハードSFの神様」と崇められていたある作家は、このスリランカの地にあこがれ、ついにはここに移り住んだという。私も来る前までは彼の小説に描かれたこの地の美しさに魅了されたものだが、−−彼の小説は今ではW紙Wとしては残っていないが、現在でもネットワーク・ドライブしてW電子国会図書館Wにアクセスすれば読むことができる−−今では彼がどうしてこんな所に引っ越したのか、理解に苦しむ。バスの窓から見える市街の様子はいかにもごちゃごちゃしていて薄汚い。
 ホテルで一泊した私は、翌朝、モルディブへと飛び立った。興奮してよく眠れなかった私は、フルレーに着くまでの二時間、機内でグッスリと眠った。
 機内から外へ出ると、清々しい海の青と、ココヤシの青々しい緑が目に飛び込んできた。やっと本当の、「南洋に浮かぶ、美しい、素朴な国」にやってきたのだ。空港だけの島、フルレーからはモルディブ諸島の各島に向けてランチが出ている。赤道直下の強烈な日光を避けるためココヤシの木の下でしばらく待っていると、水面をすべって一そうのランチがやってきた。私は他の外国人達−−ほとんどが西欧人−−と一緒にランチに乗りこみ、モルディブの首都、マーレに向かった。


 マーレ。ああ、なんという美しい街だろう。石灰石でできた、真っ白な建物、真っ白な道路。その白が海の青と空の青に映えて、楽園のようなイメージをわき起こさせる。時間と金さえあればモルディブ諸島の各島を回ってみたいものだ。残念ながらそのどちらもない。今回は月探訪だけが目的なのだ。
 一泊三十ルピー(九百円)のホテルにチェックインした私は、さっそく市内の散策に出掛けた。明日の朝にはもうガン島に行かなければならない。今日のうちにたっぷりと旅情を味わっておかなくては。
 街のあちこちに丸い屋根のモスク(寺院)が見える。ここモルディブの人はほとんどがイスラム教徒である。街のあちこちにはコーランが流れている。民家が密集している場所に出ると、港付近にあった白い建物とはうってかわって薄汚いバラックのような家屋が並んでいる。産業といえばスリランカに輸出するモルディブ魚くらいしかないこの国もまた、貧しい国なのだ。しかしスリランカとは違って子供達がルピーをせがんでこないのが救いだ。
 青空市場に出ても、スリランカでは日常茶飯事の口ゲンカに近い店員と客との間の値段交渉といった風景は見られない。海に囲まれた暮らしをしている彼らはいたってのんびりとしており、時計の針の進みを忘れさせてくれる。


 ランチがモルディブ諸島の最南端、ガン島に近づくにつれて、空と地上の間を結ぶ一本の細い線が見えてきた。
 さらに近づいていくに従い、それは黒光りする堂々たる威容をあらわにしてきた。ランチの乗客が次々に、「はあっ」とか「ほう!」とかいう声を漏らし始める。雲を突き抜けてさらに天空へと伸びていく巨大な塔。今世紀最大の科学技術の結晶、軌道エレベータである。
 なんでも、このモルディブ諸島のガン島は軌道エレベータの立地条件としては最高の場所なのだそうだ。当然、各国ともこの土地に注目した。軌道エレベータの研究が最も進んでいるアメリカが、結局この島を獲得した。モルディブは外国に対してかなりあけっぴろげなので、アメリカがこの島を買い取った時にも大した問題にはならなかった。軌道エレベータを建てることによってモルディブは観光地としての意味が高まり、これまで通りスリランカに頼らなくても自力でやっていけるようになるために、スリランカ政府がちょと慌てた程度だ。
 島に上陸すると、それはさらに圧倒的な威圧感をもって私に迫ってきた。真下から見上げると、こちらに向かって倒れてきそうな気がする。
 軌道エレベータ……それは静止軌道上の宇宙ステーションから地表に向かって垂らされた、長い長いチューブである。
 地表からロケットを打ち上げようと思ったら莫大な燃料が必要である。ロケットの質量のうちのほとんどが燃料なのだという。しかし、この軌道エレベータによって静止軌道上まで運び上げ、そこからロケットを発射すれば、燃料はずっと少なくてすむのだそうだ。
 おかげで我々のような観光客でも宇宙へ出ていけるご時世になったわけだ。
 真っ黒で、つやつやと輝く円筒形のその表面には、何本かのレールが走っている。私が着いたちょうどその時、貨物用の運搬車が発車するところだった。白いカプセル状のそれは、ほとんど音もたてずにレールの上をなめらかにすべっていった。私も、他の観光客も、ポカンと口を開いてそのカプセルが次第に小さくなって、見えなくなってしまうまでながめていた。
 周りでざわざわとどよめきが起こった。みなこの情景を見て、これから宇宙へ行くのだという感慨を新ためて感じたのだろう。私も興奮してきた。
 その円筒形の正面にぽっかりと開いた玄関から、私は中に入った。中は空港のロビーのようになっている。ざわざわという人々のざわめきに混じって、涼しい女性の声でアナウンスが聞こえる。
「みなさま、本日はモルディブ・スペースラインをご利用頂き、有り難うございます。次のモルディブ発中間ステーション行きの便は十二時十五分発でございます。三十分前には搭乗手続きをお済ませ下さい」
 発車まであと一時間ほどある。私は食堂を探し、少し早い昼食をとることにした。


