雨が降っている。もう夜の十二時を過ぎている。もう寝なくちゃ、と思いながらも、僕はなんとなく眠る気がせず、二束三文のSF小説を読んでいた。
 ふいに、トントン、トントンという音が聞こえ、僕は雨が間断なく降りそそいでいる窓を見た。僕はびっくりした。なぜならそこには、がりがりに痩せ細った幽鬼のようなあの男が窓にへばりついていたのだから。
 それが、あの男と僕との出会いだった。男……とは言ってもかなりの老齢だが……は、僕が窓を開けてやると、「うーん」とうなりながら這い登ってきた。
 僕はとまどいながらも男に声をかけた。
「ど、どうしたんですか。大丈夫ですか」
「み……水……」
 僕は冷蔵庫にとんでいって、ミネラルウォーターをコップに注ぎ、急いで自分の部屋に戻った。
「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……、あ、有り難う」
「一体どうしたんですか」
「す、すまないが、何か食うものはないかね」
「ちょっと待ってて下さい」
 男は見たこともない服装をしていた。いや、待てよ? どこかで見たような服装だ。でもどこで見たんだったか……。ともかく僕は、晩飯の残りをレンジでチンして男に食わせてやった。
 男は涙を流しながら、茶碗一杯の御飯と、肉ジャガを有り難そうに食うのだった。
「銀シャリと、ジャガイモと、そして肉! 奇跡じゃ。奇跡のような料理じゃ」
「あなた、一体誰なんです?」
 男はバクバクと飯をたいらげ、それが終わると、今度は悲しみの涙を流しながら言うのだった。
「わしは……やっとの思いで日本に帰ってきたのじゃ。そして沢山の人々に聞いて歩いたのじゃ。W戦争はどうなった、日本は勝ったかWと。ところが皆、日本は負けた、天皇陛下は単なる象徴となったと言うのじゃ。ところで、今、昭和何年じゃね」
「昭和? つい最近W平成Wに変わったばかりですよ」
 ニュースで政府の偉い人が、カメラに向かってW平成Wという文字を掲げてみせたのが、ほんの一ヶ月前のことだ。
「なんということじゃ。昭和天皇陛下が崩御されたというのか」
 僕はやっと思い出した。それは歴史の教科書にのっていた。男の格好は兵隊そのものだった。
 そんな馬鹿なっ! ジャングルをさまよっていた日本兵が、戦争が終わって何年もたってから発見されたという話ぐらいだったら、僕だって知ってる。でも今頃になって日本兵の生き残りが、僕の部屋に現れるなんて!
「それで、日本はどんな負け方をしたのかね。なんでもキノコがどうしたとか……」
「知らないのですか。そのキノコってのは、キノコ雲のことですよ。本土決戦なんてありませんでした。日本はアメリカから、広島と長崎に原子爆弾を……あ、いや、原子爆弾という名前の恐ろしく強力な爆弾を落とされて、それで降伏したのです」
 僕はその後に日本がたどった運命を、男に語ってやろうと思った。だが、やめた。戦後の焼け野原、マッカーサー元帥、日本国憲法……。この老人に理解できるとも思えなかったし、僕にしたところで、学校の授業や、いろんな本や、映画、そんなものから知ったことに過ぎないのである。


 翌日、僕は男に僕の服を着せてやって、街を案内して歩いた。街は髪を金色や茶色に染めたカップルで埋めつくされていた。(大学生にしては贅沢だと思われるかもしれないが、当時僕は渋谷の月十万九千円のアパートに住んでいた。)
 ほら、あれはディスコという、若者達が踊って楽しむところですよ、あれはゲームセンターというものですよ、あれは何でも揃う百貨店ですよ、と、僕は始終周りをキョロキョロし続ける男に説明しながら歩いていった。
 僕は、男が現代の文明にびっくり仰天するだろうと思っていたのだ。
「物であふれかえっている。こ、これが私が渇望した、W故郷Wなのか」
 男は言った。みな不必要な物ばかりを買い、不必要な物を身につけ、不必要なことばかりをしている、と。「今の若いもんは」的な話に、僕は少々うんざりした。
「ハハハ、確かに、あなたの時代に比べれば贅沢になったものです」
「物は豊かになったじゃろう。その代わりに心が貧しくなっていく。このまま心がすさんでいけば、人間は再び間違いを犯すじゃろう」
「戦争のことですか。大丈夫ですよ。なにしろ今は、W平成Wの時代ですからね」
 男は深々と嘆息した。
「もうよい。十分じゃ。わしはなんとか一人でやってくよ」
「そうですか……。まあ、もっと田舎の方に行ってみることです」
 僕は男に、当面の生活費です、と言って五万円渡した。男は有り難う、有り難うと言いながら去っていった。


 あれから十年。僕はしがない営業マンになり、炎天下の東京で、ちょっと一休みしようと入った喫茶店で、アイスコーヒーを飲みながらぼんやりとあの時のことを思い出しているのだった。
 あの男は一体何だったのか。本当に日本兵の生き残りだったのだろうか。分からない。
 物質が豊かになるにつれて、その反対に精神はどんどん貧困になっていく。人々は贅沢になり、少しの苦痛にも我慢できない。でもいいじゃないか。こんなに平和なんだから。
 あの男は、日本人が忘れ去ろうと努力してきた忌まわしい過去からやって来た。老人以外は知識としてしか知らない戦争の記憶。もちろんあの時の記憶を忘れてはいけないと叫び、今に伝えてきた人達もいるだろう。しかしその記憶は、どんどんお話の中の世界でしかなくなっていく。
 一九九九年、少なくとも僕の周りには戦争の、「せ」の字も感じられず、ノストラダムスの予言も当たりそうになかった。
 もちろんその時僕は、まさにその瞬間にアメリカ大統領が、核ミサイルの発射ボタンを押したことなど、知るよしもなかった。
 突然喫茶店の窓の外が、真っ白な光に包まれた。僕が最後に見ることができたのは、戦争で崩壊した後に必死の努力で復興を遂げ、ようやく築き上げた豊かな文明が、一瞬にして崩れさっていく姿だった。

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