俺は自称うどん通だ。ほとんど毎日食っている。多い時には三食ともだ。俺はよく旅をする。もちろん、より素晴らしい歯ざわり、喉越しを求めてのことだ。
 三重の伊勢うどんは良かった。海老の天ぷらと鰹、海苔、ねぎ、めひびがつややかな麺にのっている。一般的には汁の中に入っているが、こいつはたまり醤油のようなたれにつけて食べるのだ。天ぷらのさくさくした食感がそのまま味わえ、めひびの独特の風味も楽しい。
 千葉で食った焼きうどんもうまかった。海水浴場の近くにある露店で、注文してから作り始めるのだ。出来たての奴を一気にほおばるのは格別だ。
 友人や親戚に聞くと、きつねやたぬき、カレーうどんくらいしか思い浮かべないが、釜揚げ、鍋焼き、ざる、月見等、バリエーションは豊富なのだ。
 素人はどこの店で食っても同じとしか考えないが、実際には太さも腰も表面のぬめりも全然違う。分かっちゃいねえ、まったく。
 だから俺は、この街でもすべてのうどん屋は行きつくしている。引っ越して来てから一年になる。
 大学に電車で通える範囲に、こんな宝石のような街があったとは。俺はここを「うどんの里」と呼んでいる。それくらい上等な店がそろっている。日本一と言っても過言ではない。
 そして最終的に落ち着いたのがここ、井丸屋だ。友人はさんざん歩き回ってやっと見つけたのが、どうしてそんな駅前の小さい店なんだと言うが、うまいだけじゃだめなのだ。安くなきゃ。だって毎日食うんだから。質と値段のバランスが最高にとれているのが井丸屋なのだ。
 今日はきつねとたぬきの合わせだ。いつもより少し贅沢だ。俺は七味をとり、小さじ一杯分ほどをふりかけた。おや? 油揚げの下からのぞいている一本が、少し動いたような気がした。まさかな。徹夜マージャンしたから目が疲れているのかもしれない。帰ったら少し昼寝しよう。
 箸を割って突っ込む。麺が避けるようにして身をうねらせた。まあ、そう見えただけだろう。箸が当たったからだ。そう思ってかき混ぜた時、俺は背中に冷水をぶっかけられたような気分を味わった。白い、表面にほどよいぬめりを持ったもの達が、いっせいに波打ち始めたのだ。
 その様子は桶に入れられた大量のどじょうのようであった。いや、むしろミミズか。俺は驚きのあまり声を出すこともできなかった。
 なんとかしなければ。だが体が凍りついたように動かない。彼らの動きは徐々に激しさを増し、音をたて、汁をどんぶりの外に飛ばし始めた。
 そこはカウンター式の店で、横一列に客が並び、すぐ前が調理場になっており、親父が湯を切っている。まだこの異変に気づいていない。
 助けを求めるように横を向くと、隣の客と目が合った。
「おい、あんたどうしたんだよ、それ」
 そう言われても困る。
「いや、僕も分からないんですけど」
「ちょっと、これどうなってんの」と彼は、俺のかわりに親父に言ってくれた。
 料理人は俺達をにらんだ。次の瞬間、湯切りをする彼の手が止まった。
「お客さん、何やってんだ」
 どうやら俺のせいにしたいらしい。
「僕は何もしてないですよ」カチンときた。「とにかくこんなもん食えませんから、金返してくださいよ」
 突然ポップコーンが弾けるような音がした。熱い!
 麺も汁も器の外に飛び出し、俺の服にかかっていた。うどんがズボンに巻きつき、這うのを見て、俺は絶叫した。中身が全部出たのかと思ったが、そうではなかった。どんぶりはまるで底が抜けているかのように、白くて細い蛇のような物体がうねりながら次々に這い出してくるではないか。俺は椅子から転げ落ちた。
 両隣のおっさんが立ち上がった。恐慌は俺の近くからカウンターの端へと伝播していった。あっと言う間に店内は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。
 つい先ほどまで愛してやまなかったそいつらは、おぞましい謎の生物と化した。のたうちまわりながら床の上に広がっていく。手で払っても、どんどんまとわりついてくる。俺に声をかけてくれた人もその犠牲になっていた。彼は足にからみつく連中をちぎっては投げた。
 俺は一刻も早く逃げたかったが、出口に殺到する客達に踏みつけられ、立ち上がることさえできなかった。
 辺り一面、白い巨大ミミズが蠢く川となった。恐るべき増殖スピードだ。その一部が山のように盛り上がってこちらに向かってくるのを見て、俺は力を振り絞った。
 麺をちぎりつつ外に転げ出た俺は、後ろを振り返った。全身の血の気が引いた。店の入り口は怪物を吐き出す魔物であった。うどんの間から突き出している腕を見つけた。白い袖から料理人だと分かった。調理場にいたので、逃げ遅れたのだ。