 分厚い灰色の扉が開かれると、乗客の列がぞろぞろと中に入り始める。カプセル内に入った私は、チケットに書かれた座席番号を確認し、壁に沿って設けられた螺旋階段を上って三階に向かった。普通の列車や飛行機は横長だが、このカプセルは縦長であり、五階建てになっている。
 三一四番の座席は、運のいいことに通路側だった。普通の列車なら窓は側面にあるのだが、このカプセルは窓が正面にあるので、景色を楽しむには通路側の方が有利なのだ。席に座るとそれは意外にもふっかりとして座りごこちがよく、ゆったりとした大きさだった。
 客室内には他に二つのディスプレイがあって、カプセルの上方の景色と下方の景色を映している。ほどなくシートベルト着用のサインが赤く光り、二つのディスプレイの画面が切り替わると、金髪のスチュワーデスが映し出されて非常の場合の宇宙服の着用方法を説明し始めた。
 発車するまでの時間は、ひどく長く感じられた。実際には五分程度だっただろうか。なんの前ぶれもなく、いきなりカプセルは動きだした。ココヤシの木々がゆっくりと下に下がっていった。
 下方を映しているディスプレイに映っているガン島が、徐々に小さくなっていく。
「日本の方ですか?」
 話しかけてきたのは、左隣の席の白人男性である。外国に行くと大抵中国人か朝鮮人に間違われるが、彼のようにいきなり日本人かと聞いてくるのは珍しい。
「ええ、そうです」私はつたない英語で答えた。
「あなたも、W未来Wを見に行くのですか?」
「は?」
「日本の人工衛星ですよ。今日打ち上げられる……。知らないのですか?」
 彼の話によると、今日、科学衛星W未来Wが、この軌道エレベータから打ち上げられる−−射出される、と言った方が正しいが−−予定なのだという。科学衛星というのは宇宙に関する様々な科学的調査をするための人工衛星である。外国人である彼が知っていて、日本人である私が知らなかったとは恥ずかしい。
 彼はフランスの大学生で、人工衛星が射出されるところを見たいというただそれだけの理由で、わざわざ来たのだそうだ。月に住む人々に会って、話を聞きたいというそれだけのために百万円近い旅費を投じる私と、どこか似たところがある。私達はすっかり意気投合して、しばらく話しこんだ。彼は理工系の学生で、軌道エレベータについても随分と詳しく知っていた。
「どうしてガン島が軌道エレベータを建てるのに一番適しているか、知ってますか?」
「さあ……」
「静止軌道、つまり静止衛星が飛ぶ軌道は、赤道上にあります。静止衛星が地球の自転と同じスピードで飛んでいるから、地球上の一点に止まっているように見えることくらいは知ってますよね?」
「いや……、僕は文系人間なんでね。でもこの軌道エレベータをつり下げている宇宙ステーションが、その静止衛星にあたるってことは知ってるよ」
「ガン島は赤道上にあるばかりでなく、重力ポテンシャルが最も低いから、安定してるんです」
「重力ポテンシャル?」」
「ええ。地球の重力はどこでも同じように見えますが、実は場所によって微妙に違うんです。ガン島は赤道面では一番重力ポテンシャルが低いから、一番安定しているんです。もちろん他の場所に建ててもいいんですが、そうすると宇宙ステーションが、より安定した方向に向かって流されていってしまうんです。地表の端は固定されているから、軌道エレベータが傾いてしまうことになります。それを防ぐためには常にスラスターを噴かして、位置を調整しなくちゃならない。そうするとその燃料代がばかにならないんです」
 一九六〇年、レニングラードのエンジニア、ユーリー・アルツターノフが「コムソモルスカヤ・プラウダ」誌に発表したW天のケーブルカーWのアイデアは、画期的なものであった。
 それは静止軌道にまで伸びる、高い高い−−なんと三万六千キロ! −−塔である。こういった塔があれば、いろいろと便利である。ロケットは地球の重力にしばられているから、それから脱出するには莫大な量の推進剤が必要である。しかしこの軌道エレベータの頂上から発射すれば、推進剤の量はちょっとで済む。静止軌道上は地球の重力と遠心力とが釣り合って、重力ゼロの状態だからだ。
 まさにこれは、宇宙への架け橋なのだ。
 ところがこういった塔を地上から建てることはできない。地球の重力に引っ張られるが故に、地上から建てられる高さには限界があるのだ。
 そこで逆転の発想で、静止軌道上の巨大な静止衛星から、地上に向かって塔を伸ばしていくのだ。もっともそうすると、地球の重力に引っ張られてどんどん地球に落ちていくから、釣り合いをとるために反対側、つまり宇宙側にも同じ分だけ伸ばしていく必要がある。反対側の方は遠心力に引っ張られる。もっとも、宇宙側の方は地球側ほど長くする必要はない。端に適当なおもりをつければよい。
 しかしこのようなエレベータがあったとしても、地上から静止軌道上にまで荷物を運び上げるのに膨大なエネルギーが必要なように思える。これは、W下りWのエレベータが持っている位置エネルギーを、落ちていく時に発電器で取り出すことによってまかなわれる。
 下りのエレベータが発生するエネルギーを、上りのエレベータが消費するわけで、余分なエネルギーがかからないということが、軌道エレベータのもう一つの優れた点である。
 とまあ、彼の話をまとめるとざっとこんな感じだろうか。
「それにしてもよくそんな長いものが、途中でちぎれないもんだな。重量だって相当なものになるだろう?」
「ええ、そのために、密度が小さくて極端に引っ張り強度が大きい素材が必要でした。軌道エレベータが考えだされた当初は、ダイアモンドのひげ結晶が有力と見られていました。
 しかしさらにその後、二十世紀の終わり頃に、日本のある大企業の研究所がカーボンナノチューブという、さらに適した材料を発見し、結局これが採用されることとなったのです」
「カーボン……、なんだい?そりゃ」
「炭素の同素体には、ダイアモンドやグラファイトやフラーレンがあります。このフラーレンというのはサッカーボールみたいな形の分子構造をしたもので、これを筒状に伸ばしたものがカーボンナノチューブです。ダイアモンドのひげ結晶にしろ、カーボンナノチューブにしろ、地球の重力場にある限り、大した長さにはなりません。結晶内に重力によるひずみが発生してしまうからです。こういった結晶は重力ゼロの宇宙空間でしか作れないのです。そのために、軌道エレベータは構想だけは早くからあったのに、今日のような宇宙時代が来るまで、実現できなかったのです。ほら、ガラパゴス諸島の上に宇宙工場があるでしょう?あそこで作られてるんですよ」
 下方を映すディスプレイの四角い枠の中で、地上の風景は微視的なものから巨視的なものへと徐々に変化していった。点の集まりのようなモルディブ諸島は、それ自体が点のようになり、スリランカやインドが、その枠内へと進入してきた。やがてアラビア半島やインドシナ半島も枠内に収まってきた。この風景の変化はよくテレビ番組で取り上げられるが、生で見ると迫力が大違いである。正面の窓から見える地平線が、徐々にその丸みを帯びていく。
 地球から離れていく様子は、眼だけでなく、体全体で感じることができる。私の体はゆっくりと軽くなっていった。
 やがて地球全体が視野に入ってきた。ここまで来るとこの軌道エレベータの長さに改めて驚かされる。手前から向こうへ行くほど細くなり、ディスプレイの真ん中辺りで消え、その先に丸い地球が浮かんでいるのだ。
 まだまだ静止軌道には遠いが、もはや重力はほとんど感じられなくなっていた。シートベルトで縛りつけられていなければ、皆、宙に浮いてしまうだろう。
 私の二列前の席のご婦人が宇宙酔いを起こしたらしく、スチュワーデスが介抱している。重力や加速度を感知する内耳の耳石器が、無重力状態では正確な情報を脳に送れないために、宇宙酔いを起こすのである。−−と、隣のフランス青年が教えてくれた。
 長い時間をかけて、地球は小さなボールのようになっていった。もうそろそろこの軌道エレベータをつり下げている、W中間ステーションWに到着する時刻だ。


 ようやく中間ステーションに着いた頃には、腹がペコペコになっていた。私はフランス人青年−−名をエリックという−−と一緒に、食堂に行った。無重力状態のため、マジックテープになっているカーペットの上を、靴の底をペタペタと密着させながら歩く。足が床に粘りつくような感じで少々歩きづらい。かなり大きなステーションで、初めて見る食堂は、高級レストランを思わせる造りである。今では宇宙食といえば歯磨きチューブ式のものではなく、ちゃんとしたものであることくらいは、小学生でも知っている。
 エリックはコンソメスープとスクランブルエッグとバター入りのシリアル食品を、私はビーフステーキとポテトグラタンとレモネードを注文した。食事が来るまでに三十分近く待たされた。
「無重力下では熱対流が起こらないので、温めるだけでもかなり時間がかかるんですよ」
 エリックは相当な物知りである。
 やっと食事が運ばれてきた。飲み物はパックに入っていてストローで吸うようになっている。食べ物は透明なふたがされたプラスチックの容器に入っている。
 もともと作ってあるものを温めただけなので地球のレストランで食べるものには劣るが、まあ、それほど悪いものでもない。
「エリック、もっとゆっくり食べたらどうだい?」
「いえ、もうすぐW未来Wが打ち上げらる時間なんですよ。早くしないと見逃しちまう」


 なんだ、それなら早く言ってくれればいいのに、と思いつつ、平べったい巨大な円盤のようなステーションの、最上階の端の、内側に大きく湾曲した窓の下に走っていくと−−とは言ってもベルクロ・カーペットの上なのでそう早くは走れないが−−すでに多くの観客が集まっていた。
 エリックは平然と人波をかきわけて、前へと進んでいった。背が低い私も彼の背中にくっついていったので、なんなく最前列に進み出ることができた。
 五分ほども待っていると、大きなアナウンスの声がステーション内に響いてきた。
「皆さま、大変長らくお待たせしました。本日ここへ来られた皆さまは大変幸運であります。人工衛星射出のうちその様子を一般に公開できるものは、一年に数回しかありません。今日ご覧頂ける人工衛星は、日本の科学衛星、W未来Wであります。その名の通り、人類の科学のW未来Wを、この大空から望むものとなるでしょう。中間ステーション最大のショウ、人工衛星射出はあと五分ほどで行われます。皆さまの人生の良き記念となりますよう、しかと心におきざみ下さい。なお、写真撮影は禁止とさせて頂きますのでご了承下さい」