 助けなければ。だが、恐ろしい音を立てて壁にひびが入り、そこからサナダ虫達が顔を出すのを見て、間に合わないと悟った。もはや内部は謎の生物でいっぱいなのだ。店が崩壊し始めた。俺は立ち上がり、走った。
 人々の絶叫、車のぶつかる音。いったいどこへ行けばいいのか。そうだ、電話だ。警察か、消防署か、分らないが、とにかく連絡するのだ。俺はバッグを持っていない事に気がついた。ああ、畜生! どうやら店に忘れてしまったらしい。
 後ろを見る。ビルの谷間を白い川が埋めつつあった。俺が走っている道だけでなく、枝道にも入り込んでいた。人間を、自動車を、ガードレールを飲み込みながらうどんが増殖していく。
 いや、あれをうどんだと思うのはよそう。別次元からの侵略者だ。たまたま俺のどんぶりに、異世界と通じる扉が開いたのだ。
 なぜ俺なんだ、と思う。俺の跳び抜けた彼らに対する愛情が、引き寄せてしまったのだろうか。だとすると俺は彼らの良き理解者になるべきだ。
 冗談じゃない。あんな気味悪いの、分かりたくなんかないや。
 急がないと追いつかれる。だがこれ以上速く走れない。そうだ。もう少し先のコンビニを左に曲がって、歩道橋を渡って、喫茶店を右に曲がって、まっすぐ行った所に交番があったはずだ。
 俺は夢中で駆けた。心臓と肺が爆発しそうだ。
 ようやくたどり着いた俺の前に、仰天するような光景が広がっていた。
 交番は奴らに占領されていた。麺が完全に覆いつくし、蠢動している。別の道を通って来たのだ。
 前後からのサンドイッチだ。俺は横道に飛び込んだ。もうどうしていいか分からない。とにかく足を動かすしかない。料理人の最後の様子を思い出し、のどに酸っぱいものが込み上げてきた。
 俺は目についたビルに駆け込んだ。自動ドアが閉まった瞬間、サナダ虫の群れがガラスに激突した。そこにいた男も女も驚愕し、叫び声を上げた。
 ざまあ見ろ。これでもう追ってこられないだろう。しかし、俺の考えは甘かった。彼らの重みでドアは開いた。
 慌てて周りを見る。受付け、ソファー、吸殻入れ。何かの会社のようだ。左の奥にエレベーターがある。タイミング良く、扉が開いた。俺はダッシュした。
 出てきた人々はこちらを見ると慌てて中に戻った。俺は彼らに混じって入った。
 各階で止まるたびに、下から逃げてきた人間がなだれ込んでくる。ついに重量オーバーを知らせる音が鳴り、中の奴と外の奴の間で争いが起こった。俺はその間を縫って廊下に出た。階段を見つけた。もう、上に逃げるしかないのだ。たくさんの人が右往左往している。俺は走った。
 階段にも大量の人間がいた。俺は嫌がる足を無理やり動かした。
 ついに屋上に出た。疲れ切った体を引きずり、フェンスに近寄った俺は愕然とした。
 下は、白い川で埋め尽くされていた。車も人も街路樹も飲み込まれ、低い建物は蜘蛛の糸で包まれたようになっていた。奴らはビルの外壁にもまとわりついていた。
 後ろで悲鳴が聞こえた。振り返ると、階下へ通じる口からミミズどもが吐き出されてきた。


「ちょっと、そんな話されたらうどん食べられないじゃないの」と香奈は言った。
「本当さ。それで俺ここに引っ越して来たんだもん」
 俺は新しい街に来て、速攻で全てのうどん屋を回った。彼女も作った。本場の讃岐うどんを食わせてくれる店を見つけ、香奈を誘ったのである。
「うっそー。だってそんな事本当にあったら、大ニュースになってるでしょ?」
「さあね。きっと隠蔽したんじゃないかな」
 誰が? どうやって? と聞かれたら困る。幸い、彼女はそんな事には関心がないようだ。今行っても、奴らはもういない。
 大学は遠くなった。電車で二時間かかる。だが、これでいいのだ。ここは平和だ。
「いっただっきまーす」
 香奈は頭を下げ、麺をすすった。
 うどんが来るまでの待ち時間、彼女には秘密を打ち明けてもいいんじゃないかと思い、しゃべってしまった。良かったのだろうか? まあ、まるっきり信じていないようだから、構わないが。
 連中はどうして俺をターゲットにしたのか。ま、上等な味が分かる舌の持ち主だからな。もっとも、あの街に住む全員が標的だったとも言える。なにしろ「うどんの里」だ。みんな上品な味覚を持っているだろう。
 まったく平気になってしまった俺としては、自分の脳がどういう状態になっているかなど想像したくもない。きっとコードを差し込んでいるかのように連中がつながってて……。
 でも、と俺は箸を割りながら思う。これって、共食いじゃないの?
 涙腺の辺りから細長いものがにょろりと出てきたので、俺は慌てて引っ込めた。

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