 時間が近づくにつれて、ざわざわとしたざわめきは静まり、水をうったようにシーンとなった。その静寂は突如「おおーっ!」というどよめきに変わった。
 私達の足元より数十メートル下、ステーションの側壁に開いた射出口から、パチンコではじき出された小石のように、銀色の羽根虫のような人工衛星W未来Wが高速で射出された。
 それはどんどん小さく、小さくなって、ついに我々の視界から消えていった。ほんの数十秒で終わったショウは、私には少しもの足りないものであったが、これを見ることを初めから楽しみにしていた他の観客には大きな感銘を与えたようだ。誰ともなく拍手が始まり、それは大きな拍手の波へと変わっていった。
 エリックを見るとその顔には満足気な微笑みが浮かんでおり、目には涙さえにじんでいるのだった。
 静止軌道という巨大な半径で、地球の自転と合うように−−つまり二四時間で一周するように−−飛ばそうと思ったら、その人工衛星にはかなり大きな速度を与えなければならないように思える。しかし実際には、この中間ステーション自体が地球の自転に合う速度を持っているわけで、このステーションに置いてあるだけでもそれはすでに静止衛星になっていると言える。人工衛星W未来Wが射出されたのは、地球の自転に合う速度を与えるのが目的なのではなく、単に目的地−−日本と同じ経度−−にたどり着かせるためである。W未来Wはその後速度を落とし、目的地にたどりつくと同時に静止衛星になるのだという。


「ここでお別れですね。青木さん」
 エリックは手を差し出した。私は彼と固い握手をかわした。地球行きカプセルの発車時刻が来たことを知らせるベルが、構内に鳴り響いた。カプセルに乗り込む時、エリックは「良い旅を」と言って片手を上げた。
「君も元気で」と、私は答えた。
 私は、去りゆくカプセルに向かって手を振った。
「いい青年だったな」
 私は、授業中に気ままにおしゃべりをしたり、居眠りしたりして、まるで私の講義を聞いていない日本の学生達のことを思い出した。まあ、もっとも、エリックの爪の垢でも煎じて飲め、などと言うつもりはない。人にはそれぞれの生き方というものがある。エリックにしろ、彼らにしろ、まあ、それなりの職に就いていくのだろう。
 話相手がいなくなって手持ちぶさたになった私は、少し早いが月軌道エレベータ行きのシャトルの発射港に行くことにした。
 最上階のロビーに行くと、すでに十数人の月行きの人々が集まっていた。
 上を見上げると、巨大な中空の筒が、はるかかなたまで続いているのだった。そして筒の最下部、つまり私の頭の上には、四機のシャトルが、筒の内壁にへばりつくようにして佇み、その巨大な噴射ノズルを私達の頭に向けているのだった。
 それらは古き良き時代のスペースシャトルを思わせるスタイルをしていた。未だにこの型が使われているということは、最初にスペースシャトルを作った時に、NASAはよっぽどよく考えて作ったのだろうなあ、ということが想像された。
 今までは円筒の外側を通ってきたが、ここからは円筒の内側を通って、地球の遠心力の助けを借りて、宇宙へと飛びだしていくのだ。とは言っても月の軌道エレベータに着くまでの短い旅ではあるが。それでも、初めて宇宙船に乗るのだという事が、軌道エレベータに乗った時以上に私を興奮させた。この感覚は初めての海外旅行でいきなりマダガスカルに行った時のそれに似ていた。
 シャトル発射の時刻まで三十分近くある。こういう時にいつもするように、私は周りの人々の人間観察を始めた。これから宇宙船に乗る他の人達の感情は、どういうものであろうか。もちろん初めての人もいれば、もう何度も乗っている人もいるだろう。
 やたらとはしゃいでいる若いカップル、不安そうな顔の人、無重力状態だというのに冷静に本を読んでいる人、いろんな人がいる。
 日本人、というか東洋人はいないようだ。
 待てよ? 私自身はどうなのだろうか。今まではまだ、軌道エレベータという長い長い綱によって、地球という母なる大地に結ばれていた。しかしここからは、その大地と、つまりは私が生まれ、育まれてきた自然と、完全に切り離されるのだ。私は宇宙に出るということを、海外旅行に行くのと同じ感覚で考えていたのではなかったか。ふいにそんな考えが浮かんだ。たかが月ぐらいで、と思われるかもしれない。だがそこには、地球と月との間には、越えがたい、宇宙の真空の、暗黒の海が横たわり、この両者を隔てているのだ。
 初めてアームストロングが月に降り立った時、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」と言った。確かにそれは、地球人類が宇宙へ出ていく偉大な一歩であったのだ。今でこそ我々一般人でも月へ行けるようになったが、逆に言えば、一般人が行けるのはせいぜい月止まりである。
 長い長い年月をかけて、我々の遠い子孫達が、太陽系の各星々に広がっていった時、彼らは地球という、人類の故郷から切り離されてしまった事に対する、絶対的孤独を感じないのだろうか?
「本日はモルディブ・スペースラインをご利用頂き、有り難うございます。月行きシャトル二七二便の発射時刻十分前となりました。ご搭乗の皆さまは、二番搭乗口までお集まり下さいませ」
 ロビー内に、女性の涼しいアナウンスの声が響いた。


 シャトルが月に近づくにつれて、銀色に輝くひもが見えてきた。月の軌道エレベータである。ひものてっぺんにつながっている小石が徐々に大きくなるにつれて、それが軌道エレベータを地球側に引っ張るためのおもりとして使われている、小惑星だということが分かってきた。シャトルは速度を落とし、小惑星の真ん中にうがたれた穴の中に入っていった。そしてそのまま軌道エレベータの円筒の内部に突入し、レール上でブレーキをかけながらさらに速度を落とし、停車場でその動きを止めた。いよいよもう少しで月の表面に到着する。この停車場、「ラグランジュ・ステーション」で、また少しの休憩時間がある。
 地球の中間ステーションに比べるとそこは、随分と殺風景な所だった。完全に密封されており、外をながめる窓もない。食事をとるためのレストランもない。途中、これから地球へ帰ると思われる西欧人の親子連れとすれ違った。
「まだ体の節々が痛むよ」
「でもあなた、やっと地球に帰れるのよ」
「そうだな。でも地球の重力にすぐに慣れるかな」
「大丈夫よ。そのために訓練を受けたんですもの」
「そうだよパパ、もうすぐ地球だよ」
 そうだなあ、お前が地球を出たのはまだ四歳の頃だったからなあ。覚えてないだろう……、という声が、徐々に遠ざかっていった。
 月の長期滞在者が地球へ戻る際には、体がすっかり月の重力に馴染んでしまっているために、その六倍もの重力に耐えるようにするために、訓練が必要である。訓練のためにヘトヘトになっていたようだが、その顔ははつらつとして、地球に帰れることがとてもうれしそうだった。
 私はなぜかその時、中間ステーションのシャトルの発射場で考えたこと−−地球から切り離されたことによる孤独−−を思い出し、なんとなく嫌な予感がした。
 私はロビーの、縦横にズラリとならんだ椅子の一つにこしかけると、浮き上がらないようにシートベルトで体を固定させた。
 疲れたなあ、と思いつつ上を見上げると、そこには待ち時間の退屈を少しでも紛らわせるためであるかのように、数枚の絵と写真が、無愛想な灰色の壁に掛かっていた。
 初めて人類が月に到達する百年以上も前に、その作品の中で、月に行って帰ってくるまでの様子をかなり正確に予言した、ジュール・ベルヌの肖像画、アポロ計画初の有人飛行に使われた、サターンIBロケットの、第一段切り離しの瞬間を捕らえた写真、初めて月面に降り立つことに成功した三人の宇宙飛行士−−ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリン−−が、紙吹雪が舞うニューヨークで、群衆の歓待に応えている写真、太陽熱発電システムや通信アンテナが立ち並ぶ、初めて月面上に建設された、ルナーベースの写真、等々。


 月面へ降りるカプセルからは、外の様子をうかがい知ることはできなかった。なぜなら、そのカプセルは軌道エレベータの内側を通っていたからである。
 私は徐々に、徐々に、再び体に重力がかかっていくのを感じた。
 カプセルがレールの継ぎ目を通る時に出す、電車のそれに似た、「カタン、カタン」という音の間隔がだんだんと長くなっていき、やがて、カプセルはゆるやかに停止した。
 月はいつも同じ面を地球に向けている。そのちょうど真ん中辺りにある、プトレメウス・クレーターに、ようやくたどり着いたのだ。
「皆さま、長い時間のご乗車、お疲れさまでした。当機はプトレメウス宇宙港に到着致しました。サインが消えるまで、シートベルトはお外しにならないで下さい。本日はモルディブ・スペースラインをご利用頂き、有り難うございました」
 プトレメウス宇宙港を出て、地下鉄道で「中央の入江」にある、半地下の月面コロニーに着き、コロニーを覆う巨大なガラスのドームを通して宇宙を見上げた時に、ああ、月に着いたんだなという実感が、ようやく湧いてきた。
 コロニーの南端に位置する、コロニー最大のホテル、「パラダイス・ムーン」にチェックインした私は、荷物を部屋に置くと、すぐさまコロニー内の散策に出掛けた。
 このコロニーこそ、約一万人の月移住者を収容する、月への進出地なのである。もちろんあちこちに点在するルナーベースには、技術者や研究者達がいる。しかし一般市民が生活する場所は、現在の所、このコロニーだけなのである。
 私は月へ向かうシャトル内で、スチュワーデスが言っていた注意を思い出しながら、慎重に歩いた。それは、重力が六分の一になったからといって、W体重Wが減ったわけではないのだということである。つまり、W重さWは減ったが、W質量Wはそのままなのである。体が軽くなったからといってほいほいと大股で歩いていくと、人や物にぶつかった時に思わぬ衝撃を受けることになる。
 私は感心したのだが、ここには地球の一般的な都市に存在する全てのものがあった。銀行、企業、スーパー、クリーニング店に散髪屋に本屋、果てはおもちゃ屋やハンバーガー・ショップまである。私がちょっと散歩した範囲でさえこれだけのものがあるのだから、この巨大ドーム内には地球と同等の都市機能が備わっていると想像された。
 自然もあった。とはいっても街路樹といった程度のものではあるが。地球の六分の一の重力でも地球と同じように植物が育つというのは、何とも不思議な、神秘的な感じがした。だがしかし、近寄ってよく見ると、残念ながらそれは本物の植物ではなく、作りものであった。
 しばらく散策しているうちに、私は奇妙なことに気がついた。道ですれ違う人々が、皆うつむいて歩いているのである。そうでない人も、私と目が合いそうになると、途端に目をそらしてしまうのだ。日本の、例えば東京なら、そういうことは普通のことかもしれない。しかしイタリア人やアメリカ人−−と、おぼしき人−−でさえ、そういった様子をしているのだ。私に対してだけではない。よく見ると、人々はお互いに決して目を合わさないようにしているように思えた。
 中にはそうでない人もいる。しかしそういう人は何がそんなにおかしいのか始終ヘラヘラ笑っている人や、何がそんなに気にくわないのかムスッとしていて、私の顔をキッと睨みつけるような人ばかりである。
 そうこうしているうちに、私は一軒のしゃれたイタリア料理店をみつけた。ちょうど腹も減っていたので、私はその店に入った。
 中に入るとまたしても奇妙な雰囲気であった。シーンと、静まり返っているのだ。音楽も流れていない。片隅ではしゃいでいる四人のフランス人の声だけが、店内に響いている。他の客達はみな黙々と食事をしている。地球のこういった店ではちょっと想像しにくいことだが、意外にも一人で来ている客が多かった。
 店員の案内もないので、私はどこにすわろうかと、きょろきょろと辺りを見回した。その時、私の目に一人の男が飛び込んできた。東洋人だ。
 うつむき加減のその男は、ひどく緩慢な動作でブロッコリーにフォークを突き刺し、それを口に運ぼうか、運ぶまいかと、迷っているように見えた。
「日本の方ですか?」私はおそるおそる、日本語で話しかけた。
「……ええ、そうですけど」
「ああ!良かった。ここ、よろしいですか?」
「どうぞ」
 私は、その男の向かい側に腰掛けた。歳は四十前後だろうか。
「いやあ、良かった。外国人ばかりの土地で日本人に会うと、ホッとします」
「……そうですか」
 ボソリ、ボソリと、つぶやくような調子でしゃべる。彼は、日本人など別に珍しくもなんともないというふうだった。
 私は、トマト・ソースのスパゲッティーと、サラダと、ワインを頼んだ。ほどなくして、二人分はあろうかという山盛りのスパゲッティーが運ばれてきた。プラスチックの容器に入ったものではない、茹でたてのスパゲッティーである。ワインも、パック入りのそれではなく、ちゃんとしたワイングラスに給仕が赤ワインを注いでいった。
「こちらにはご旅行ですか?」
「……いえ」
「では、こちらで仕事をされているんですか」
「……はい」
 彼は自分の方からは話そうとしない。私が質問すると、しゃべることが面倒くさくてたまらないというふうに、ボツリ、ボツリと返事をするのだった。
 私は、自分は学者で、月の人々の暮らしぶりを知るために、できるだけ多くの人と話をしたいのだということを、正直に告白した。
「構いませんよ」と彼は言った。
 彼は八巻 敏夫といい、ルナーベースの技術者で、月の表土から宇宙ステーションの材料を精製する作業の監督をやっているのだという。月にはもう八年もいるのだそうだ。
 最近は仕事がうまくいっていないという。しかし、生産量が落ちているわけでもなく、従業員は至って従順で、人間関係のトラブルが起こっているわけでもないという。結局何がうまくいっていないのか、聞き出すことはできなかった。
 あれやこれやと質問して聞き出すことができたのは、たったこれだけである。
 私はこれ以上いると迷惑そうなので、食事が済むと、
「いや、どうもお食事中のところをおじゃましました」
 と言って、その場から退散した。立ち去る時、彼の皿にはまだ半分以上料理が残っていた。
 こうして、月での第一日めが終わった。


 二日目、私はコロニー南端から中央の方に足を伸ばしてみた。コロニー内唯一の大学、Wルナー宙立大学Wを見たかったのだ。特に入門許可証のようなものは必要ないようで、私は勝手に入っていった。
 私は構内をあてもなくぶらぶらと歩いていった。ここの学生もまた、奇妙に内向した雰囲気を持っていた。ときたま楽しそうにおしゃべりしている集団もみかけるのだが、大多数はつまらなくてしかたがないという顔をしているのだ。
 いろんな人種がいた。西欧人、東洋人、黒人、等々。
 歩き回っているうちに図書館を見つけたので入ってみた。同心円状に配置されたコンピュータのうちの一つの前にすわり、文献をアクセスしてみる。目録の中にこの大学の論文の一覧を見つけた。その中の一つを見てみようとすると、「パスワードを入力して下さい」と表示された。私は論文を読むことをあきらめた。
 館内を歩いている学生の一人に、「あの、ちょっとすみません」と声をかけると、学生は振り返りもせずにそそくさと立ち去った。
 片っ端から声をかけるが、一人も捕まらない。すると、一人の学生がこちらに向かって歩いてきた。ヘラヘラと笑っているので、ヤバイかな、と思ったが、私はその学生に話しかけた。
「すみません。心理学の先生に面会を申込みたいのですが、どこに行けばいいですか?」
「ああ、それなら事務課に行けばいいですよ。ここを出て、左に曲がって、しばらく行くと掲示板がありますから、そこを右に曲がった所にありますよ」
 心理学の先生に話を聞きたいと思ったのは、月の人々の奇妙な心理状態について、何か分かるかもしれないと思ったからである。
 受付に行くと、心理学の先生はエレノア・マクレガー教授だが、今日は風邪で休みだということだった。明日出てくるかどうかは分からないという。
「あの……、私明日地球に帰ってしまうんですが……」と言うと、
「一応伝えておきます」という答が返ってきた。
 私は何枚かの紙にサインさせられ、写真を一枚撮られた。


 夜になり−−といってももちろん時計の上でのことだが−−私は昼間見つけておいたビアガーデンに行った。ここなら、酒の酔いも手伝って、もう少し明るい雰囲気になっているだろうと思ったからである。思った通り、人々は少しばかりのにぎやかさを帯びていた。
 さて、どこにすわろうかと迷っていると、一人の青年が話しかけてきた。
「あの、日本の人ですか?」
「ええ、そうです」有り難い。日本人だ。
「どうです。僕達と一緒に飲みませんか?」
 青年は笑った。誘われるままに、私は彼のテーブルに行った。テーブルには他に、かわいらしい女の子と、すでにかなり酔いが回っているらしい青年がすわっていた。
「僕は横柿、彼女は星さん、彼は赤間です。僕らルナー大の学生なんですよ。いやあ、実は大学の構内で見かけましてね。ひょっとしたら日本人じゃないかなって、思ったんですよ。ここで会えるとは奇遇ですね」
 彼……横柿君はおしゃべりだった。彼が一人で猛烈にしゃべり、私が相槌を打つ。星さんは横柿君の彼女で、彼の話にうんうんとうなずいている。もう一人の赤間君は、ずっとふてくされたような顔をしている。
「おい! 横柿! お前何がそんなに楽しいんだよ」
 いきなりからんできたのは、赤間君である。
「この荒涼とした宇宙砂漠で、昼は百二十度の灼熱地獄、夜はマイナス百七十度の極寒地獄に包まれて。おかげでこのドームからは一歩も出られやしない。そんな中でよくそんなに楽しそうにしていられるな!」
「ハハハ。お聞きの通り、だいぶ酔ってますが、こいつかなりの博学なんですよ」
 博学、という言葉でエリックを思い出したが、随分とタイプが違うようだ。私は話をそらせようとして、軌道エレベータの話をした。
「地球の中間ステーションに比べて、月のラグランジュ・ステーションはずいぶんと寂しい所だね。赤間君の気持ちも分かるよ。あそこに来た時点で、月って寂しい所なんだろうなあっていう予感があったもん」
「そうそう、かのラグランジュ博士が発見したラグランジュ・ポイント。そのおかけで軌道エレベータは三万キロも短くてすんだんだ。静止軌道だと九万キロもありますからね」赤間君は真っ赤にうるんだ目を私に向けた。私の話の答にはなっていない。
「あれ? ラグランジュ・ステーションって、静止軌道にあるんじゃないの?」
「違いますよ! 太陽と、月と、地球の重力が重なって、ちょうど安定している所、そこがラグランジュ・ポイントなんです!」
 なるほど、それで、WラグランジュW・ステーションか、と、私は思った。
 突然、星さんが「ウッ」といってかがみこんだ。
「大丈夫? 吐きそう?」横柿君は彼女を抱えて、トイレに行った。
 二人が行ってしまうと、赤間君が、声をひそめて私に話しかけてきた。
「最近ああいうのが増えてるんですよ。横柿みたいなやつ」
「えっ?」
「あいつはね、月に来る前はあんなに明るいやつじゃなかったんですよ。とてもじゃないが自分の方から初対面の人に声をかけられるようなやつじゃなかった」
「明るくなったんだね。いいことじゃないか」
「あいつだけじゃないんです。ほら、あそこにいるアメリカ人、見えるでしょ?」
 赤間君が指さす方を、私は見つめた。西欧人のカップルがすわっていて、男の方が一方的に女にペチャクチャとしゃべっている。
「あの男の方、あいつはカーターっていって、僕の同期ですよ。一緒にルナー大に合格して、月に来た仲間のうちの一人ですよ。あいつは初め、もっと落ち着いたやつだったんです。それが急にあんな風になったんです」
「人が変わったようになった……と?」
「そうなんです!この間話しかけたら、僕のことなんか知らないって言うんですよ。おかしいと思いませんか? 青木さん、僕はこう思うんですよ。月には元々、我々の想像を絶する生物がいて、我々の体をのっとって、地球人になりすましてるんじゃないかってね」
「横柿君が宇宙人だっていうのかい?」
 私は、大昔の映画のライブラリで、そんな映画を見たことがあったのを思い出した。あれは確か、ある町の住人が次々とエイリアンに体をのっとられていって、最後には主人公以外の人間はみんなその住人の姿をしたエイリアンになってしまうという、そんな映画だったはずだ。
「まさか。……今までにそんな報告があったかい? 月に宇宙人がいたっていう……」
「普段は見えないんですよ! それにね、僕は調べたんですけど、ここ二年ほどの間にこのコロニーの人口は二千人も増えている! 極端な産児制限が設けられてるのに、ですよ!? きっと、最近になってやつら、地球人の体をのっとらなくても、直接地球人に化ける方法を編み出したんですよ」
 私は、心の中で「かわいそうに」とつぶやいた。彼もまた月のコロニーという閉ざされた環境の中で、精神に変調をきたしたのだ。
「で、その月の生命体は何のためにそんな事をするんだい?」
「やつらはね、地球人になりすまして、地球に行くことが目的なんですよ。やつら……W月人W達は、地球を侵略するつもりなんですよ!」
「……君は、想像力が豊かだな。小説家になるといい」
「地球に帰ったら、調べてみるといいですよ。きっと最近になって、月から地球にやって来る人間の数が、極端に増えているはずですよ。やつら、この機会をずっと待ってたんです。地球人が月に進出してくるのをね。僕ら何も知らずに、軌道エレベータなんていう便利な乗り物を作って、月人が地球に行く手助けをしてたんですよ。やつら、地球人が月に進出するぐらいにまで進化するのを、ずっと待ってたんですよ」
「なるほど。じゃ、アームストロングが月への第一歩を印した時、彼らは躍り上がって喜んだんだろうな」
 その会話はそこで途切れた。横柿君達が帰ってきたからである。


 三日め、私は再びルナー宙立大学に向かいながら、どうしたものかと迷っていた。昼にはもう、プトレメウス宇宙港に向かう地下鉄道に乗らなければならない。
「青木さんじゃありません?」
 いきなり声をかけてきたのは、金髪の美しい女性である。
「ええ。そうですが」
「ああ、やっぱり! 私、ルナー大のエレノア・マクレガーです」
 なんという偶然! 彼女は大学からFAXで自宅へ送られてきた私の写真を見て、顔を覚えていたのだ。私は、彼女から月の人々について、いろいろと聞くことができた。
「はしゃいでいたのは、最初のうちだけですね。宇宙へ出る、というのがどれくらいつらいものであるかは、二年くらいしてから現れてきたんですの」
 彼女はここで大きなくしゃみをした。風邪がまだ直っていないらしい。
 彼女によると、月移住開始から二年後には全人口の十五パーセントが神経症、七パーセントが鬱病になったという。その数字は徐々に上がり続け、五年後では神経症と診断された患者は三十五パーセント、鬱病は十二パーセント、さらに精神分裂症が五パーセントにもなり、深刻な社会問題となったという。徐々に非合法ドラッグや、暴力事件が問題になり始め、深刻さは増していった。しかし十年めに入ると、逆にこの数字は下がり始めた。社会全体が神経症や鬱病になって、当たり前になってくると、誰もカウンセラーの元へ足を運ばなくなったからだ、と、彼女は分析する。
 私はふいに、イタリア料理店で会った八巻氏のことを思い出した。彼が「仕事がうまくいっていない」と言ったのは、工場の生産性云々ではなく、彼自身の作業効率が落ちてきたという意味ではなかったのだろうか? 彼もまた、精神を病んでいたのではなかったか?
 話しているうちに、ルナー大の門の前に到着した。
「どうします? 一限目の講義が終わるまで待って頂ければ、もっとお話できますが」
「あ、いえ、私もう地球へ帰らなければならないんで……」
「そう。残念ですわ」
 こうして、私の月滞在は終わった。


 帰りの便では、私はほとんど寝ていた。きっと月であまりよく眠れなかったからだろう。モルディブのマーレに着くと、私は観光客用に作られた安酒場に入った。
 窓際に陣取って、水割りをチビリ、チビリとやっていると、月で出会った人々の姿がよみがえってきた。
 地球という故郷から遠く離れてしまった事が人々の精神に及ぼす影響は、想像以上のものであった。それは月コロニー全体を支配していた。
 月コロニーに限らず、宇宙に出ていった人々のうち何割かは、精神に何らかの変調をきたすという。医学の進歩によって、体の病気は直せるようになっただろう。しかし心の方は……、地球から遠く離れてしまった疎外感、閉塞的な環境、いつも生命の危機にさらされている緊張感、そういったものは、どうしようもない。
 そんな私の耳に、バーのテレビのニュースが聞こえてきた。
「……この一年間で、月から地球へ帰ってくる人の数は千二百人にものぼり、去年の八割も増加しています」
 ふいに、赤間君の顔が浮かんだ。
「月人達は地球を侵略するつもりなんですよ」、か……。なかなかおもしろい発想をする青年だ。
 まあいいじゃないか、と、私は思った。もしも本当に月人が地球に進出してきているとしても、地球人だって月を、W侵略Wしているのだ。地球人はこれからも月の表面を傷つけ、地球人向けに環境を変えていき、その上空は人工衛星や宇宙ステーションといった、WごみWでいっぱいにしていくのだろう。
 お互いさまだ。
 私は窓辺に寄り掛かり、月に向かってグラスをかかげた。
「お月さん、ご迷惑でしょうが、あなたの所に行った地球人類のこと、よろしくお願いしますよ」
 グイッと、琥珀色の液体を飲みほした。
 月が、「こちらこそ、Wそっちへ行った人Wのこと、頼みましたよ」と言ったような気がして、「フフ……」という笑いが、思わず私の口からこぼれた。

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